マーリンが取りこぼした幼馴染のはなし


「人間ごっこしよう」
握り締めた指は、雪の様に冷たかった。
肥溜めに彼を突き落としたくせに、汚いから湖の水で洗って来いとヒステリックに叫ぶ老女の声が今も頭から離れない。従順な人形である彼は頷いてそれに返し、冬のくもり空の下で湖に沈むのを見てぞっとした。
____死んでしまうと思った。このまま見ないふりを続けてなんていられなかった。キリキリと痛む胸を逆手で握り締めながら、慌てて引き上げた彼の手を握って決死の覚悟で口にした言葉だったが、どうにも相手には伝わっていないようで。「え、」と否定とも肯定とも似つかない声は、きっとただの反射なのだろう。けれどわたしには、それがとても、寂しいものに見えてならなかった。
「このままじゃダメになる」
「…」
「こんなことを繰り返したら、本当に死んじゃうかもしれない」
「…」
「だから人間ごっこしよう、シスターたちの前だけで良い。精霊じゃなくて、人間のふりをするの。ほら、笑ってみてわたしみたいに ね?」
にこりと、ぎこちないながら微笑んで見せる。けれど、彼の表情に色は灯らない。
「笑って、ほら ほーら、マネっこするのよ!」
ぺちぺちと、白い頬を叩いて。指で無理やり唇の端を吊り上げてみる、「この形よ、これを保つの」と何度でも言い聞かせた。そうして三日かけて、彼が漸く笑顔らしきものを模倣した時は飛び上がるほど嬉しかった。事実飛び上がったし、拍手もしたし、ぎゅうと抱きしめて、頭を何度も良い子だと撫でてあげた。
「そうだよ! そうだよ、それだよ! 上手にできたね、凄いね。やっぱり、あなたはやろうと思えば何でもできる、なんにでもなれる! だって精霊と人間の子どもなんだもの、だから頑張って続けましょう」
「なにを」
「人間ごっこだよ、マーリン!」
それから、わたしは彼にいくつもの振舞いを教えた。人間らしい振舞いは、それまで教会で異端同然に扱われていた彼の境遇を少しずつ変えていった。まず目に見えて変わったのは、彼の母親だ。
その正体は然る王族の姫君と囁かれているマーリンの母親は、本当に美しい女性だった。マーリンを見る度に怯えてすすり泣いていた人が、彼が傍にいても動じなくなった。それどころか微笑みに似たものまで見せるから、教会のシスターは勿論、わたしも目が飛び出そうになるほど驚いた。
花のように儚く、嫋やかな笑みだった。……きっとその胎に月の精霊の子を宿すまでは、いつもそうして笑っていたのだろう。
「ちょ、ちょっとマーリン あなた何をしたの」
「なにって、…君が教えてくれた通りに」
「わたしが?」
「人間ごっこ」
にっこりと、マーリンが笑う。完璧な笑みだった、驚いて手を上げたり下げたり忙しなくしているわたしに「これは、とても合理的な手段だね」と無機質な声が語る。
「もっと教えてよ、人間はどうしたらの異端を恐れず受け入れる? 精神を曇らせる猜疑の霧を取り払える? 人間の営みに入り込む術が必要だ、来たる裁定の時に向けて___この瞳の役目を、果たすために」
「ひとみ、?」
「目が、なにか…特別なの」と訊ねてみるも、彼はただニコリとほほ笑むだけで答えをくれない。
「マーリンの目はお母さまに似ていないね。お父さま…精霊の瞳なの?」
「もっと特別なものさ」
「…まあ、たしかに特別キレイだけれど」
眩い紫苑を閉じ込めた瞳は、太陽の光を受けて七色に輝く彼の髪に良く似合っていた。
「夕焼けみたい」
真っ赤な色で包みこむ太陽の光は、まるで世界が燃えているような錯覚をわたしに覚えさせる。彼はもしかしたらこの世界に落とされた天使なのかもしれない、神の軍団を呼び寄せる終末のラッパを吹く時を待っているのだ。
「その特別な瞳には、この世界はどう見えるの」
「なにも、君と同じだよ」
「そっか」
彼は結局のところ、わたしの質問に真実答えてはくれたことなんてなかったのだろう。
そうして、わたしは彼が望むままに人間らしい振舞いを教えた。人間ごっこが中々板についたと思ったら、街にどこぞの王族貴族の使いだと名乗る騎士たちがやってきて「親を持たない子どもを差し出せ」と言う。なんだそれはと思っていた隣で、マーリンが「わたしのことかな」と自分から丁寧に名乗りを上げてしまった。
何やってんだこいつは。咄嗟のことにフォローすることもできなくて、気付けばあっという間に手錠を掛けられマーリンはどこかに連れて行かれてしまった。う、うそだどんどこどーーーん!
どどどどど、どうやって助ければ。と言うか、どこに連れて行かれたのか。
慌てふためくわたしのところに、白くて喋る鳥がやってきたのは暫く経ってのことで。驚くことに、その鳥はマーリンの声で「やあ」と、まるで久しぶりだねと言わんばかりのフランクさで言うのだから、「なんでさ!!!」と思い切り叫んだわたしは悪くないと思う。
「どういうことなの、どういうことなの!」
『母上から何も聞いていないのかい、一応説明はしておいたのだけど』
「どうりで冷静だと思ったよ!」
『すべて決まっていた運命の通りさ、だから三日後に行くよ。それまでに準備を済ませておいて』
言うだけ言って、鳥はその姿を百合の花に変えてしまった。キレイな百合だったので捨てるのも忍びなく、グラスに飾って三日後かあとぼんやり日々を過ごしていると、少し見ない内に妙に大人びた雰囲気になった幼馴染が「じゃあ行こうか」「へ」「準備は済ませておいてと言っただろう」と、有無を言わさずわたしを教会から引きずって馬に乗せて旅に出た。同伴者わたし、え。
「君は本当になにもできないなあ!」
ここの所、人間らしさというよりもクズっぽさが増したマーリンの笑みが癪に障る。「君の分」と言って放るように渡された樫の杖(鈍器)で殴ろうとしても、彼に繰られた蔦が足に絡まって上手く動けない。
「は ら た つ !」
「うーん…、一応魔力回路はあるようだし、ぼくが教えるのだから才能が無くとも多少の魔術くらいは扱えるようになるだろうと踏んでいたのだけれど」
「けど」
「まさか基本魔術のひとつ身に着けるのに、ここまで時間がかかるとは! 君の無能無才には恐れ入る! 監視者であり、預言者足るぼくをここまで騙して見せたのは、後にも先にも君くらいだろうねえ」
「なんだか自信をなくしてしまいそうだよぉ」としおらしい顔をして見せるマーリン、彼は精霊の合いの子らしく幼いころから不思議な業を操ってみせた。それは彼がもつ特別なギフトのひとつだと思っていたのだが、そうでもないらしい。
そういった特別な業を「魔術」という枠組みで囲い、技術に落とし、研究することを生業とする人間がいるということを教えて持った時は驚いた。彼らは「魔術師」と総称され、ヒトと神秘を繋ぐ架け橋として恐怖と畏敬の念をもって語られていた。
「そもそも、なぜわたしが魔術師に?」
「弟子のひとりもいない宮廷魔術師なんて、貴族に嗤われてしまうだろう。老いて停滞した栄養にもならない人間なんてどうでも良いのだけれど、それだとぼくを召し上げたウーサーの顔が立たない」
ね?と首を傾げて見せるマーリンに、わたしは迷わず十字を切った。
「…見ていますかシスター。あなたに悪魔だと罵られ人形のように扱われていたマーリンが、今や王族やら政治やらを語るようになりました。なんと生意気なことでしょう」
「懐かしいね、あのシスターだけど一昨日崖から落ちて足の骨を折ったようだよ。事故だと思われているけど、実はぼくの後釜として彼女のストレスの吐き口にされていた南通りのシェリルが仕組んだことで、あとひと月もしたら今度は誤飲事故を装って殺されるみたいだ」
…いやに長い預言(仮)をなんとも言えない気持ちで聞いていると、マーリンが反応を伺うようにこちらをみるので「それはまあ自業自得」と簡潔に感想を述べる。
「…冷たいなあ、幼い孤児であったあった君を引き取ってそれなりの年齢になるまで育ててくれた女性だろう。慈悲の心はないのかい」
「わたしのかわいいマーリンを虐めたんだから、そんなものはない」
今度は、ちらりとわたしが彼を伺う。その答えは予想していなかったのか、少しだけ丸くなっているライラック色の瞳に気が良くなって。無防備な腕を引き寄せて、近くにまで落ちてきた頭をむしゃむしゃと撫でる。
「良い子、良い子」
「…なにがかな?」
「人間ごっこが上手くなったねぇ、やっぱりあなたは特別な子。なんでもできる凄い子なんだよ、」
今では随分高くなってしまった頭を抱きしめて、「良い子だねぇ、マーリン」と呪いのように口にするわたしを、しかし、彼が突き離すことはなかった。
「本日より大魔術師様の門下に入ることになりました。モルガンと申します、どうぞお見知りおきを」
マーリンが新しい弟子だと連れてきた少女の名に、紅茶を吹き出しそうなってしまった。も、もももも、モルガンって。あの、もしかしなくてもウーサー王の実娘で、次期女王たる御方と同じお名前では!?
「すでに知っていると思うけれど、彼女がわたしの一番弟子と言うことになっている。すぐに君にとって代わるだろうけれど、一応形式上は姉弟子に当たるからね。それなりに扱ってあげてほしい」
「まあ、勿論ですわ! わたくし誰かと一緒に何かを学ぶというのは初めてですの、同じ師の下に弟子としてある間は、どうかわたしのことは妹弟子のように思ってくださいませね」
「あ、あはは は、 ご冗談を」
「わたくし、冗談はあまり好きではありませんわ」
ぎゅっと。わたしの手を握る妹弟子…モルガンは、まるで妖精の様に無垢な少女であった。しかし、その才覚は語るまでもなく、マーリンがイチを教えれば、翌日には千の魔術に昇華させて見せた。自らの研鑽を怠らず、この島のあらゆる神秘を指先一つで操る黄金を纏う少女姫は「王」というよりも、「妖精」そのものように見えた。
「モルガンはブリテン島の神秘そのものと言えるけど、それだとウーサーにとっては都合が悪いみたいでね。だから僕の下で魔術を教え、神秘と切り離して人間に落とし込む」
「…また、ウーサー王が何か企んでいるのね。マーリン、あなたまた厄介毎に巻き込まれていない? なんでもかんでも言うことを聞いていたらダメって、前にも言ったでしょう」
「覚えているとも。だから君の言う通り、ウルスベルクの件は断っただろう」
「…まあその所為で、わたしガチ怒られしたんだけどね」
今でも思い出しただけで震えが止まらない、視線だけで殺されるかと思ったのは後にも先にもウーサー王だけだろう。…二度も、あんな思いはしたくないという希望を含めて。
____『死にたくはなければ、二度と余計なことをするな』
聖剣を喉元に突き付けられて、それでも殺されずに済んだのはマーリンのおかげだ。「ウーサー王、それは本当に必要なことかい」と、マーリンが口を挟んでくれなかったらわたしは確実に死んでいただろう。しかし、それが決定打になったのも確かだ。
聖剣を収めながら、わたしを僅かに見る王の瞳は……排除すべき異物を、定めるものだった。ブリテン島にとって、ウーサー王という存在が絶対であることは前提として。しかし、今の治世に同じくらいマーリンの存在が不可欠なのだろう。少なくとも、ウーサー王の思惑の中にあって、彼は重要な役割を持つキーパーソンなのだ。
(だから、わたしが邪魔なんだ)
____ウーサー王にとって必要なのは、命令に従順で優秀な大魔術師。
その魔術師に自分以上に優先する存在があるということは、きっと______
「ミワ、それは君が考えてもどうしようもないことだよ」
「…しれっと心を読まないで」
「心を無防備のまま放っているのは君だろう、ぼくは悪くない」
「“良い子”だもの」「そうだろう」と、凭れ掛かってくる大きな子ども。随分と大きくなった身体を支えるのは大変だけれど、望むものを与えられないことに腹を立てたのがぐりぐりと頭を押し付けてくるから仕方ない。癇癪を起す前に抱きしめて、七色の髪を撫でる。
「良い子、良い子」
「うん、知っている」
____死ぬのは、別にかまわない。
(けれど、どうかそれまでに少しでも)
この子が、もう命じられるまま冷たい冬の湖に沈むことがないように。自分自身を大事にしてくれるようになればと、思うのだ。
「ヴィーナお姉さまは、我が師にとって特別な方なのでしょう」
「ごふっ え、え なんで」
「お父様がそうおっしゃられていましたわ」
くすくすとほほ笑む妖精姫は、どうやらとてつもない勘違いをしているらしい。
「特別ではないですよ、ただの幼馴染です」
「恋しい仲ではありませんの」
「違いますよ」
「まあ、では… わたくしが、師と恋しい人になってもよろしくて」
_____はい?
一瞬、言葉が呑み込めなかった。しかし、モルガンの頬が桃色の染まっているのを見つけて、口から飛び出しかけた言葉は喉の奥へと引っ込む。その様子は、恋する少女そのものだった。
「そう、だね」
二人しか解らない妖精の言葉で語らうモルガンとマーリンは、本当に楽しそうだった。その姿にほっとしていたのが半分、もう半分が…嫉妬であることは分かっている。
でもそれは、恋しい人を盗られたそれではない。どちらかというと、自分にだけ懐いていた犬を余所から盗られた感じに近い。理由の通らない独占欲だ、そもそもマーリンはわたしの所有物ではない。…逆も然り。まあ時々、マーリンはわたしのことをモノのように扱ってくるが。それは師と弟子と言う名目上の立場があってからのもので、深い意味はない。
だが、しかし。
(居づらくなったのは、確かだな)
あからさまに距離が近くなった二人を見て思う。すれ違った時にモルガンの髪から、マーリンの花の香りがしたから、つまりそういうことなのだろう。…そうして、名実ともにモルガンは大魔術師マーリンの“特別”な一番弟子となった。
だがモルガンのわたしに対する態度は変わらない。無垢な少女は、いまでもわたしを姉弟子として慕ってくれる。一緒に紅茶を囲んで、細やかなお菓子を食べて、女の子らしいはなしをすることもある。近しい年齢で気軽に接することができる存在が初めてなのか、彼女のそんな純粋さには愛おしさすら覚えた。
マーリンも…まあ、いつも通りなので。こうして居づらさを感じているのはわたしだけということになる。最近、小さくても良いから別に工房を持とうと考えるほどだ。実力はペーペーであるが、一応筆頭宮廷魔術師のマーリンの弟子と言うことで、それなりに給金は出ているから難しい事ではない。
…このあたりも含めて、ウーサー王の策略だったとしたら、怖いなあ。と思いながら、紹介された空き家に向かうと、「引っ越すのかい」と後ろからマーリンの声がして、口から心臓がまろび出そうになった。
「まままま マーリン」
「ふむ、少し手狭だがまあ住めないことはなさそうだ。けれど場が良くないね、仮にも君はわたしの弟子なのだから、もう少し地盤や霊脈が良いところに工房を」
「マーリン、 ってははは 花の魔術師様っ…!?」
どうやら、仲介業者はマーリンの隠れファンだったらしい。少女のような黄色い声を上げるおっさんに、マーリンはやあやあと握手までしてあげている。ファンサを忘れない心は立派だが、それで満足してしまった仲介業者がどっかにいってしまったので、わたしは空き家を買えなくなった件についてはどうお考えか。
「君にあげた部屋に、必要なものはすべて揃えたつもりだったのだけど」
「必要とか足りないとか、そういう問題じゃないの」
「ならそれは、ぼくにとって問題ですらないということだ」
「…マーリン、あのね」
「喋るな」
「いま、君と話したくない」、そういってマーリンはわたしの声を奪った。
喋れなくなったわたしに、一番狼狽したのはモルガンだ。
モルガンは真っ青になってわたしに縋り、施された魔術に師の気配を感じると再びどうしてとくしゃりと、美しい顔を歪める。
「どうして、こんなこと。酷い、許されることではないわ」
『おちついて』
「どうしてヴィーナお姉さまの声が奪われなければいけないの。なにがあったのですか、」
ほろほろと、涙を流すモルガンは美しかった。けれど、わたしは彼女が微笑んでいる姿を見る方がずっと好きだから、心がきしきしと痛む。それは遠い日のいつか、冬の湖に身を投げる幼馴染を見つけた時に似ていた。その記憶の所為だろう、気付いたら彼女を抱きしめ、その美しい金色の髪を慰めるように抱きしめていた。
「…何があったのか、教えて下さらないのですね」
「___」
「なら、せめて! わたしに解呪のお手伝いをさせてください」
その提案は思いもよらないものだった。マーリンの呪いを解けるものはこの世界にいない。だって彼は至高にして絶対であり、超越者足るウーサー王を持って筆頭の冠(ギフト)を授けられた大魔術師だ。だが同時に気づいた、____目の前の少女もまた、その超越者の血を引いた『特別』であるのだと。
モルガンなら、この少女なら、いや___この少女だけが。
大魔術師マーリンに対抗するだけの、魔力を持っていた。
「呪いもそれを跳ねのける術も、師から沢山教わりましたわ。この魔術も知っています、だから手順を正しく踏めば必ず解呪できます。ああけれど…それには、お姉さまにひとつ手伝っていただかなければならなくて」
『なに?』
「…お姉さま、お姉さまの本当の名をわたくしに教えてくださいませ」
どうしてと訊ねる前に、モルガンが答えをくれる。…どうやら、この魔術にはわたしの存在が「名」という形で提示されており、解呪するためには同じく「名」を知らなければならないという。
「…ヴィヴィアン、というのが偽りの名であることは知っていました。だってそれは、有名な湖の乙女の名ですもの、」
『ごめんなさい、理由があったの』
「…それも、師の教えですか」
既にモルガンは答えを知っている様だった。なら隠す必要もない、…名前は最も短い呪いであり、自分を守る祝福であるが、同時に個を定義され…こうして悪い呪いをかけられてしまうこともある。そうして、この時世においてそういったことは珍しい話ではなった。
普通の魔術師は名前を知られても跳ねのけるだけの技量があるが、わたしにはそれがなかい。様々な思惑が渦巻く王宮に在って、それは致命的な欠陥であった。ならせめてもの自衛の手段として、と彼が提案し、一緒に守りを籠めた「ヴィヴィアン」という偽名と授けてくれたのは…もう随分と昔のことだ。
いまではもう、わたしを「ミワ」と呼んでくれるのはマーリンだけだ。
「師の教えは最もですわ、わたくしだってそうしますもの。ですが、それではお姉さまの声が永遠に… そんなの悲しすぎます、どうかお願いですお姉さま。わたしにお姉さまの名前を教えてください」
『…』
本当に、それしか手段はないのだろうか。
マーリンが一体何を思って、こんなことをしたのか解らない。わたしの声を奪ったマーリンの顔は、人間ごっこを忘れた…人形のような顔をしていた。とおい昔の記憶に在る幼い彼の顔と同じだ、ずっと忘れていたけれどアレが彼の本性なのだ。
彼は人間ではない。
だから、彼の行動の全てを理解しようとするのはどだい無理なはなしなのだ。
____わたしのような凡人には、尚のこと。
(声を奪われたままでは、彼と対等に話すこともできない。…仲直りするにしても、まずはそこからだ)
わたしが小さく頷くと、モルガンが顔を明るめて「うれしい!」と抱き着いてきた。凄まじい勢いだったが、羽根のように軽い彼女の身体は簡単に受け止めることができた。うれしいうれしいと、頭を擦りつけてくるところまでマーリンにそっくりだ。…弟子だから似たのか、恋人だからか。どちらにしても、わたしには効果抜群だ。
「では、お姉さま」
差し出された掌に、わたしはそっと名前を綴る。
そうして知ったわたしの名前を唇に乗せて、モルガンは艶やかに微笑んで見せた。
「君の失態だ、ぼくの言うことをきかないからこうなるんだよ」
「悪い子だねぇ、ミワ」と、マーリンの声が部屋に溶ける。いつだって鮮明に聞こえていた声が、今は酷くぼやけて聞こえた。幾重もの壁を介しているように、遠く朧気だ。体が重くて、上手く動かない。それでも力を振り絞って持ち上げた腕は、____しわくちゃの、老婆のようであった。
「ぼくがモルガンに教えた呪いだ。これは術者にしか解けない、ぼくにはどうしようもできない」
「… ぁ」
「どうして、モルガンに名前を教えたの」
____それは、彼女があなたに似ていて。とても寂しそうに思えたから、
そう伝えたいのに、酷く眠い。体が急激に老けたせいだろうか、呼吸一つするのにもつかれてしまう。「ミワ」マーリンが呼んでいる、けれど返事ができない。なんだから、とても疲れてしまった。
それからも、何度かマーリンはわたしの元に訪れた。
彼はその度にわたしに何か話してくれたけれど、どれもうまく理解できなかった。彼の声は寝物語を聞かせるように淡々としているから、すぐに眠くなってしまう。マーリンはわたしの身体を揺すって名前を呼ぶけど、仕方ないじゃないか。だってあなたの声は聴いていると眠くなる、魔術を教えてくれた時にも散々言ったのに忘れてしまったのかなあ。
「ウーサーに謝りなよ」
どうやらこれも、ウーサー王の策略のひとつであったらしい。
わたしの読みは強ち外れてしなかった。つまり、モルガンは彼の手先として送り込まれた悪い魔女(ウィッチ)であったということだ、…まったくもって光栄な限りである。
わたしのような凡人相手にこれほど豪華な登場人物を用意してくれるなんて、次の人生があったとしてもこれほど大事に殺してもらえることなんて二度とない。なんだか経緯を思い返すと、後世の人に教えを説くための良い題材になりそうじゃないか。余分なことに首を突っ込むな、美少女に油断するなみたいな、誰かわたしの人生で伝記ひとつ書いてくれないものだろうか。
「ねえ、聞いているかい」
「そうだね」
しゃがれた声で、返事をする。あの性格捻じ曲がった野郎に謝るなんて死んでも御免だ。
それからも。マーリンはわたしが目覚める度に謝りなよ、と提案してくる。暫くそれをあしらい続けると、何をどう勘違いしたのか「これはどう」と、わたしそっくりのホムンクルスを用意してきた。肉体にかけられた呪いなら、魂を“健全な肉体”に移してしまえば良いという理屈らしい。
「ぼくの花種と血で育てた肉に、夢魔の魔術回路を移植しておいた。この体なら、もう質の悪い呪いにかかることもない。君がウーサーに謝らないと意地を張るなら、もうこれしかないだろう」
「___」
「…ねえ、ぼくの話を聞いてる。喋ってよ、ねえ」
「___」
「まだ、きみと 話したいの に」
「___」
「死ぬつもりかい、このまま」
ぼんやりと視界の中では、何もわからなくてわたしはただそうだねと返した。
その日は、いつもより体調が良かった。
日々進行する呪いで、わたしはもう骨と皮だけの醜い姿になった。まだ生きているのが不思議なほどだ、もう目も耳も殆ど利かないけれど、風に運ばれてくる花の香りがそこに誰がいるか教えてくれる。
「……もういい」
ずるりと、何かを引きずるような音。杖突が叩かれる振動と、魔法円が広がっていく気配。久しぶりに感じる彼の優しい花の息吹に、すうと呼吸が楽になった。
ああ、思い出した。
わたしはマーリンの見せてくれる特別が好きだったのだ。
教会では誰もが悪魔の子だと、マーリンに近づくことはなかった。マーリンも誰とも関わろうとしない、時折視えない何かと話をしては黙っていることが多い子だった。とっつき難くて、怖い子ども。
それでも彼が何をしているのか興味が湧いて、「何かいるの」と声をかけた。
彼は答えない、「かくれんぼしてるの」と続けても、返事をしてくれない。
困り果てていると、くいと何かが髪を引っ張った。今思えば妖精のイタズラだったのだろう、しかし、当時のわたしそんなことを知るわけもなく。見えない何かに髪を引っ張られたことに大層驚いて、「なんかいる!?」と吃驚して彼にタックルし、そのまま押し倒してしまったのだ。
思い出すと楽しくて、少しだけ笑ってしまった。その声に気づいたマーリンが話しかけてくる。「ミワ」と名前を呼ぶその声が彼らしくない、いつも余裕を滲ませて、揶揄うようにわたしを呼ぶ声はどこにいってしまったの。
「まーりん」
「なんだい」
「にんげんごっこ は、 たのしかった?」
答えが返ってくるのには、少し時間がかかった。でも、「君には、そう見えるのか」と返ってきた声が、いつも通りだったからひどく安心した。
「まあ、退屈はしなかったよ。相変わらず理解できないことのほうが多いけれど、だからこそ興味が湧いたのも事実だ」
「よかった」
「良くない! ちっとも良いことなんてなかった、ぼくがむかし教会で悪魔の子と石を投げられていたのを忘れたのかい」
そうだっただろうか、と惚けると忘れてしまったなんて薄情だと詰られた。じゃあ、思い出せないから教えて欲しいとらしくなく強請って見れば、マーリンは仕方ないというように語り始める。
それはふたりの記録。
この世界の端っこで偶然出会って、転がる様に生きた大魔術師とその弟子のはなし。
ひとつひとつつぶさに、まるで大事な宝物をなぞる様に語る彼の声は美しかった。その声をずっと聴いていたくて、わたしは必死に意識を繋ぎとめた。どれくらいの時が経ったのだろう、太陽の光が三度、彼の虹色の髪を煌めかせて光の花を咲かせるのを見た。薄く閃く紫の輝き、窓から差し込む光が世界を焼いていく。遠く世界の向こうから、ラッパの音が聞こえる。
「ミワ ____ねえ、ミワ?」
どうしたの、マーリン。
わたしの声は、彼に届いていただろうか。
さびしがり屋でどうしようもない、かわいいわたしの妖精さん。

