わたしのお兄ちゃんと、お父さんを紹介します
2023/6/17…誤字修正
ああ、死ぬのか。
漠然と、他人事のように思った。
そも、その赤子は生きられる道理がなかった。運命がなかった。可能性がなかった。父親がいない赤子は、胎に宿った瞬間から存在を忌避され、そうして生まれたと同時に廃棄される。へその緒も繋がったまま、馬舎の布に隠されて森に棄てられても、赤子は鳴き声ひとつ上げない。それが異質さに拍車をかけ、母と呼べる人間は逃げるように去っていった。その背中を、血塗れの瞳で赤子はじっと見つめていた。
理由はない、恨みもない。
赤子には生まれた時からそう言った機能は備わっていない。そういう生き物である父親から生まれたから、そうなのだと漠然と理解していた。死は通過点でしかない、肉体を喪うことで赤子はようやく自由になれる。彼らと言う生き物にとって、肉の器なぞ星の織物に存在を縫い付ける牢獄に等しい。
だからこれでいい。これが、ただしく在るべき姿だ。
_____そう確信して、赤子は死を迎い入れようとした。瞳を閉じて、心臓を止めて、呼吸を消す。常闇の向こう、我らが女王の夜の国に歩き出そうとした赤子の手を、しかし何かが掴んで離さない。
(おにいちゃん)
それは、まだ母の胎にいて。自覚と意識が芽生える前から、聞こえていた。
(しんじゃだめ、いきて。わたしを____たべていいから)
ひとつから生まれて、ふたつに別れた。
互いの鼓動を目印にして、現実と虚構の境界を彷徨いながら時間を過ごした。それなのに、片方は羊水の中で溶けて、もうひとつの栄養となって消えてしまった。独りぼっちになっても、しかしその鼓動はいつだって聞こえていた…己の心臓、そのもっと奥深くから、
(いきて)
_____声に導かれる様にして、赤子は瞳を開く。

それから幾ばくかの時間が流れて、赤子は“少年”と呼べるまでに成長した。
自分ではなにもできない赤子の命を繋ぎとめたのは“もうひとつの存在”だった。
少年は人間ではなかった。母親は只人であったが、彼女に囁き命の種を仕込んだ父親は尋常の外の生物だった。少年は、その父親の性質を色濃く受け継いでいた。それ故に母親から棄てられた理由は、皮肉にも彼を生存させる切欠にもなる。
少年は人外であるからして、その生命維持に必要な栄養が人間とは異なっていたのだ。
「お兄ちゃん、せっかく綺麗な髪なんだからしっかり洗わないと」
「どうせ外套を被るだろう、誰も見やしないのに」
「いやよ、わたし汚いのなんて。髪は大事にしないと、」
くすくすと、少女が笑う。
旅の汚れを落とすために立ち寄ったウェールズの森の奥深く。小さな湖に、彼らは居た。蒼穹の色を映す湖面に写る少女は、銀色の髪を指で梳きながら、眦の柔らかい瞳を細めた。鈴を転がすような声でハミングを口遊めば、心弾ませる音楽に誘われて四枚翅の妖精が近寄ってくる。
少女が差し出した指先に腰掛けて、同胞の香りを纏う少女を見つめる極彩色の瞳。万華鏡のように煌めく鏡に、少女の顔が写り込む。美しい少女だった、まるで常世に浮かぶ月の乙女のような娘だった。
「髪は女の子にとって大事なものよ。それに、折角パパに似たのだから大事にしないと」
_____パパ。その言葉を受けて、湖に身を沈めていた少年が、眦を歪める。その瞳は凍てついた氷牙のように鋭くも、内に燃え盛るような激しい感情を秘めていた。花摘みに戯れる姫君のように細い指先が、突如巨人のような万力で“戯れていた”妖精をぶちりと握りつぶした。
「_____その話は止めろ」
憎々しい声は、まるで怨敵を掻き毟る魔女のようであった。
少年を嗜めるように「おにいちゃん」と少女が声をかける。手の内で藻掻き苦しむ妖精を叩きつけるように放り投げ、少年はざくざくと足を動かして湖を出た。
「お前はどうしてアイツのことを」
「だってこの髪がないと、わたしたちがパパの子どもだって気づいてもらえない」
「アイツは、ぼくたちを産まれるより先に見捨てるやうやクソ野郎だ。自分で作ったくせに、その責任を放棄した。なあ、その所為でお前の身体はどうなった? こんなものじゃない、もっと相応しい、お前だけの、与えられるはずだった身体は」
「…おにいちゃんは、わたしと一緒にいたくない…?」
「そんな、____!」
怒号交じりに振り返った先には、しかし、誰もいない。
行き場を失った言葉を噛み締めて、少年がくしゃりと顔を歪ませる。怒りに溢れている、なのに今にも泣きだしそうな顔に、少女は笑う。
「おにいちゃん、わたしもおにいちゃんがだいすきだよ」
少年の口で、少女が言う。
少女の声音を紡いだ唇は、すぐに血の味を滲ませた。少年が腹の中で蠢く憎悪と共に、唇を噛み締めたせいだ、
…少女は、少年と一緒に祝福を受けるべき存在だった。
けれど適切な処置を受けられなかった彼らは。人外の血に宿った神秘が正しく二分されず、均衡を失ってしまった。母体の栄養はより色濃く受け継いだ少年の方へと偏り、劣っていた少女の肉片は消失した。画して、少年に食われるようにして、生まれる前に少女は死んだ。死んだはずだった。
しかし少女は生きていた、肉体こそ失ったが、その魂は少年の肉体の内で息づき。そうして赤子であった少年の、本来必要となる栄養源として生き続けた。
少年(兄)の中には、少女(妹)がいる。
別たれた二つは、再びひとつになってこの地上に生を受けたのだ。
歪な少年少女にとって、両親がいないことは然したる問題ではなかった。このご時世、理由は異なれ親のない子どもなど星の数ほど存在する。そういった子どもたちは教会に身を寄せ、あるいは徒党を組み生活していた。それは生きるために必要なものを賄うためではない、人間は寄り添わないと生きていけない生き物だからだ。
人間は、孤独をなにより畏れる。
この星の生命として主導権こそ得たが、人間は本質的に独りでは生きていけない脆弱な生命体だった。
異形の血が濃い少年だが、その身には確かに母から受け継いだ人間の血も流れていた。少年に流れる二分の一は只人であり、有象無象と同じように孤独を厭う。だが、少年は独りで生きることができた。…少年は産まれた時からひとりでなかったから。内側にはいつでも、この世でたった一人の少女という家族がいた。
だから、立ち寄った村で迫害や謂われない叱責を浴びせられても、少年は感情を揺るがすことはなかった。少年の見目は異色故に、そこにいるというだけで人間の未知に対する恐怖を煽るのだ。理解できたし、有象無象が自分のことをどう思おうと興味がなかった。けれど少女が痛がるので、少年は髪と瞳を隠して少女と2人ひっそりと森の奥で暮らすことを選んだ。
彼女がいればなにも要らなかった。必要なものは全てここに在る。互いがいなければ満足に機能しない不完全な存在であったが、だからこそ、ずっとこうして生きていくと仄暗い確信を抱いていた。
しかし、問題が浮上する。
少女が、父親を恋しがったのだ。
少女は母親の青瞳よりも、父親から引き継いだ虹色の髪を愛した。それが少年には我慢ならなかった。少年にとっては少女が居ればそれでいいのに、少女はそうではないことが堪らなく許せなかった。
一つの口で何度も口論したが、最終的には少女が「どうしてそういうこというの」と泣くから、この問題は何時まで経っても平行線のまま。少女に泣かれると、少年はどうにも困り果ててしまう。大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれると、少女を構成する美しいものが流れてしまう気がして恐ろしかった。その度に、泣かないでと一つの身体を抱きしめて少女を慰めた。
少女も、少年の気持ちはよく理解していた。
少女もまた、少年を大事に思っていたから。しかし、思うだけで生き続けるには、少女は異質な存在過ぎた。少女を構成するはずだった四分の一の神秘は、少年に受け継がれた故に少女はより人間に近しい存在となっている。だからこそ、自分という存在が如何にこの世界にとって異質なのか理解できてしまった。
少年は優しく、いつだって自分の肉体を少女に貸し与えてくれる。それが少女にとって当然の権利というように、求められるがまま自分の体を明け渡してくれた。そんな少年が大好きで、誇らしくて、愛おしくて、大切でたまらない。本来なら栄養となって消えるはずだった少女を繋ぎ止め、大丈夫だと。一緒に生きようと抱きしめてくれた片割れ。だから少女は、こうして少年の中で生きていられる。
少女は神秘を受け継げなかったから、肉体を失っても本来の生得圏に移り住むことができない。きっと魂は消失し根源へと還るのだろう。それが解っているから、少年は決して少女の手を放さそうとしなかった。きっと少年にとって、人間の肉の器は窮屈であろうに。失えば自由になれると知っていても、少年は死を選ばない。_____少年がこの生存に適さない世界で息をしなければ、少女は生きていることができないから。
それが嬉しくも歯がゆい、できればずっとこうして二人でいたかったけれど、それは難しい。
少女は、自分が少しずつ消えているのが解っていた。
この星の意志は、歪な存在である少女を許しはしなかった。
少年はもう十分に成長した、少女がいなくても必要な栄養を確保できる。けれど、それは肉体的な話だ。ずっと一緒にいたから解る。本当の意味で独りになったことのない少年は、きっと少女が消えた後一人で生きていけない。けれど少年は人間に交わることができない、だから“父親”が必要だった。
少女にとって、父親は最後の頼み綱だった。
少女が消えた後も、少年を生かすためには父親が必要なのだ。
「パパに会いに行こう、きっとわたしたちにはパパが必要よ」
「…ぼくは、お前だけいれば いい、のに」
少年が泣きそうな声で言う。それは少女も同じ気持ちだった、だけれどそれではダメなのだ。わたしはいつか消えてしまうから。そのことは言葉にせず、少女はただ冬の記憶に凍える少年を抱きしめた。失わないように、いなくならないように、その心の熱で温め続けた。
父親を捜す旅は、続いた。
父親について解っていることは、父親もまた人外であるということ。そして少年と同じ虹色の髪を持つということだけだった。幸いにも、少年には魔術師としての才能があった。人間が教えられずとも地を駆けて息をして言葉を交わすように。少年は自然と魔力の扱いを覚えていった。
そうして妖精の囁きを頼りに道を進み、少年の代わりに少女が市井に紛れ噂を集めた。未だ島に息づく獰猛な魔獣から隠れ、部族抗争の戦火から逃げるような旅路は、決して平坦な道程とは言えなかった。美しく胸躍る冒険譚とも違う、生々しく厳しい現実を目の当たりにしながらも少年と少女は歩み続けた。
「なあ、どうした。疲れたのか、最近お前の声が良く聞こえない」
「……」
そんな旅の中で、少年はふと足を止める。
いつも明るくころころ笑っていた少女が、呼びかけに応えなくなった。失ったわけではない、時折とても眠そうな声で浮上しては「なんだかとっても眠くて」「疲れているのかな」とおどけて見せる。
だから少年も、「頑張りすぎだ」と笑って見せた。____その実、心臓がきりきりと痛いほどに悲鳴を上げた。自分の心臓と同じくらい確かな鼓動を刻んでいた少女の脈動が、小さくなっているのを感じた。その代わりというように、少年の心臓はけたたましく叫ぶ。少年は理解した、少女が瀕している状況を。それを悟られまいと柔らかに笑う少女が痛々しいほどに愛おしくて、苦しくて、……置いて行かないと泣いて縋りたくて…。
それでも、少女が少年を「おにいちゃん」と呼ぶから。
自分は、お兄ちゃんだから。きっと不安で苦しいはずの妹が笑っているのに、泣叫ぶことができるはずもなかった。
だから、少年は歩き続けた。少女が肉体を使うことがなくなったのを良いことに、皮膚が裂けて骨が軋んで筋肉が焼き鏝のように熱くなっても歩き続けた。少女が寝ている間に、妖精たちの噂を頼りに…時に切り裂いて、脅して、知っていることを暴いて…、父親の軌跡を辿った。
(はやく、はやく、はやく)
見たこともない父親の面影を追って、泣きたいほどの寂しさを噛み殺して。胸に僅かに感じる妹の熱を失わないように強くつよく抱きしめて、先へと進んだ。
そうして、辿り着いたハドリアヌスの地にて。漸く少年は、自分が間違っていたことに気づく。
身の丈ほどある巨槍が、木々をへし折りながら振り抜かれた。鈍い鉱石で造られた矛先には鮮血が滴り、致命的な一撃を回避することを優先するあまり少年の身体は小物のように吹き飛ばされる。
「______カッ 、 ァ゛」
ぼきぼきと、身の内で骨が砕ける音がした。幹が衝撃で剥げるほどの勢いは、未成熟な少年の命を奪うには余りあるほどで。折れた骨が内臓を突き刺して、肉の内側が灼熱を流し込まれたように熱い。拷問のような熱が行き場を失い、食道から鮮血が逆流する。瘴気で淀んだ腐葉土に血をまき散らしながら、それでも逃げようと細い四肢を震わせる少年を見て、____ソレらは交信する。
「 ∴∴ 」
「 ::∵ 」
それは、人間とも妖精の言葉とも違った。言葉であるかも定かでない、信号のようなやり取り。一糸まとわぬ裸体は塗りたくったような気味悪い緑色、顔は6つほど穴が空いた鉄兜に覆われている所為で視て取れない。2mは超える巨体が、身の丈以上ある槍や斧を手に少年に近づいてくる。
人間文化からかけ離れ、侵略と殺意のみを纏う人のカタチをした別次元の生物。
この星の外から落ちてきた生命体___長城の兵士たちは、彼らを蛮族と呼んでいた。
あるいは、ピクト人とも。
(逃げ、ないと)
頭の奥で、本能が警鐘を上げている。非人間の本能でさえ、それは危険なものだと訴えてくる。人間でも、星が生んだ幻想種でもない生命体。それは星の外から来た異邦の神秘。
____逃げられない。
(ダメだ)
_____終わりだ。
(少しでも遠くに)
_______ここで死ぬ。
(彼女だけでも)
漸く、死ねる。
ぽとりと、そんな言葉が脳裏を過る。
土を掻いていた手が止まる、それはずっとひた隠しにしてきた少年の“本音”だった。
(ふたりで、死ねる)
死んだら、少女が消えてしまう。ならば、少年も消えればいい。本来の生得圏になど興味はない、少女がいなければどこであろうと、少年にとっては地獄と同じだ。
独りで置いて行かれることが怖かった。少女を失いたくないはずなのに、そんなことばかりが思考を埋め尽くす。消えないで。独りにしないで。失いたくない。置いて行かれる。一緒にいて。____裏切り者、
少女の鼓動が遠のくたびに、死んでしまうと思うほどに苦しくなった。苛む様な恐怖は悪夢となって少年の理性を蝕み、最初に抱いたはずのちっぽけな願いさえも覆い尽くしていく。
最早、少女が失うことが恐ろしいのか。
少女を失うことで、自分が独りになることが恐ろしいのかも解らない。
少女のためだと身を粉にしてきた旅路さえ、少女を体のいい理由した自分自身のためだったのではないのか。そんな疑念が、更に少年を追い詰めた。少女の純真無垢な言葉さえ、少年の後ろめたさを掻きたてる。ならばいっそ_____答えなど、知りたくないと。
少女に、知られたくないと。
(こんな、醜い自分を )
何時だって尊敬のまなざしで見つめて、少女は少年の存在を肯定してくれる。生きる意味を与えてくれる、理由を教えてくれる、辿り着く場所を示してくれる。眩く美しいこの世でたったひとつの、宝物。___失望されたくなかった。どうせ失うのなら、自分の一番美しい姿を抱いて消えて欲しい。
「_____」
ひゅうひゅうと、空気が通る喉で少年は最後の言葉を選んだ。どうせなら内側で眠る少女にと呼びかけた声は、しかし言葉になることはない。不思議に思う、少年を囲う緑色の異邦人。振り上げられたいくつもの剣斧の切っ先を、他人事のように見つめながら少年は首を傾げる。
ああ、そうか。
いつも二人だから、それで足りていたから。ぼくたちは名さえ持っていなかった。
物語の端にもかからない名無しの子は、大切な片割れに呼びかけるための音も知らない。それはなんと滑稽なことだ。名前などないのだから、言葉が音になるはずもなかったのだ。これは等々愚かで救いようがなくて、少年は嘲笑するしかない。
「 ∴∵ 」
斧が、死が、____振り墜ちてくる。
その様をただ霞む視界で見上げていた。不意に、視界の隅に見たことのない色が掠める……それは、黒の魔力が脈動する島に置いてあるはずのない、春の色をしていた。
「ああ、目が覚めたかい」
深い眠りから覚めると、柔らかい香りがした。少女は不思議に思い首を傾げる、いつも自分より“上の方”にいる少年がいない。なぜか少年が自分の意識よりも深く沈んでしまったようだ。だから深い眠りについていたはずの少女の意識が、こうして肉体に浮上したのだろう。
これまでなかったことに疑念を抱きながら、霞む視界で現状を把握しようと体を動かす。胸の内が灼熱を抱いたように熱い、喉がかゆいほどにひりついて言葉を紡げない。暴れて掻き毟りたいほどに身の内が苦しいのに、四肢が石になってしまったように動かなかった。
「おっと、今は動かない方が賢明だ。肉体の損傷が激しすぎてね、治癒の魔術を施してはいるが回復にはもう少し時間がかかる。けれど君が目覚めたということは、取り敢えず危機的な状況は脱したと見るべきかな」
謳うような、浪々とした声だった。だらんと垂れ下がった少女の手を取り、そっと体の上に乗せてくれる。そうして何かが胸に触れると、苦しかった呼吸が和らいだ。咽喉を塞いでいた鮮血が消えて、噎せ返るような血の匂いが消える。代わりに、水と土の香りがした。体を抱えている腕は力強くて、小さい頃、少年と寝転んだ草原を思い出した___少女にとって大事な、春の記憶だ。
「“彼”なら問題ない、一時的だが死を疑似体験したせいで暫く昏睡状態になるだろうけれど。肉体が回復すれば、魂は在るべき場所に還りつく。そういう風にこの世界はできているからね、…問題は、君の方かな」
男の声の向こうで、何かが蠢く声がした。それは声と呼ぶには歪で、音の信号に似ていた。ぼんやりと暗い夜に気味の悪い緑が覆い尽くそうと襲ってくる。だがそれは銀色に貫かれて、重い音を立てて崩れ落ちる。
「おやおや、まだ息があったとは。本当にコレの生命力には驚かされる、____と、邪魔が入ったね。話を戻そう、君のはなしだ」
緑の暗がりを払い捨てて、さくりと男が歩き出す。
「自覚していると思うが、君は消えかけている。
元々摂理に反した存在であったのだから、消失自体は至極当然のことだ。芽吹いた花が種を落として枯れゆくように、君の魂は根源へと還る。本当はもっと前にそうなるべきだったけれど、そうはならなかった。
理由は語るまでもなく彼だ。だが彼にそういった機能は本来備わっていなかったはずだ。だとすれば、彼を突き動かしたのは、君だろう。君が本能的に行った行動は、三つの運命を変えた。一つは君自身、そして彼、____最後が、わたしだ。
死にゆく運命のはずだった僕の分身体(こ)よ」
ハドリアヌスの鬱蒼と茂る森を抜けると、月灯が見えた。月白の灯りの下で、眩く煌めく虹色の髪。まるで夜にかかる星を集めたように、その男は美しく____少年とよく似た面立ちで、空白の表情を浮かべた。
「君たちを棄てたわたしに、君たちの美しい物語に介入する権利はないと解っていたが。こうなってしまったのだから仕方ない。察するにわたしを突き動かしたのは親としての責任か、呵責か__ああ辛うじて理解はできるが、やはりどこか他人事で共感には足りないというのが、正直なところだ」
「___」
「中途半端に手を出して、投げ出すことは慣れている。そうして恨まれることにも。だからいつも通り、知らないふりをして放り出そうとも思ったが、先に君が目覚めてしまった。だからここは君の望む通りにしよう。最初で最後の、わたしから君たちにできる贈り物だ。君はどうしたい、このろくでなしに何を望む」
少しずつ呼吸が整ってきた、今ならきっと声が出せるだろう。残る最後の力を振り絞って、少女は自分を抱く男の服を掴んだ。かよわくて、風が吹けば飛ばされそうな力でも。少女にとっては、精一杯の。
「…ぱ 、ぱ」
小さな声が紡いだ言葉に、賢者の瞳が揺らいだ。
「ぱ、 ぱ 」
「…その言葉で、わたしを呼ぶべきではないよ」
「…ちが、 あなた、 が、 わたし ケホッ たちの、 おと ぅさん」
矯める言葉を聞かず、少女は男に語り掛ける。
「おとうさん、 して」
「…」
「ちゃんと、して おとう、 さんに なって まちがって、いたなら ゴホッ くりかえ、さないで」
ここに来てくれた、わたしたちを助けてくれた。
その事実から、目を逸らさないで。
「かぞく、 に なって」
「…それが君の望みかい、わたしは君たちを棄てた。そんな父親でも受け入れると、赦すというのかい」
男の言葉に、少女は少しだけ目を見開いた。その後すぐに、何かを思い出すように微かに笑う。男の姿に、誰かを重ねて想うように、願いを告げる。
「かぞく、 だもん」
「…」
「かぞく、 って そういう、もの でしょう…?」
緩やかに、少女は自分が消えていくのを感じた。恐れていたよりも、その最後は穏やかであった。いや、身体を苛む痛みは想像を超えているが、それでも心の内は凪いでいた。
たったひとつ、抱きしめて生まれてきた大事なもの
それを、うしなったはずの大事なひとに託すことができた、
(よかった)
もう、思い残すことはない。
…ああ、そういえば、最後に兄にお別れできなかったことが悔やまれる。けれどそれは、望みが過ぎるというものだ。それに、兄によく似て…いや、兄がよく似たのか。この冷徹なふりが上手で、無関心を装うのが得意で、本当はとんでもなく寂しがり屋の優しい…父が、きっとわたしの最後を伝えてくれる。
「…眠いのかい、少し休むと良い。沢山頑張ったものね。…安心しなさい、君が眠るまで わたしが、傍にいるから」
父が、優しく背を摩ってくれる。もう痛みはなかった、苦しくもない。おやすみなさい、その言葉は声になっただろうか。わからないけど伝わったと信じて、少女は目を閉じる。
「おやすみ、ミワ」
とてつもなく愛おしい音がして、少女は落ちる意識の中で一筋の涙を流した。