スコッチは にげられない!

「乳臭いガキでも、あなたよりずぅーっと偉いの。知ってた?」
そういって、ためらいなく一人の命を奪ったのは…レースのイブニングドレスに身を包んだ少女だった。
鈴がなるような声で英語を操り、さくらんぼ色の唇で俺の手にキスをした。黒いたっぷりとした髪に深い朝焼け色の瞳の、あどけない笑みを浮かべる可憐な娘。
彼女は、ノチェロ…クルミのリキュール。
黒の組織において、酒やカクテルの名前(コードネーム)は幹部を意味した。
工作員として組織の末端に潜り込み、初めての仕事で“幹部”にお目にかかれるなんて幸運に他ならない。上官の話が本当なら、いままで日本の…公安所属の工作員は、誰一人として組織の中枢に辿り着けていない。幹部の顔を見る前に、任務あるいは正体がバレて殉職したという。俺はどうやらツイているらしい。しかも探れば、相手は組織における実質のNo3に位置しているらしい。
ノチェロの主な仕事は、組織の息がかかった企業の運用・運営。資金繰り。戦術支援を初めとした、支給品のバックアップ…。ラムを黒の組織の屋台骨とするなら、彼女は組織の看板を整える整備士だ。世界各国に拠点をもつだけの強大な犯罪組織、それはつまり、規模に比例してそれだけでかい金が必要であるということ。組織が社会に根刺し、何らかの目的の為に活動している以上、経済への関わりは不可欠だ。目的が崇高であればあるほど、どうあがいても金がかかる。先の話が真実なら、組織の金は彼女の指先ひとつ…ネズミが忍び込むのにこれ以上贅沢な穴はない。
(問題があるとすれば、それは)
ノチェロを名乗る彼女が、想像以上に幼い同郷の人間であったということだ。
組織で仕事を熟し続けて一年と少し…俺は、狙撃手としての腕を評価され“あのお方”からコードネームを与えられた。
幹部昇進である。考えていた以上に早い展開に、本局は混乱しているようだった。これまで公安警察の工作員が行動を怪しまれてきたのは、あくまで“手は汚さず”に内部に忍び込むことを徹底したから。同じリスクを背負わずに、上手い蜜だけ吸おうとする奴らなど、スパイでなくとも鬱陶しがられるのは当然の理屈だ。その点、“狙撃手”として接触した俺はあらゆる関門をパスすることができた。狙撃手に求められるのは巧みな話術やまどろっこしい麻薬のルートでもない、“死”か“生”だ。指定されたターゲットの息の根を止める、これだけのことを確実に熟せばすぐに俺の地盤は確実なものとなった。死の数だけ、組織における信頼が積み重なる。そして俺は血に染まる____だが、これでリスクを負うことの重要性が立証された。公安はこれから、工作員のアプローチを再検討するだろう。
最低限、それまでの間、俺は幹部である必要がある。名無し(ノーネーム)からは脱したが、狙撃手である俺はコードネーム持ちとしても弱い。狙撃手の様な実行部隊は、代えが効く駒だ。今回の昇進にしたって、先の任務で狙撃手のポストに穴ができたからこそ。今のままでは、俺はただの歩兵。…もうひと押し、何かが欲しい。例えば、コードネームをもつ…代えの利かない重要な役割をもつ幹部との関係性。実行部隊を仕切るジンはダメだ。彼は危険すぎる、警戒心が強く妖しきは罰せよの行動理念に則り、ホワイトカラーであっても容赦なくトリガーを引く。大した餌ももたない今、彼にアプローチをかけるのはハイリスクだ。
だからこそ、襲名式の事件は俺にとっては渡りに船であった。
「ベッドに降ろして、そうそっち」
俺の車で移動した先は、当然のごとく5ツ星の最高級ホテルであった。ノチェロが望むまま、抱き上げて移動すれば、最上階のVIPルームに通された。格別に広いというわけではないが、調度品のひとつひとつに歴史を感じる重厚感のある部屋だ。いくつものベールに覆い隠されたベッドへと彼女を下ろせば、細い肩がふうと息を漏らす。
「つかれたあ〜 車で移動しただけだけどつかれた〜 あ、スコッチ靴脱がして」
ぴんと白い足が持ち上がる。パンツ見えているぞ、バカ。望まれるまま足を膝の上に置いて高そうなミュールのフックを外す。同じように逆の足も脱がして、ベッドサイドに置いた。
「今日はこの部屋しかとってないの、だから悪いけど一緒に寝てね」
「はあ?」
当たり前のように、ベッドをポンポン叩かれた。唐突過ぎる内容に思わずそんな声がでてしまう。はっとするがもう遅い。眠いのだろう、とろんとした目をしたノチェロが「なによ、不満?」と頬を膨らませる。いやいやいやいや待て、そうじゃなくて。
(おいおい、こんな子どもを抱くなんて冗談じゃない…!)
必要があれば、女と夜を明かすこともある。こんな仕事をしているから、欲を吐き出すという行為はどうにも生活から切り離せない。だが、それと、これは、別の話だ!改めて、ベッドの上で肘をつくノチェロをみる。…柔らかそうな頬、手に触れた足の感覚…声音。大きく見積もっても、十代後半がいいところ、対してこっちは二十代後半のおっさんだぞ!?
「…聞いても、いいか」
「んー?」
「お前は」
「ノチェロでいいよ。他にも、シェルクンチーク、ノーチャ、のんちゃん、って呼ぶ人もいるかなあ。スコッチの好きな呼び方して」
「…ノチェロ、は その、いくつになる?」
「ん?」
「年齢だよ」
女性に対して年齢の話がタブーであることは承知で。ノチェロはきょとんとした顔をしたあと、天気の話をするようにあっけらかんと答えた。
「んーと、今年でにじゅう」
(にじゅう…!?)
「にじゅう…に、だったかな?」
「にじゅうに!?」
まてまてまて、じゃあ俺と初めてあったとき彼女は二十歳、あるいは二十一歳だったということか。
若すぎる、想定より年齢が上だったが、それにしても若いだろう。一体何歳の頃から、組織にいるんだ。
「あ、なんか勘違いしているかもしれないから言っておくね。べつにエッチなことしましょう〜って誘ってるわけじゃないから」
「は、はあ…?」
「本当に一緒に寝たいだけよ」
にこっとわらうノチェロ。いや、それもそれでどうなんだ。これはどういう反応が正しいんだ。言葉を選びかねている俺に、ノチェロは四つん這いで近づいてきた。
「ねーえ、お風呂いれてー。 あ、お腹すいていたらルームサービス取って良いよ。でも、一番風呂はわたしね」
「あ、ああ、わかった」
「そしたらスコッチもお風呂はいって、一緒にねよ。明日は9時に起してね」
「明日は、何か予定があるのか」
「それは明日のお楽しみぃ。 ねえねえ、お風呂入れたらついでにそっちのクローゼットからパジャマとって。スコッチが一番気に入ったパジャマでいーよ」
「俺が?」
「うん。お兄さんの好みが知りたいの」
…本当に、なんなんだこれ。
取り敢えず言われたことは熟した。飄々としているが彼女も組織の幹部、機嫌をそこねたらどんな風に豹変するかわからない。注意を払いながら、彼女の望む言葉を返す。いやでもパジャマは良くわからなかった。とりあえずスケスケは衛生上宜しくないから、しっかりとした布のかわいらしいデザインをチョイスした。それを広げたノチェロが「少女趣味?」と見てはいけないものを見たという風に笑ったが、違うからな。っていうか、それお前が買って来たんじゃないのか!?
「じゃあ、おやすみ〜」
(????????)
普通に寝やがった。しかも熟睡だ、多少物音を立てても全く起きる気配がない。…警戒心ゆるゆるすぎないか?よく組織で生き残ってこられたな、この子。
ベッドを抜け、妖しまれない程度に室内をチェックした。盗聴器、監視カメラはもちろんのこと、ルームサービスの注文履歴、持ち込み私物、使用している備品…。何が、後で役に立つかはわからない。だから、全て記憶するというのが、俺のやり方だ。良く知る友人からは非効率的と言われたが、こればかりはしょうがないと言わざるをいえない。性分なのだ。
結局発信器の類もひとつも見つからず、俺は大人しくベッドに戻った。持ち込んでいる私物は服と靴のみでパソコンもない。つまり、現状俺ができることはないということ。素直に眠ることにする、…こんなふかふかなベッド久しぶりだ。となりに眠るノチェロからはフローラルな香りがする。最近はドキツイ香水のセレブか、娼婦ばかり相手にしていたから、こういうのは久しぶりだ。ちらりと見れば、あどけない寝顔がそこにある。
俺には兄弟というものがいないが、…妹がいるというのは、こういう雰囲気なのだろうか。ただの記号だろうが、なんども「お兄さん」と呼ばれたことを思い出す。ああ、それこそ兄と妹のようじゃないか。二人とも日本人、年端もぴったりだ。それが彼女の作戦なのかは解らない、だからこそ注意が必要だ。
(情はいらない、俺はただの狙撃手)
冷静に、粛々とあれ。_____あどけなくとも、彼女も犯罪組織のひとりなのだ。
あの日、彼女が男を殺した景色(シーン)を思い出す。同情など必要はない、“俺は彼女を何時だって殺せる”。
目覚ましがなくても、何時も通り5時に目が覚める。むくりと起き上がると体が重い、…ああ、やっぱり寝るには地面かせんべい布団に限る。贅沢をし過ぎると、逆に体が言うことを聞かない。隣を見るとノチェロはまだ夢の中だ。涎でてる、良い夢を見ているのかもしれない。
(さて、まずは…)
枕の下に隠しておいたハンドガンを抜き取り、ジーンズの背に押し込む。昨夜仕掛けて置いた仕掛けを確認する…どうやら俺がポカして気づかなかった侵入者はいないらしい。ギターケースの…ノチェロ曰く恋人も問題ない。服装は1日分しか携帯していないので着替えは不要だ。洗面を借りて軽く身を整える。ルームサービスと朝食の予約はしてないようだ。朝飯はどうするつもりなのか、これからどんな仕事を任されるのか、考えることは絶えない。ちくたくと進む時計の秒針を数え、周囲を警戒しながら時間が過ぎるのを待つ。地味だが、狙撃手もスパイも“待つ”のが仕事だ。今更苦に思うということはない。
「ん〜… ねむっ」
9時。ジャストにノチェロを起した。眠り足りないのか、ぺたりとベッドの上に座ってもちゃもちゃと口を動かしている。ウサギかな。ふわあという大きな欠伸をしている彼女に、「朝食は」と聞けば、「洗面つれてってー」と別の答え。…はい、わかりましたよ。子どものように手を伸ばす彼女の体を抱き上げて、洗面へと連れて行った。
45分経過すると、インターホンが鳴った。目覚めの紅茶を淹れれば、マズイと言われ微妙に気分が悪いところに来客だ。「でて」と言われたので、警戒しながらも開ければ黒服たちが数名控えていた。後ろ手にハンドガンを構えながらむかえれば、仰々しく辞儀をされる。
「スコッチ様、おはようございます。ノチェロ様とお約束があり参上させていただきました」
「…身分を証明できるものは」
「ないわよ、だって名無しのカカシちゃん(ノーネーム)だもの」
何時の間にかノチェロが後ろにいた。俺が驚いて振り返ると、彼女は大らかに笑って「はいってー」と踵を返す。ぱたぱた走る彼女の後ろを「失礼いたします」と黒服が続いた。…数は4人、中肉中背の男。黄色人種、顔の作りからして中国人(チャイニーズ)か。まあ、整形していなければの話だが。
ノチェロが腰かけたソファを中心に、黒服たちがトランクを開きはじめる。資材を広げる黒服に混じり、ひとりの男が郵便物の様なものを彼女に手渡し始める…あの男がリーダーか。
「ノチェロ」
「んー」
「仕事をするなら、俺は邪魔だろ。 外で待機するか」
「どうして? 傍にいてよ」
…そう来るか。
「俺が見てもいい書類なのか」
「問題ないよ。 傍にいてくれなきゃジンから貰った意味ないじゃん」
こっち!とソファをぽんぽん叩く…座れということらしい。大人しく指示に従う、ちらりと見れば彼女が目を通している書類は解読できない言葉で書かれていた。ロシア語か。俺の目線に気づいたノチェロがにまりと笑った。
「ね、問題ないでしょ?」
「…ああ、そうみたいだ」
「ねえ、スコッチは英語上手ね。日本語は母国語だから当然だとして…他に喋れる言葉は?あと識字も」
「中国語を少し」
「繁体字?簡体字?」
「簡体字」
「中国語は両方マスターして。 あとロシア語とドイツ語、余裕があればイタリアとエジプトもいこうか」
「…」
突然の無茶ぶりに頭がフリーズする。固まる俺に、ノチェロはにっこりと笑って膝の上にのしかかってくる。
「あと、体の作り方が甘い。狙撃手に接近戦は不要だと思ってる? 今日からわたしの護衛を兼ねてもらうんだから、もうちょっと何でもこなせるようになって貰わないと。…それこそ、アメリカドラマのスパイみたいに」
「…限度があるぞ、俺はそんな器用じゃなし、俳優でもない」
「出し惜しみしちゃイーヤ」
言いながら、膝の上で寝返りをうちロシア語で指示を出す。
「あと、スコッチ用に勉強資材をおねがい。 それにBCCにアポとって、アッカーソン大佐を空けてもらえるように調整を」
「畏まりました」
「ジンのお仕事が終わったらフロリダに飛ぶわよ。そこでスコッチはネームド用のブートキャンプといきましょう」
「…拒否権は、ないんだな」
「ふっふーん、もちろん! あと美味しい紅茶の淹れ方も教わって来てね!」
口元をひくつかせる俺に、ノチェロは嬉しそうに抱きついて来て死刑宣告をくれる。…任務の前に、彼女の無茶ぶりに殺されそうな気がしてきた。これならただの狙撃手でいた方がマシだったかもしれない。