松田陣平

- 松田陣平only -
「ァ、 ん」
絶え間ない、甘波が止まる。
ピリリ、と鳴り響いた機械音に、嗚呼と目が醒める。コールが繰り返されるより先に、携帯を取った彼が「松田」と短く答える。その声は既に、わたしの名前を繰り返す恋人のそれではなくなっていた。
ほう。と、息をする。
熱に浮かされた体を、蕩けた頭を少しでも冷やしたくて。
とんと、背中を指で叩かれた。そのサインに気づいて頷くと、繰り返しわたしの膣を暴いてそれがずるりと抜ける。転び出そうになった声を飲み込んで、重い身体が望むままくたりとベッドに沈む。いつもそうして見せると労わる様にわたしを抱きしめてくれる熱は、さっさとベッドを下りて歩いて行ってしまう。
カチャ、カタリ。
扉を開けて、洗面所に向かったのだろう。
その間も、誰かと話しているようで「現場は」「要求が」「対策班に」と、掠れて声が聞こえてくる。きっと、彼は直ぐに仕度をして現場に向かう。何か手伝いたいけれど、甘い疼きを忘れられない身体では邪魔になるだけだろう。ならせめて見送りだけは、そう思って起き上がるのと、すっかり身支度を整えた彼が寝室に戻って来るのは同時だった。
「ゆき」
「ん」
「悪りぃな、呼び出しだ。行ってくる」
頬に張り付いた髪を解いてくれた指が、唇を撫でる。冷たいブルーの瞳の奥に、まだベッドの中にいた彼の熱を感じて、誘われる様にして目を閉じた。どちらが望んだのか解らない口付けは軽く、しかし、身体を重ねている時よりもずっと名残惜しさだけを残していく。
「気を付けてね、待ってるから」
「ああ任せておけ。いつも通り、さくっと解体(バラ)して帰ってくるさ」
少しその返事に軽さを感じて「緊張感」と、彼の唇を指で塞いだ。彼は何時もの不敵な笑みを浮かべて「誰に言ってんだ」とイタズラにわたしの指を齧る。
「玄関まで一緒に、」
「良いから寝てろ、こっちは無理させた自覚があるんだ。見送りは、コレで十分」
起き上がろうとしたわたしをベッドに沈めて、噛みつくようなキスをひとつ。今度は名残惜しさも残さずに、「行ってくる」とだけ残して寝室を後にする。ただの一度も振り返らずに、恋人は行ってしまった。
一人残された寝室で、あの熱を思い出した。
どうしようもなく、わたしを悶えさせる彼の熱。
身体を捩ると、シーツが這う。そのもどかしさは、全く似ていないのに彼の指を思い出してしまう。そんな卑しい自分に見ないふりをして、カーテンの隙間から差し込む灯りに誘われて、天高く昇る月を拝んだ。
彼が今日も無事に帰ってきますようにと、祈って。
「ゲッ」
「え」
同棲中の彼氏を出迎えたら、「げ」っと言われた件について。
「おま、なん で 今日は遅くなるって…」
「飲む予定だった友達が仕事抜けられなくなったから、」
「あ ああ、そういう… ッチ、なら連絡しろよ」
そして、舌打ちと来た。
苛ついた様子を隠すこともせず、頭をガシガシ掻きながら靴を脱ぐ。そのまま足取り荒く通り過ぎようとするから、理由の解らない焦燥感ばかりが募る。「陣くん」と引き留めるように出た言葉は、迷子の子どものようだった。しかし、伸ばした手は彼を掴むことができず、振り返った彼の手に弾かれ、パンッと乾いた音がした。
「ッ、触んな!」
なぜ。
____閉じた洗面所の扉、廊下に一人残されたわたし。どうしてこんなことに、頭の中で渦巻く疑問の答えを探そうと、大急ぎで記憶のリールを巻き戻してみるが、特に可笑しなところはなかったと思う。連絡だって、(今まで、そんなことで怒られたことは一度も)
靄々する思考を振り払って、キッチンへ戻りコンロの火を止めた。…せっかく作ったお夕飯も、もしから無駄になってしまうかもしれない。そうと思うと、全身がずしりと重くなる。まるで大きな鈍りをつけられたように重い足を引きずって、ソファに腰を落とす。
(何か難しいことがあって、機嫌が悪いのかも)
わたしの彼は、警察官である。
所属は警視庁、警備部機動隊は爆発物処理班。名称通り、爆弾処理を専門に扱う隊であり、彼の仕事は何時だって死と隣り合わせの危険なものだ。一歩間違えれば自分も仲間も命を失う緊張の中に、24時間晒されている。…そのストレスがどれほどのものであるなど、想像もつかない。
(特に爆弾に関するニュースはないけれど、もしかしたら未だ一般に公開されていないだけかもしれないし)
ネットニュースとSNSを一通りチェックしてみるが、彼の不自然な態度に繋がる原因は見つからない。…ああ、やっぱりわたしが何かしてしまったのだろうか。そう思うと、胸の辺りがぐっと苦しくなって泣きそうになる。強くてかっこいい彼に見合う女になると決めたのに、こんな体たらくでは愛想を尽かされても仕方ないじゃないか。
気持ちを紛らわせるために携帯を握り締めていると、ガチャリと扉が開く音がした。結局、原因に思い当らないまま、再び対面することになった人は、すっかり湯上りの様子で「アッチィなあ」と頭をタオルで掻きながらリビングにやって来た。
涼やかなブルーの瞳が、ソファに座るわたしを見つける。頭の奥でパンっと乾いた音がした。ああ、わたし怖いんだ。彼に嫌われたくなんだ。___それに気づいた時には、もう動けなくなってしまった。…ぎゅうと、後ろから彼に抱きしらめて。
…ン?
「え、 あの、 じ、じんくん」
「んー…?」
「わ わ、髪の毛濡れたままで、風邪ひいちゃうよ」
ぐりぐりと彼がわたしの肩に額を擦りつける度、濡れた髪が頬を擽る。慌てて制止すると、彼から責める様な視線を感じて心臓が跳ねる。も、もしかして、また怒らせて…。イヤな予感に震えるわたしから、彼がそっと離れていく。そしてソファを回って、わたしの前に座ると「ほら」と湿ったタオルだけ渡された。
(…どうしてこんなことに、)
「……ふわ」
欠伸をしている彼の髪を、とんとんとタオルで乾かしながら考える。あ、あれ、いつも通りだ。なら、玄関でお出迎えした時のアレはなんだったんだ。でも聞いたら藪蛇かな、それでまたさっきみたいな空気になるのもイヤだし。どうしよう。
「メシなに」
「えっと、からあげの黒酢和えと、ナスのお味噌汁と、それから」
「フハッ、ぜんぶ俺が好きなやつじゃねぇか」
メニューをきいた彼が笑う、そうだよ。疲れて帰って来たあなたが、皆のために命を張って頑張っているあなたが。少しでもいいから、お家でお腹いっぱい美味しいものを食べてゆっくり休めるようにって、たくさん考えたの。
いつも通りの夕食の後、一緒のベッドで眠った。背中から抱き込むようにしてわたしの手に触れて、「悪かったな」とぶっきらぼうな声がいう。「いいよ」と言って背中の彼に身を預けると、愛してるの言葉と一緒につむじにキスをくれた。それだけでわたしはとんとさっきのことなんて忘れて幸せになれてしまうのだから、本当に安い女だ。
「___って、ことがあって」
わたしの話しに、彼の幼馴染は訳知り顔で「あー、なるほどねぇ」と笑った。
「陣平ちゃんに直接聞かなかったの、その日機嫌悪かった理由」
「…上手にきけなくて、」
「なるほどなるほど、いやあホントに罪作りな男だよ。事件事件で署に泊まり込みって言やあ、着替えと手作り弁当持ってきてくれる健気でかわいい彼女を、つまらねぇもんで不安にさせて」
「つまらない?」
含みのある言葉が気になって繰り返せば、幼馴染さんは視線だけわたしにくれた。「知りたい?」という悪魔の囁きに迷う、しかし誘惑には敵わず、小さくこくりと頷くわたしに、彼は飽きれることもなく丁寧に教えてくれる。
「さっきゆきちゃんが来たら、アイツ慌てて奥に引っ込んだろ。さっきまで炎天下でピリついた現場にいたから、いつも以上に気になったんだろうさ」
「何、がですか」
「んー、ほら見て。これが俺達、機動隊の隊服なんだけど」
幼馴染さんがわたしが良く見えるように腕を広げてくれる。一度だけ写真で見せてもらったことのある爆発物処理班の制服は、顔以外の全てをきっちりと覆われている。「どう思う」と彼がきくので、わたしは少し考えてから「暑そう、かな」と答えた。
「そう! あっちぃのよ、特に今日みたいな夏日はサイアク。少し外歩いただけで服の中がサウナ状態だし、汗ダラッダタよ。でもちょっとの着崩しが命に関わる仕事なわけだし、ダラしなくもできないわけ」
「はい」
「今日は待機だったからいいけど、もし松田と一緒に現場出てたら、こうやってゆきちゃんとお話してられないよ〜? 俺も速攻でシャワーいくね、男の汗くせぇのなんて好きな女の子いないでしょ」
「はい……、え」
「うん、つまりそーいうこと」
首を傾げて、語尾にハートが付きそうなほど甘い声が言う。え、まさか、そんな理由なの…ぽかんとしているわたしに、幼馴染さんは「アイツも大人になったねぇ」と何かを懐かしむように笑っていた。そんな秘密話が終わるのと、廊下の向こうから彼が戻って来たのは同時だった。
「お、陣平ちゃん戻って来たか。そんじゃ、邪魔者は退散退散」
「萩原さん、あの」
「ああ、何も言わないでくれよ。…相棒の大事な秘密を教えちまったってバレたら、俺も立場がねぇからよ」
こそりと、顔を近づけて伝えてくれた声は小さく、きっと陣くんには聞こえていない。代わりに、「萩ィ!」と威嚇する様な咆哮が響き、幼馴染さんは「お〜、こわい」と、まったく怯えていない顔で言って、そそくさどこかに行ってしまった。
「アイツ、テメェの女がいるくせにチャラチャラしやがって」
「陣くん…、シャワー浴びてきたの」
「ん、ああ…」
彼は言葉を濁しながら「別にいいだろ」と、タオルごと乱暴に頭を掻いた。
「…ちゃんと乾かしてね、風邪ひかないように」
「わあってるって、お前はい〜っつもそれだな」
「だって、陣くん時々びっくりするほどだらしないから」
「体の鍛え方がちげぇんだ、早々くたばるかよ」
「それでも」
彼の手に触れて、「心配になるから」と小さな声で伝える。彼はいつもサングラスで隠している瞳をぱちくりと丸くすると、そっぽを向いて「った」とだけ言った。
今はそれだけで十分だった、
「わたし、どんな匂いの陣くんも好きよ」
「…… …… _____萩ィ!! テメェ!」
ぽろりと出てしまった独り言に、すべてを察した彼が幼馴染さんと全力鬼ごっこを初めてしまい、止めるにとっても苦労したことだけ、ここに記しておく。やっぱり、陣くんは怒ると怖い。
「オイこらてめぇ、止まりやがれ」
「わたしてめぇって名前じゃないもん」 スタスタ
「動くなっつってんだろう!」 後ろからがしっ
「キャ、いったいな わっ」
「すーーーー」 首筋の匂いチェック
「ね、な」
「すんすん」 頭チェック、右左くんくん
「ふ ふふ、くすぐった やめて!」 松田の頭を押し退け
「…」 じとり…
「もう、なんなの!」
「…知らねぇ匂いがする」 ぽそ
「え、 にお… はあ?」
「どこの馬の骨と遊んできやがった? 俺が優しく聞いてやっているうちに答えた方が身のためだぜ」
「馬の骨って、別に誰とも遊んでない… 匂いってなんのこと、何もしないじゃない」 手首くん
「ああ゛? 他所の男の匂い染みつけておいて、シラァ切るつもりか!?」 壁ドン
「いっ いいがかり!」
「なら証拠だせよ」 ずい
「証拠、って そもそも遊んでないのにどうや ン、」 黙らせちゅう
「___」
(足、の間に 陣平の、動けない だめ、息が)
「___」
(舌、はいって にが、い タバコの、)
「_____はあ、」
「ん、 ぁ」
「…ハッ、てめぇも乗り気じゃねぇか」
「っ ばかいわな、 やめて、もう 嫌い、どっかいって」 ぐい
「おい」
「…」 そっぽむく
「ゆき」
「! こんな時ばっかり名前で呼んっ んぐ」 ぎゅう
「ゆき、」 ぎゅーっと抱きしめる
「…」 絆されかけてる
「テメェは俺の女だろう」
その後、きっちり誤解は解いたし。今後は松田陣平※彼は特殊な才能を持っています※の匂いによる一方的な浮気判定は禁止された。