炎帝妃殿下と練紅炎の恋は終わっている
白徳大帝が身罷られ、程なくして白雄様と白蓮様が“不幸な事故”で亡くなられた。
大火の後、二代目皇帝となったのは正統なる後継者白龍ではなく、俺の父練紅徳であった。そして、俺は皇太子となった。…傀儡と成り果てた父王に代わり、先代の無念を晴らすべく弟たちと信の置ける臣下を集めた。その重い“復讐”の文字に雁字搦めにされて、気づけば俺はどこにも進めなくなっていた。
「兄上」
「どうした紅明」
「鮮花がいません」
紅明の言葉に、紅炎はまたかと頭を抱えた。
鮮花は、一年ほど前に紅炎に宛がわれた許嫁だ。たっぷりとした髪にふっくらとした頬の無垢な少女で、紅炎と同じ両親を持つ紅明と同い年という。
紅炎は最初、父の決断に反対した。少なくとも白雄がこれという人と連れ添うまでは婚儀などあげるつもりもないし、そもそも、恋だの愛だのに浮かれている暇は今の煌国にはない。中原三国の戦火は今にも切られようとしているのだ。
紅炎は今年で数え8つになるが、すでに実戦を加味した訓練課程を終えている。今は一武官としての官位しか与えられていないが、やがては尊敬する白徳王、そして白雄、白蓮の両殿下の臣としてと、この命の使い道を定めている。
(…面倒だ)
もし、相手が紅炎ともっと歳が近く…いや歳が近くなくとも、理知に富んだ賢い女だったら話が違っただろう。
だがこの鮮花という女、どうにも紅炎とそりが合わない。穏やかといえば聞こえはいいが、彼女はそれが過ぎる。しかもトロ臭いくて、頭の回転も遅い。紅明をどことなく彷彿とさせるが、紅明の頭脳のようにズバ抜けたところがないから、余計に鮮花は紅炎をイラつかせるのだ。
どうしてこんな女と。
____生まれが煌国の古い名門武家というだけの愚図と、そう思わなかった時はない。
紅明を女官に預け、逸れたという辺りを探せばすぐに泣き声を拾うことができた。低木を掻き分けて探せば、足を引っかけて転んだのであろう…膝の衣装に血ににじませてぐずぐずと泣く鮮花を、すぐに見つけた。
「うぐっ ひう… 」
「おい」
「! こ、こうえんっ こうえんざまあっ …!」
(酷い顔だ)
正直引く。だが、あまりに必死にこちらに手を伸ばして来るから、良心が勝って紅炎は鮮花がしたいようにさせた。小さな手がぎゅうぎゅうと紅炎の服を握って、離さないというように頬を擦りつける。
……鮮花は、泣き虫だった。大きな音が恐い、厳つい顔が恐いとぐずぐずと泣いた。紅炎はどちらかといえば愛想が悪くて、人相が良くない事を自覚している。鮮花とはそういう意味でも相性が悪い。だが何時しか、泣きながら後ろを着いて来る鮮花に、疎ましい以外の感情を抱くようになった。
それは紅明に向いているような、兄弟の情に似ている。
(…どうせ、同じことが巡ってくる)
紅炎には血を残す義務と責任がある。今は疎ましく思っていても、やがてそうしなければならない時がくると考えれば…何度も面倒な縁談を持ってこられるよりも、彼女で妥協するのが得策なのかもしれない。
そう思い始めた2年目の春、自分でも良く解らない心情を吐露した紅炎に、白雄は朗らかに微笑んで「おめでとう」と祝福の言葉を口にした。その意味が、その時の紅炎にはよく理解できなかった。
そして、17の冬。その意味を、知ると同時に、失うことになる。
______白雄が死んだ、白蓮殿下とともに幼い第三皇子ひとりを残して。…空座となってしまった皇帝の座には、瀕死の第三皇子に代わり紅徳が収まり、紅炎は第一皇子となった。それはあまりに許しがたいことだった。
復讐しなければならない、無念を晴らさずにはいられない。敵は大よそ見当がついた、だが確信にたる材料がない。そしてなにより“力”が足りない。苦悩する紅炎に、まるでそれでいいというように…当然のように紅徳と婚儀を交わし皇后の座に返り咲いた玉艶は微笑む。それが彼の中の燻りを業火へと変える_____だが、動けない。
それは畏れているから、
___なにを
(失う、ことを)
紅明を、紅覇を。白雄たちと同じように奪われることが恐い。だが幼くも優秀な力を持つ弟たちだ、彼らならきっと数年経てば抗うだけの力を蓄えられるだろう。では_____鮮花は。
敵と成れば、相手は容赦なく“守りの薄い”ところから叩いて来る。それは戦の常套手段であり、紅炎も幾度となくそうして国を獲ってきた。だから解るのだ、もし紅炎が玉艶であれば、自分は“まずは鮮花から”と思うだろうと。_____鮮花を、殺すだろうと。
鮮花に魔道士としての才覚はなく、生まれこそ武家ではあるが、名ばかりの深窓の令嬢ゆえに剣を振るうことはしらない。戦場を知らないあの柔腕では、組み敷かれてしまえば抵抗のひとつもできないだろう。鮮花の息の根を止めるのはあまりに容易い。ああ、…“彼女”は邪魔だ。
(…復讐するには、邪魔だ)
復讐か。鮮花か。
その選択肢が目の前に現れた時、紅炎は全身の血がぞっと冷えるのを感じた。選べるはずがなかった、だが選ばなければ“いけなかった”。迷うことは罪だ、国民への。産まれた責任への。…白雄たちへの。
(選ばなければ、いけない)
答えなど、決まっていたも同然だった。
「大丈夫だよ」
第一皇子となったころ。心の内を巣食う恐怖と怒りで碌に寝付くことができなかった。灯りのない夜にひとり、金属器を抱いて只管時間が過ぎるのを待っていた。そうしているとどういう訳か鮮花の目が覚めて、眠気眼を擦りながら寄って来るのだ。そして、まるで眠れない子どもをあやす様に穏やかにその言葉を繰りかえす。
最初の頃は詭弁だと、止めろと怒鳴った。戦も知らない、世界がどうなってしまうのか考えもしない愚鈍な女に慰められているという事実は、酷く紅炎のプライドに障った。だが、鮮花は「大丈夫」だと続ける。
「紅炎は、わたしが守ってあげるから」
小さな手でぺちぺちと頬を叩いて、鮮花がいう。へにゃりと情けない顔で笑って、いうのだ。
根拠何てどこにもないくせに、この小さな体でできることなんて限られているくせに、まるで任せろというように言うのだから御笑い種だ。
だがそれも続くとなんとやらで、…彼女の言葉は次第に、紅炎の荒れた心を癒していった。まるで乱れた琴を調律する様に、鮮花の言葉は紅炎の内に優しく溶けて、心の奥にすとんと落ちる。
ああ、これが_____つながるということ。
思いだしたのは白雄の言葉。あの人はきっと、こうなることを予見していたのだ。
思いだして涙が出そうになった。亡き人の思いが、ようやく届いた気持ちが。すべてが切ない程心奮わせる。それを口にするのは、口下手な自分には難しい。だけど、鮮花に伝えたくて、なんとか言葉を絞り出そうとしたが、その言葉は他らならない彼女自身の言葉に阻まれることとなる。
「いつか紅炎が本当に心から愛する素敵なひとがみつかるまで、わたしが守ってあげるね」
「 ______ 」
それは、明確な意思表示だった。
ようやく気づく、紅炎はずっとひとりで舞い上がっていたのだ。ひとりで苦悩して、ひとりで喜んでいた。当然の結果だろう、だって紅炎は一度だって鮮花自身の心を考えたことがなかった。傲慢にも、彼女がそうだと決めつけていた。
_______恋を知った日、紅炎は失恋した。
きっとそれが最初で最後の、“練紅炎”の恋。