練紅炎が遠征から帰って来たので逃げる嫁
2023/4/15…添削、誤字修正
「あ、義姉さまじゃん」
「! こ、紅覇殿」
鮮やかな躑躅色の髪を揺らして駆け寄ってくる義弟の姿に、鮮花の強張っていた体からふっと力が抜けた。その様子を不思議に思いながらも、紅覇まずはと臣下の礼をとる。
「親愛なる義姉さま。本日もご健勝の様子で何よりです」
「ええ、ありがとう」
慌てて礼を返した鮮花を見て、合わせた拳の隙間から覗く無花果色の瞳がにんまりと笑う。慎ましい臣下も顔もそこそこに、本来の悪戯で加虐色をチラつかせながら、ずいと鮮花に近づいてきた。
「で、今日はなにして炎兄ィからにげてるのぉ?」
「えっ!?」
「隠すつもりなら、もうちょっと上手くやりなよぉ。第一皇子の許嫁が、こんな人気のない廊下でこそこそする理由なんてそのくらいなんだからさァ」
そう言ってけらけら笑う紅覇に、鮮花は込み上げ来る百万語をむぐりと呑み込んだ。まったく彼の言う通りだ、今更ながら自分がとても滑稽なことをしていた気がして恥ずかしさすら込み上げる。火照る頬を悟られないように袖口で隠す仕草は、何やら擽るものがあったのか。紅覇はどうみても白旗を上げている鮮花に対し、攻撃の手を緩めない。
「ねえねえ、今度は炎兄ィに何したのぉ〜?」
「ひ、秘密です」
あの大太刀を振り回しているとは思えない細腕が、頬を隠す鮮花の袖を捲り上げる。そのまま腕を絡めて、甘えるように擦り寄ってくる体躯からは花と果実の香りがした。薄い衣から覗く身体は確かに男児のそれなのに、まるで天女を相手にしている様な心地にされるのだから…やはり、この皇子は魔性だ。
「紅覇殿こそ、どうしてこんな後宮の隅に。臣下のひとりも付けず危ないですよ」
「それ、ホンキで、僕に言ってる?」
ぎらりと、紅覇の瞳に剣呑な色が宿る。
先ほどまでの天女斯くやの雰囲気からは想像もつかない、獰猛な獣の気配にぞくりと背が震えた。
「ぐ、愚問でした…」
「アハ 義姉だから、特別に許してあげるぅ」
パッと、いつも天真爛漫な義弟の顔に戻る紅覇に心臓が持ちそうにない。上に下への大騒ぎで嫌な汗が滲んできているのを感じながら、なるべく機嫌を損ねないようにと言葉を選びながら彼の質問に答える。
「んでぇ、結局なにしたのぉ?」
「その…、宿題を、ですね…」
ぼそぼそと蚊の鳴くような声だったが紅覇の耳には届いたようで、ああと彼が声を上げた。
「あー、西の遠征前に炎兄が運ばせてた歴史書ねぇ? あの50冊くらいあったやつ、やっぱり読み切れなかったんだ」
「しかもあの人、予定より3日も早く帰って来たし…」
「それは当然! あ〜んな雑魚相手に、炎兄が手古摺るわけないし」
当然と言い切る紅覇に、鮮花は何とも言えない顔でそれでも同意して見せた。
戦を特技だと豪語するだけあり、練紅炎は猛き男であった。戦場で剣を奮わせ、馬を駆けさせたら右に出るものはいない。そんな男に金属器など持たせてしまったからには、もう鬼に金棒だ。
…と、戦に疎い鮮花なりにも理解しているつもりだが。数万規模の戦相手を雑魚と称する当たり、練家猛将の三兄弟の感覚はもっと遥か遠くにあるのかもしれない。
「なるほどねぇ、それで逃げて来たんだ」
「逃げましたとも…、どうせ捕まることは知れているので、悪足掻きですが」
「う〜ん、僕が匿ってあげてもいいけど。 …でもそんなことすれば、もっと炎兄を怒らせちゃうとおもうんだよねぇ。敵前逃亡は将の恥ともいうし、」
「…」
「あ、良いこと思いついた!」
ぱあと花咲くように笑う紅覇とは対照的に、鮮花は足元から嫌な予感が這い上がってくるような心地だった。あ、これわたし死んだかもしれないね。
「……」
ところ変わって、ここは後宮の中庭の少し外れ。庭師が整えてくれた木々の合間に布を敷いて、その上に横たわり…
「…」
…寝たふりを、していた。
周りには紅覇の臣下が拝借して来てくれた本を積み、さも先ほどまで読んでいましたと言わんばかりに積み上げて。
「…」
…ああ、言わずもがな! これが!紅覇の!アイデアである!
どうせ見つかるなら、少しでも努力していた姿を見せた方が怒りを和らぐだろうということだが。果たしてこんなものに…あの炎帝が騙されるのだろうか、甚だ疑問である。
だが、鮮花がそんなことを言っても紅覇が聞いてくれるわけもなく。こうして紅覇さまの、紅覇さまによる、紅覇さまのためだけの喜劇…という名の悲劇は、幕を開けたわけだ。
(もうほんと、このまま寝ちゃおうかn___)
「鮮花ぁあああああああ!!!!」
あ、寝られねえ。
諦めの境地と共に沈みかけた意識は、聞こえてきた全身をびりびりと波打たせるほどの怒号に一気に浮上する。早くも心臓がぴゅうと息を引き取ろうとしているのを感じながらも、必死に狸寝入りを続ける。ああ、この獣を思わせる咆哮、誰のものなど考えるまでもない。炎帝、その人だ。
(死んだ……)
ほろりと目尻から涙がこぼれた。いっそ飛び起きて土下座して見せようか、だけどそんなことで紅炎の怒りが鎮まるとは思えないし、きっとその後にはどうして指示通りにしなかったのだと紅覇にもどやされる。正に前門の紅炎、後門の紅覇だ。逃げ場がない。
(ああ、心なしか体が岩のように重いような…、もうわたし死んでるのかも知れない)
「鮮花!!出て来い!!!」
「えっ…ぶはっ___え、炎兄ぃ〜」
紅覇、あの憎らしい義弟。もしかしなくても今、笑ってなかったか?
「義姉さまなら、あっちで見たよ」
「どこだ、あの愚図は!!」
「あ、あっち〜」
コノヤロウ。決して顔を合わせては言えない悪態が込み上げてくる。心の中で紅覇に向かって振り上げた拳も、どしどしと聞こえてきた修羅の足音にヒュンと引っ込んでしまう。死が、近づいてきている…!
「そこか!!」
(ヒィィィィイイイイ)
顔の真横で剣薙ぎの音がしたが、ぐっと悲鳴を堪えた。えらい、えらいぞ鮮花…!やればできる女…!目を開いて逃げ出したい衝動を堪え、じっと死んだふり…じゃなくて、狸寝入りを続ける。最早、クマを目の前にした時の対処法だ。ああでも、もうこうなれば意地だ。これはわたしと紅炎の、意地の張り合いである。
だが、何時まで経っても。想像していたような悲惨な衝撃は訪れなかった、
(___て、てっきり胸倉掴まれて怒鳴られるものだと思っていたのだけど。なにも、ないのは…それはそれで、こわい…!)
一体、外では何が起こっているのだろうか。
恐怖の中に僅かに湧いて出た好奇心に目を開いてしまいそうになる。それを堪えて待てば、そっと頬に何かが触れた。暖かい、太くて皮が厚い。良く知っているあの人の、不器用な指先が痛いほどの力でわたしの目元を擦る。い、いたいです、紅炎さま。
(な、なにごと…?)
「どおしたの、炎兄ィ」
それまでどこにいたのか、思い出したように紅覇コノヤロウ殿の声が聞こえた。
「___何でもない、」
「…そう。 あ、義姉さま寝ちゃったみたいだね!」
(わたしにしてみれば)白々しいことこの上ない紅覇の台詞に何を思ったのか、紅炎は黙ったまま何も言わない。たっぷり一拍置いた後、突然ぐいと膝と背に何かが差し込まれた。
え、っと思った時には、まるで絹でも抱くように軽く体を持ち上げられた。すわ放り投げられるか!?と覚悟したが、想像していた浮遊感は襲ってこない。代わりに、鮮花の身体は少し硬いものへと凭れ掛かる。頬に触れる感触は鎧だろうか、
「運んであげるのぉ? なんだかんだ義姉様に優しいよねぇ、普段からそうしてあげればいいのに」
「…ふん」
………とても、良い雰囲気ではないだろうか。紅覇の思惑がどうかは知れないが、この作戦は成功した様に思える。
(……あった、かい)
背に回る腕は逞しく、鎧越しに聞こえてくる鼓動には心地良ささえ覚える。
____読み切れなかった歴史書は、なんとか期限を延ばして貰って、ちゃんと読もう。その気持ちは、すとんと、鮮花のなかに奥深くに当たり前のように落ちてきた。
ごめんなさいと、おかえりなさいを
「寂しかったのか、」
ぼそりを紅炎の口から零れた音に、いやまさかと鮮花は思わず大きく首を振ってしまった。
「あ」
「…」
気づいた時には遅い、勝利を確信して完全に油断してしまった。
思わず閉じていた目をぱっちりと開いてしまえば、目と鼻の先に何時ものこけし顔が見えた。穏やかにわたしを見下ろしてたそれが、見る見るうちに燃え盛る炎に似た色を纏うを目の当たりにて、鮮花の身体はガクガクと震え始める。
「鮮花あああああ!」
「ご、ごめんなさいいいいっ」
「ぶはっ!」
とりあえず、紅覇は後で後宮裏に来るように!