炎帝妃殿下は紅明の企みを知らない
「ごおえ˝んざばあっ…!」
ばんっと開いた扉に、紅炎の肩がびくりと跳ねる。
そうして入り込んで来た奇声の主はびゅんっと走って、真っ直ぐに紅炎の腹に抱き付いて来た。
「ぐふっ …!?」
「うわあああああ˝ よくごぶじでっ ごぶじじゃな˝い˝ぃ!」
あろうことか、思い切り傷口の上にタックルをかましてくれたのは二つ下の許嫁だった。泣き散らす鮮花を上に乗せながら、忘れかけていた腹の奥から骨まで響く痛みにぐったりと寝台に倒れる紅炎。それに後からとてとてと追って来た紅明が、二人を覗きこんだ。
「お帰りなさい兄上、お加減は如何ですか?」
「…たったいま悪化したところだ…!」
「すみません、私がうっかりハトに餌をやっていた所為で… 女官たちでは鮮花を止められなかったようです。 さあ鮮花、いい加減になさい。兄上が本当に死んでしまいますよ」
「うえ˝ うえ˝え˝んっ」
ぐずぐずと顔を涙でいっぱいにして泣く鮮花を、紅明がべりと紅炎から引き剥がした。それでも紅炎の寝衣を掴んで離さないので、鮮花は放ってはおいて近状報告を始める。
「初陣で敵将の首を持ち帰ったと聞きました。流石ですね兄上、私にはできないことを簡単にやってのけます」
「うえ˝ うえ˝え˝んっ」
「当然だ、俺たちは誇り高い煌の皇族に連なるもの。この位やって見せなければ、白雄殿下たちに示しがつかない」
「えぐっ びええーー“!」
「そういえば初陣の際、陛下から鎧を賜ったそうで」
「ああ… それなんだが」
「えぐっ うえっ う˝えっぐっえ!」
「うるさい!!」
紅炎は残るすべての力を使って鮮花を寝台の上から放り投げた。しこたま頭を打ちつけて鮮花は静かになったが、その代償として紅炎の戦傷はぱっかり開いたようだ。
寝台と床の上で同じようにぐったりと倒れ込む兄夫婦(予定)を見ながら、紅明は少しだけ未来を憂いた。この凸凹の二人は、果たして自分なしで上手くなっていけるのであろうか…?
「おや」
紅明がはたと目を丸くした。なにかと首を傾げる鮮花に、紅明は机を指差していう。
「それ、まだ持っていらしたんですね。随分と懐かしい」
「あ、そっか。あの時、紅明くんも一緒にいたものね、覚えている?」
「ええ。兄上が初陣の時に壊してしまった鎧の欠片でしょう」
年季が入った小さな包みの上に置かれた小さな緋と金の欠片。遠目に見ても見事な龍の意匠が施されているのが解るそれは、かつて紅明の兄紅炎の鎧の一部であったものだ。
今は亡き白徳大帝から初陣の折に授かった鎧で、紅炎は敵大将首の代償としてそれを失った。紅炎はとてもそれを気にしていたが、そんな彼を鼓舞するように功績を称え新たらしい鎧が褒美として与えられた。
その後、壊れた鎧は処分された。だが僅かに欠片が残っており、それを目にした鮮花がどういう訳か「欲しい」と駄々を捏ねたのだ。その時を、紅明は昨日の事のように思いだせる。
「あの時とても大変でしたね。あなたときたら、兄上が戦から戻ってくるなり顔を真っ赤にして泣いて…。それまでは健気にずっと泣かずに待っていたのに」
「紅明くんはなにかな、人の黒歴史を突いていかないと死んじゃう病気かなにかなのかな?」
「いえいえ、私は義姉上のことをとても尊敬しています。あの兄上相手に戦の傷を開かせて全治を一週間延ばす様な真似ができるのは後にも先にも義姉上だけだと確信しています」
「うっさい」
はよ帰れと、手にしていた巻物を数本紅明に投げ渡した。
「お望みのものはそれで全部でしょう?」
「ええ、助かりました。 義姉上の貯蓄癖もこういう時ばかりは役に立ちますね」
「一言余分」
「性分なもので」
「では、わたしはこれで」といそいそと戻っていく紅明。最後にちらりと後ろを窺えば、鮮花が椅子に腰かけそっと欠片を指でなぞっていた。その表情は窺えなかったが、考えているであろうことは見て取れる。
(……兄王様の帰還は、三日後でしたね)
現在、紅炎は洛昌にない。数か月前より西へ遠征に赴いている。二代目皇帝が立ってからというもの、それまで大人しいものであった周辺諸国が国境周辺を侵略している。前皇帝と若き優秀な両殿下の訃報は、機を窺っていた彼らにとって吉報だったのだろう。紅炎に与えられた役目は、その調停と新皇帝の意向を示すためだ。
新皇帝・練紅徳ここに在り。
我らは他国の侵略を許さず、圧倒的武力をもってこれを裁き大陸唯一の大帝国と成らん。
_____現在、煌帝国にあって王の証足る金属器を有するのは練紅炎ただひとり。かつて中原を統一した煌帝国の侵略の歴史を再び開き、大陸征服のための第一歩とするために紅炎が将軍として選ばれたのは必然である。伝文では無事に役目を果たし、既に帰還の道中にあるとあった。
紅明が鮮花の元に寄ったのはそれをそれとなく知らせるためであり、手の内の巻物は適当な理由でしかなかった。
紅明は知っている。天華統一のために戦場に駆りでる紅炎を見送る度に、なんともないという顔しながら鮮花がひとり“かけら”に祈り続けていることを。
初陣の時、鮮花は本当に見ていられない様子だった。戦を知らないから、何があるかわらかないから、恐い。紅炎が死んでしまうかもしれない、酷い目にあっているかもしれない、その全てが怖ろしいのだと。
鮮花は自分が無知であり、戦場に置いてどれほど役に立たないのか解っていた。軍略にも長けず、せいぜい政治を解けていいところ。生まれながらにして“紅炎の妃”として育てられた彼女には、戦乙女としての教育は一切なされなかった。
きっとこうして心配することすら烏滸がましいのだと、何時だか紅明に吐露したことがある。そうだろうかと、紅明は思った。少なくとも紅明には、そうして一心に兄の安否を祈る鮮花は誠実に映る。
そしてなにより、兄が戻ってくる度に緊張の糸が解けてぼろぼろと泣いてしまう鮮花を、兄が仏頂面の下でどう感じているのか…紅明なりに察しているつもりだ。
だがそんな鮮花も、あの大火を皮切りにぴたりと泣くことをやめた。その理由を紅炎も察しているのか、なにも言わない。代わりに胸を張って当たり前のように無事の帰還を迎えるようになった。
実は紅明はそれを少し寂しく思っている。もちろん、無粋なことを承知で。
やっぱり鮮花は、ぼろぼろ泣いて喚いて、そうして迎えてくれるのがいい。少しの間だが、紅炎とともに戦に出るようになった紅明が同じように鮮花に迎えられて感じたのは、優しい気持ちであったと思うから。
「ねえ、なんで炎兄は鮮花と結婚しないのぉ?」
「……」
不服そうにいう紅覇に、紅明はぼりぼりと頭を掻いた。
「…まあ、それ私も常々思っていることなんですけどね」
「だよねぇ、おかしいよねぇ! もうさ、二人を見ているとなんていうか焦れったくてだまんない! 炎兄もなに遠慮してるのさって思う訳ぇ、確かに鮮花は炎兄のこと好きじゃないかもしれないけどさあ」
「…」
「大丈夫だって、鮮花ちょろからぁどうにでもなるよォ!」
「まあそうなんですけどね」
間も無く肯定する紅明に、紅覇が「だよねェ!」と破顔する。
そうである。鮮花は紅炎にまったく恋愛感情を抱いていないが、鮮花はものすごくチョロイ。婚約者という立場を利用してとっとと婚儀を交わし、紅炎が本気で落としにかかれば鮮花は簡単に攻略できるだろう。だからあとは、紅炎のやる気次第なのだ。だが、
「でもまあ、無理でしょう」
「ええ!? なんでさあ!」
「国情が不安すぎるからです」
きっぱり言い捨てる紅明に、紅覇がむぐっと苦虫を噛み潰したような顔をする。
かくいう紅明も、紅徳が皇帝に立ち、紅炎が第一皇子となった折に、そうなるものだと考えていた。だがそんな紅明に紅炎が言った事と言えば、冷たく突き飛ばす様なこと。
_______「あれは、妃の器ではない」
そういって、紅炎は鮮花との婚儀を“先延ばし”にした。今時、成人を迎えて妃のない皇子などありえない。だがどういうわけか紅徳は、紅炎の意向に口を挟むことはなかった。それは真に紅徳の意向か、『組織』のものなのかはさておき。…そこで、紅明は漸く解を得た。
『組織』においても、紅炎が妃を持つことは望むところではないということ。そして紅炎はそれを察して、鮮花を守るために婚儀を先延ばしにした。
本来なら切り捨ててやることが、正しいのだろう。鮮花は王宮の中にいてあまりに脆弱な存在であった。これからの煌帝国の在り方を思えば、彼女は確かに紅炎の妃としてあまりに頼りない。戦時の皇子の妃としては、不適切だ。だが切り捨てず、先延ばしにすると言ったのは…きっとそういうことなのだろう。
「…『組織』が、鮮花になにかしたら」
「義姉上はああいう人ですからね、きっとあっという間ですよ」
「明兄その冗談面白くないんだけどォ」
指で上(天国)を指す紅明に、紅覇がうげぇと顔を歪めた。
「とにかくそういう訳ですから、あまりこの手の話題をしてはいけませんよ」
「はァい でもさあ、それなら鮮花はしばらく王宮から遠ざけた方がいいんじゃない? 実家に戻してやるとかさァ」
「はあ、なぜ自分から捉えた魚を川に逃がしてやらなければいけないんですか?」
一転してぎらりと紅明の光がぎらりと光った。
「いずれ彼女には練家の子女をわんさか産んでも頂かなければなりません、ただでさえ婚儀を伸ばしているのですから一分一秒も時間を無駄にできなんですよ。…そのためにも、煌が天下統一を成し得たらすぐにでも兄王様と一緒にダンタリオンで扉のない寝室に閉じ込めて…ブツブツ」
「う、うわあ…僕ここまで私利私欲に塗れた金属器の使い方初めて聞いたかもォ…」
紅明の口にする慈悲のない完全無欠の鮮花懐妊計画に、紅覇はぞっとするものを感じた。確かにあの尊敬する偉大なる兄と幼いころから何かと世話をしてもらっている鮮花には幸せになってほしいし、二人の子どもになら叔父と呼ばれるのも吝かではないと思っている。だが紅明の計画には、正直引く。
「最低でも5人は産んでもらう予定です。というか産むまでヤらせます」
「それ鮮花が炎兄に抱き潰されるほうが早そう〜」
そんな義弟たちの会話が繰り広げられているとはいざ知らず、鮮花は自室でくしゅんっとクシャミをしながら未だ遠い紅炎の帰りを待ち続けるのであった。