アンダンテ | ナノ


 あの時、生きたいと望んだこと。それは間違いなく真実で、紛うことなき本心だった。


episode.2
「ひとの中で蔭と陽を描こう」



 ざわざわと活気溢れるショッピングモール。最近オープンしたばかりというのもあって、まだ昼も回っていない平日にもかかわらず多くの人で溢れ返っていた。その大半が女性で、一人で来ている者もいれば友人同士か数人で連れだって来ている者もいる。カップルや夫婦、家族連れも少なからず見受けられた。

 軽快な音楽が流れ、展示された装飾品の照明が色取り取りに煌めいている。
 イベントやセールのお知らせが液晶パネルの上で踊るように次々と表示されていく。
 サングラスを少し下げて上を見るも、随分と明るい。

「…………、……」

 少しして、追っている彼女が止めていた足を動かしたのを確認して、適度な距離を保ちながらついて行く。どこから見ていくか決まったようだ。傍らの友人たちとこのショッピングモールのパンフレットを見ながら楽しそうに会話を繰り広げている。

 呑気なものだ。彼女に非はないとはいえ、ああして至って「普通」の生活を送っているのを見ていると、彼女とは真逆の生活を送らされているだろう少女が一層憐れに感じてしまう。姉妹といえど、姉は妹の苦しみを本当の意味で知ることはないのだろう。引きずり込まれ囚われ、抜け出せぬ底無し沼のような苦しみの意味を。でも、それでいいのよと妹は、少女は、あの子は言うんだろうなと簡単に想像はつく。

 自分の身よりも姉の身を案ずるあの子のことだから。そして、姉である彼女もまた、そうであることを知っている。だから今の自分の立場をもどかしく感じ、自らの無力さを嘆いていることも。どうにも出来ないと知りながら、どうにかしたいと思っていることも。

「このマグ可愛くない?」
「取っ手に猫ついてるよ、猫!」
「これペアになってるのかな。可愛いー」
「あ、ねえ、こっちにもいいのがある!」

 どうにも出来ない。それは私も同じだった。流されるまま、抗うこともなく、痛みも麻痺し、心だけが悲鳴を上げまいとしている。

「私、これ買おうかな」
「あとで服も買うんじゃなかった? その後にしたら良くない?」
「割れ物だしね」
「でもまたここに戻ってくるのも大変そうだし……」

 可愛らしいデザインで人気を博している雑貨屋の中、彼女たちがいる列から一つ棚を挟んだところでひとつのソーサーを手にした。カップを持ち上げれば姿を現すように真ん中に描かれた兎のキャラクター。“Do you know who I am ?"という文字と共にウィンクをしているそれは確かに可愛いのかもしれなかった。

 次の店へ移動しようと店の外へ出た彼女たちをまたゆっくりとした速度で追っていく。見失わないような範囲で、周りに怪しまれないような距離で、時折視線をモール内に散らせながら。

 今日、私がここに来たのは正解だった。いつも彼女の通っている大学やバイト先をみている男のメンバーではどんなに気配を殺してもこの中では注目されずに尾行を続けることは難しかったに違いない。カップルのふりをするにしても、彼女のただの監視に構成員を二人も割く必要はなかった。

 彼女――、宮野明美。
 彼女自身、こちらには深く関わっていないものの、その親と妹がこちらにとっての重要人物である以上、彼女に監視がつくのは必然だった。

「お昼どうする?」
「とりあえずレストラン街行ってみよ」

 私が彼女を担当したのはこれで五度目。メインの監視ではなく、今日のように男では難しい、入りにくいといった時に臨時で駆り出されている。おかげで今日入っていた表の仕事はキャンセル。久々に父に会える日だったからそれが少しだけ残念だった。

 彼女たちが洋食店で食事を済ませ、会計をして出て行くのに合わせて自身も席を立つ。食べたものの味はもう既に残っていない。大して美味しいとも思わなかった。

 カジュアルな装いで一人、モール内にいる私は他所から見ればただの女で、彼女と同じ大学生か会社員あたりにでも見えるんだろう。本当にそうなら、いや、“本当”ならそうだったはず――なんて、脳裏をよぎった記憶に歪に口角が上がったような気がした。

 ……本当のことなんて、意味のない話だ。

「楽しかったー! また遊びに行こうね!」
「今度は彼氏と行きなさいよー」
「何それー、つめたーい」
「あはは、じゃあ今度はあそこのカフェ行こう」
「いいねー!」
「じゃ、また大学で!」

 ショッピングモールでの買い物と食事を終え、そこから近い場所にある水族館へ彼女たちは足を運んだ。そのまま夜まで遊ぶのかと思っていたら、彼女の友人たちはバイトやら何か用事があるようで午後五時半、最寄の駅へとやって来ていた。

 友人と別れ際の挨拶を交わしている彼女を少し離れたところから壁に背を預ける形で見ていれば、一人になった彼女がこちらへ駆けてきた。私の仕事はここまでになりそうだ。今のところ、彼女の監視は厳しくはない。外出の際には誰か一人がつくことはあっても、ずっとついているということはなかった。

「――奏ちゃん!」

 奏ちゃん、そう呼ばれて掛けていたサングラスを取った。笑みを浮かべて私へと駆けてくる彼女。その笑みがどうしようもなく、……どうしようもなく眩しかった。


 ***

 
 先程までの余韻を打ち消すように、組織のとある施設へ繋がる薄暗い通路を歩いていた。装いもそのままに来たせいで、明るい色の服ではここに溶け込むことは出来ない。

「奏ちゃん、お願いがあるの――」

 今日私についていたのが奏ちゃんでよかった、と嬉しそうに言った彼女から手渡されたもの。

「これをね、志保に渡して欲しいの」

 そんな言葉と共に。志保――宮野志保、まだ十五にも満たない少女は既にこちらの重要人物となっていた。物心もつかぬうちにアメリカに強制的に留学させられたというあの子は丁度、臨床実験の為にと日本へ一時的に帰ってきていた。そのことは姉である彼女も知ってはいたらしいが、会うことは叶わなかったらしい。何でも忙しいから、と。

 結果として、すぐに渡すことは出来た。彼女から手渡された取っ手に猫のついた、おそらくペアになっているマグの片方。もう片方は言わずもがな、彼女が持っているに違いない。私といえど、専門外である科学者たちの研究施設に長く留まることは出来ず、あの子と交わした会話は言葉少ななものだった。去り際、背中に掛けられた「お姉ちゃん……、元気だった……?」という躊躇い混じりの声が表していたのはきっとあの子の寂しさだったんだろう。

 私が気付いたところで何が出来るというわけでもない……。 

 とある施設――組織が造った地下の射撃場への扉をくぐる。
 聞こえてきた銃声。リズム良く撃ちだされているらしい弾丸。短距離程度に離れた的を見れば、撃ち込まれた弾丸によって綺麗な丸が描かれていた。

 夜の十時を回った今現在、どうやら使用していたのは一人だけだったらしい。ここに所属している幹部クラス以上であればあれくらいの腕を持っているのは当然だし、誰がいるかなんてことに興味はなかった。だから、常備されている耳あてを付け、点検も兼ねて愛用している拳銃を取り出し、安全装置を解除し、的に向かって構え、引き金を引こうとしたのに、

「誰が来たのかと思ったら、ロゼじゃありませんか」

 あなたも練習なんてするんですね、と爽やかな笑みを浮かべながら言った安室透に言葉もない。人が拳銃を構え、引き金を引こうとしている後ろから狙っていた的を撃ち抜いてくるなんて、一体どういう神経をしているのか。この男の射撃の腕を見るに、自身に間違って当たるといった心配はなさそうではあるも、人が狙っていた的を……。

 もしこれが私ではなく、他の幹部クラス、例えばジンだったならこの人はこの場で息絶えていただろう。この人も分かってはいるだろうけれど。

「……随分な腕をお持ちのようで」
「いえいえ。あれくらい造作もありませんよ」

 私と同じように耳あてを首に掛け、手にしていた拳銃をホルスターに収めた青年には嫌味が通じなかったのだろうか。

「あなたのはシルバーモデルなんですね」

 彼の言葉につられるように自分の腰元で鈍い輝きを放つそれを見た。大して珍しくもないでしょう、と返せば、ええ、でもと続けた彼が次に放つ言葉は予測するに容易い。

「「黒の方が目立たないのに」」

 見事、正解を当ててみせれば目の前の青年はおどけるように肩を竦めてみせた。黒よりも銀の方が目立つ。そんなことは分かりきっていて、私はこれを手放さないでいる。目立つからいいのだ――。目立つから、いい。存在を忘れずにいられる。指先からこれ以上の黒が侵食してこないためにも。

 安室透である彼がここに入ってきてもうすぐ半年というくらい。彼に武器が与えられるまでの期間も短ければ、射撃場を一人で使っていいという許可が下りるまでの期間も短かった。上は彼を使えると判断し、出来るだけ早く現場で動かせるようにしたいということだ。……この人なら、今すぐ単独任務を与えてもきっと問題はない。何事にも慎重にかかる「あの方」がそんな指示を出すわけもないけれど。

「今日はどこかへお出掛けだったんですか? いつも見掛けるあなたと装いがまるで別人で驚きです」
「臨時の交代で対象を追っていただけです」
「へえ、どちらへ?」
「最近出来たでしょう。あの大きなショッピングモール周辺ですよ」
「ああ、確か水族館も近くにありましたね。楽しめましたか?」
「…………、……」
 
 要するに監視だというのに、よりにもよって「楽しめましたか?」と聞いてきた安室透にほんの少し目を眇める。そもそも“楽しい”なんてことを最後に思ったのはいつだったか。そう思って、吐き捨てるように言葉を紡いだ。

「仕事で、しかも一人で何を楽しめと言うんです」
「なら、今度は僕と行きましょう。二人なら少しは楽しめるんじゃないですか?」
「今度は私と来ましょう。二人なら少しは楽しめるでしょう?」
 
 唐突に重なった言葉に微かに目を見開く。

「ッ……、……」
「……あなたの驚く顔を初めて見ましたよ。何です?」
「……いえ、ただ、」


 ――同じことを言うものだと思いまして。


「ただ?」
「……いいえ。……何でも」

 まるでミニチュアハウスに押し込められたかのように人でごった返していたショッピングモール。本来の生息地から外れ、ガラスの檻に閉じ込められた生き物たちで彩られていた水族館。

 そんな風に見えていた私に、楽しいという感情が沸いてくるはずもなかった。「私をみているのが奏ちゃんの仕事でも、今日は場所が場所だったから、奏ちゃんも楽しかったんじゃない?」と屈託のない表情で言ってきた彼女にも、さっきこの目の前の青年に放ったものと似たような言葉を返したのだ。

「そう言われると気になるというものですね」
「いい年した大人が何を言うんです」
「年齢は関係ありませんよ。気になるものは気になるんですから。で、何です?」

 私を真っ直ぐに青い瞳で見据えてくるこの男。安室透。後の……バーボン。
 無言を貫くこと十秒余り。今度はこちらが肩を竦めてみせた。 

「ロゼ?」
「貴方と二人でなんて何の冗談かと思っただけですよ」

 ほんの少し、緩んだ表情を隠すようにしてくるりと身体を反転させた。何か口にしているだろう彼の声は再び付けた耳あてで聞こえやしない。

 拳銃を構えた先、一発の弾丸が見事真ん中に撃ち込まれた的。
 引き金を引く。重い振動が伝わってくる。

 たったひとつ、先に開いていた穴へと吸い込まれるように私が撃ち込んだ弾丸は軌道を描いていった。 

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