アンダンテ | ナノ


 罪は消えず、重ねていくだけ。


episode.7
「泣くだけで叶う願いなら」



 ひとつ、重い音が空気を震わせた。銃声。車内にいる私の耳にも聞こえたその音は、余韻を引いて消え失せた。閉められた窓の先、薄暗い景色にどんよりと構えられた幾つかの倉庫。その内のどれか一つが音の発生源であることは間違いない。

「…………今日だったんだ」
『何か言ったか』
「……何も」

 左耳に付けたインカムから声がした。あの冷たい眼をした男は耳もいい。耳も良ければ勘もいい。迂闊に独り言も漏らせやしない。膝に乗せたパソコンの画面の一点がチカチカと点滅している。発信機のある場所を示すそれは先程からひとつの場所に留まっていて動くことはない。

「撃ったの?」
『いいや、撃ったのは俺じゃねぇ……。お前が鈴を付けてた女だ……』

 撃たれたのは誰だったのかと訊けば返ってきたコードネーム。それを聞いて、初めて撃たれたのが“あの人”だったことを知った。

「へぇ……じゃあ、潜ってたのはあの人の方だったってわけ」
『ああ……そうみてぇだな』

 その声音から、男が酷く冷たい眼をしたまま仄かに笑んでいるのだろうなと想像がつく。あの深い緑の瞳をほんの少し楽しげに細めて。撃たれたあの人を嘲笑うように。何年もこちらに潜り込んで、あの方とも連絡を取り合えるような地位に上り詰めた男のあっけない最期を馬鹿にするように。そして、そんな男を撃ち殺した女を称賛するように。

 女が言うには、不審な行動をしていたあの人に目を付け、後をつけ、追い詰めたものの逆に捕まり、尋問を受けたらしい。だが、隙を見て男の手首を噛み砕いて拳銃を奪い、そしてその銃で男を撃ち、顎の下から撃たれた男は即死したとのこと。男が持っていたMDに尋問を受けた時の様子が録音されているはずだが、自分は何も喋ってはいないと息を荒くして訴えてきたようだった。尋問を受けた時に何発か身体に弾を撃ち込まれたのだろう。

「MDの確認は?」
『済んだ。どうやら嘘を吐いているわけじゃねぇらしい……』

 嘘ではない。でも、それが真実とは限らない。

「ふぅん……」
『何だ』
「…………」
『さっさと言え』
「……随分とあっさり殺(や)られたものだと思って」
『フン……相手が新入りの女っていうので油断したんだろう』

 ジンはざまぁねぇな……と鼻を鳴らしたけれど、“知っている”私からすればそれこそ滑稽なもののように思えた。
 あの人が、幹部クラスの中でも割と中堅だったはずのあの人が組織に入ってきてまだ一年も経たない新入りに手首を噛み砕かれるような隙を見せるだろうか。それに、あの人は小型の銃を袖や裾に隠し持っていたはず。……いつもなら。銃を一つ奪われたとして、素早く袖先に仕込んであるものを取り出せば、あの人の腕前なら女が構えた銃を撃ち落とすことだって出来たはずだった。なのに、それをしなかった。もしくは、出来なかった。その理由は――。

『愚かな羊がもう一匹やってきやがった……』

 ジンが愉しげにそう呟いたかと思えば、インカムから微かに聞こえてきた、ジンのものでも、その傍らにいるであろうウォッカのものでも、ましてや死んでしまったあの人のものでもない男の声。あの人のであろう名前を既に死体となった男に向かって叫んでいるらしかった。

 私がその姿を見なかったことから、この車が停められている場所とは反対側からやって来たようだ。哀れな人……。こちら側を通っていたなら、この車に気付いて察する何かもあったでしょうに。ああでも、銃声が鳴る前にすぐ傍まで来ていたのなら、聞こえていたはず。鈍く、重い音が。それを聞いて、引き返さなかったのか、引き返せなかったのか……。どちらにせよ、ジンたちと鉢合わせしてしまったからには男の末路は決まっている。死、という選択肢しか残っていない。そして、こちらの人間に捕まって拷問を受け、情報を引き出されるかもしれないことを考えれば、間違いなく男が選ぶ道はひとつ。

「……名前、何て言ってた?」
『ホンドウ、ってのがあの男の名前だったらしいな……ロゼ』
「分かってる」

 カタカタ、と音が鳴る。男がどの機関から送り込まれてきた人間なのか調べろとそういうことだ。簡単に割り出せるようなものでもない。組織が子飼いにしているハッカー、構成員の中でも腕の立つハッカーの面々にあの人の顔写真と恐らくは本名であろう“ホンドウ”という名前、その他の情報を送り付ける。あの人が“本当に”所属していた組織側があの人の死を知って今よりも情報の警備を厳しくするより先に何らかの情報を掴んでほしいと。
 私の“記憶”が確かなら、あの人はCIAの人間だったはずだ。けれど、証拠もなしにあの人の所属を報告したところで「あの方」は信じない。……ジンも。CIAじゃないかと推測を話しても、下手をすれば、私が疑われるはめになる。

 だから、私はあの人を調べない。探らない。例え、自身がハッキングの能力に優れていても。

「…………、」

 ――いい、人だったのに。

 変わらず、パソコンの画面のチカチカと点滅している一点。きゅっと唇を結ぶ。
 それと同時に、もう一発の銃声が響いた。

「……撃ったの」
『ハッ、ヤローが自分でな……』
「貴方ともあろう人が、撃たせるなんてね」
『ありゃあ、生かしてても吐かなかっただろうよ……。奴は、俺たちに気付いて迷う暇もなく自分の頭を吹っ飛ばしやがった。つまり、そういう風に仕込まれてたってことだからな……』

 情報を奪われるくらいなら、自ら死を選ぶ――。そんな風に“彼ら”は仕込まれている。それ程の覚悟を背負ってでも、こちらを崩す為の一手を探す為に彼らはこちら側に足を踏み入れる。踏み入れている。
 ……あの、褐色肌の青年も。

「後始末は? 処理班を――」
『いいや、奴らは都合がつかねぇらしい。代わりに、ガソリンを手配させている。薄汚い鼠には勿体ねぇが、倉庫共々盛大に燃やしてやろうじゃねぇか……。派手に送ってやるさ……あの世へな……』

 ククッと喉を鳴らしたジンの表情は想像するに容易い。先程よりももっと、恐ろしい笑みを浮かべていることだろう。鼠を狩れて、酷く嬉しいのかもしれない。あの男の考えは読めない。読めないからこそ、恐ろしくもあった。

「……彼女はどうするつもり。怪我してるんじゃないの」
『面倒くせぇが、手当てくらいはしてやるさ。仮にも鼠を狩った猫だからな……』
「痛み止めはあっても止血剤は切らしてるんだけど」
『フン……端からテメェに頼みはしねぇよ』

 女を病院へ運ぶための手配は既に済んでいるとジンは続けた。ガソリンを手配させている輩とは別に一人、女を病院へ連れていくための足を呼びつけたのだろう。……ウォッカかジンがこの車を使って送っていってあげれば一番早いだろうに。そんなことをする人たちではないことを知っているけれど。私が運転するのも有りだが、ジンが許すはずもない。となると、その足がここに来るまで彼女はそのままか。
 
「…………私もそっちに行く」
『……何だ、あの男に情でもあったのか』
「馬鹿な事を言わないで。彼女に痛み止めを持っていくだけ」
『馬鹿とは結構な言い様だな。まあ、いい……』

 バタン、と後ろ手にドアを閉める。
 車の外に出ても薄暗さは変わらないままで、どころか、傍らの黒のポルシェがより一層この景色を重いものにしていた。自身の格好を見下げて、ほんの少し笑う。一部のワインレッドを除いて黒に包まれている身で何てことを考えるのかと。

 重いのは、景色なんかじゃなかった。


 ***


 ガソリンを調達してくる輩よりも当然、着のみ着のまま、車を走らせてきた足の方が到着するのは早かった。小走りで駆けてきて、そして硬い動作で挨拶を寄越した男。私たち――正確には恐らく、ジンの醸し出す雰囲気に恐れを抱いているらしかった。そんな小物、言葉を交わすだけ時間の無駄だとでも言いたげにジンは一言、さっさと連れて行けと命じた。

 ジンの温度の感じられない声に硬い声で返事をした足が、壁に寄りかかる形で座り込んでいた女へと寄っていく。手を貸そうとした男に首を振ってよろよろと立ち上がった彼女とそれを見ていた私の視線が交差する。
 無意識か、ぎゅっと彼女が怪我をした部位を強く押さえ付けたのが分かった。その部位を覆う白い包帯代わりのシャツ。あの人が、……二メートルも離れていないところで冷たい屍となったあの人が着ていたものだった。私が切り裂き、彼女に与えたものだった。

「ロゼ、と言ったかしら」
「…………」
「手当てをしてくれてありがとう。貴女がくれた薬のおかげで大分痛みが和らいだの。助かったわ」

 微かに笑みを浮かべて、彼女は――水無怜奈はそう、言った。

「……いいえ、お気になさらず。病院で然るべき処置を受けて下さい」
「ええ」

 見事なものだなと思う。
 私の“記憶”が間違っているのではないかと思う程に。

「今回はよくやった。お前の働きはちゃんとあの方にも報告しておこう……」

 ジンの言葉にまたしても少し笑んで、彼女は足である男と共に倉庫から出ていこうとした。その背に向かって言葉が転がり落ちていく。

「――本当に怪しかったのは貴女だったということを、……お忘れなく」

 それは暗に彼女に発信機を取り付けたのは私だと言っているようなものだった。彼女が、水無怜奈がこちらを振り返ることはなかったけれど、その表情が見えることはなかったけれど、返ってきた「……忘れないわ」の声だけで十分だった。

 水無怜奈。本名こそ憶えていないにせよ、私の記憶が確かなら彼女もまた“あちら”側の人間だった。何年先のいつ頃に何が起こるか、詳細は覚えていなくても、彼女がいずれシルバーブレットと呼ばれるあの男の偽装死に関わってくるはずだ。
 そして、あの人と血の繋がりがあったはずだった。にもかかわらず、彼女は私に笑みを浮かべてみせたのだ。錆びた鉄のような臭いが充満するこの場所で。見事なものだなと……思う。

「読みが外れたのは残念だったな、ロゼ」

 二人が出ていってから、落とされた言葉。落とした主である男を見れば、二つの遺体のすぐ傍らでそれらを見下ろすようにして煙草をふかしていた。乾いているのか、そこらに飛び散ったままの赤黒い液体が男の靴を濡らすことはないようだった。倉庫内よりも薄い灰色の煙が上へと縦長に伸びている。

「冗談。残念だなんて思うわけないでしょう」
「暫くはちゃんとみておくんだな。あの方もそう仰るだろうよ……」
「私の担当じゃないし、お断り。させるなら担当のメンバーにさせて」
「だが、女を怪しいと踏んでいたのはお前だ。あの鈴もお前が付けてやったんだろうが」
「…………実際に付けたのは私じゃない」
「それでも命じたのはお前だろう……。それとも何だ。本当はお前の読みが当たってたとでもいいてぇのか」
「……どういう意味」

 屍に向けられていた視線が私へと向く。ぎらり、と鋭い深緑の瞳が刺さって、ひとつ唾を呑み込んだ。カツ、と音が鳴る。ジンの銀の髪が翻って、うねる。灰色の煙がゆらゆらと不規則に揺れる。

「本当は“こっち”が黒だと踏んでたんじゃねぇか? なあ……、ロゼ」



 じゃなきゃ、何でお前が自分の担当でもねぇ新入りに鈴を付けた――?



 どうしてか愉しげに瞳を細めたジンに眉を顰める。血の臭いよりも濃くなった煙の匂いに足を一歩引こうとして、ぐいっと腕を取られ、そのまま腰を引き寄せられた。何のつもりかとぶつかった胸から首筋を辿るようにして顔を上げれば、タイミングを計ったかのように顔に煙を吹きかけられて突然のことに咽る。

「ッ……げほ、何す……ジン!」
「いい様だ……あの男、何かと可愛がっていたお前に裏切られるとはな……」

 クククッとこの男にしては派手に喉を鳴らしたのを見るに、よっぽど機嫌が良いらしい。機嫌が悪いのも最悪だが、機嫌が良いのも最悪だ。どうにか息を整えて、生理的に目元に浮かんだものを指先で拭い取る。私が咽ている間も落ち着いた今もジンの片腕が私の腰から動くことはなかった。
 ジン、と男の名前を呼べば、上から刺さるように視線が降ってきた。ぞっとする程に冷たい瞳が私を縫い止めて放さない。

「女がヤツに接触するかもしれねぇってんのを利用したってんなら、とんだ狐だな」
「っ……さっきから勝手に話を進めないで」
「なら、さっさと吐け」
「吐くも何も、私は彼女が不審な行動をしていたから付けただけ。そんなのはいつものことでしょう。まさか彼女があの人に接触するなんて思わなかったし、あの人の方が潜りだったなんて夢にも思わなかったんだけど」

 否、私は“知っていた”。
 彼女が、水無怜奈が組織に名を連ねたその時から、いつか必ずこんな日が訪れることを。いや、“訪れなくてはならない”ことを。だからと言って機を窺っていたわけではなかった。“記憶”の中の水無怜奈の父親が“あの人”だと知らなかった。あの人が、こうなる定めにある人だと知らなかった。……でも、“訪れなくてはならない”事の為に自身が行動していたのは確かだった。だけど、それでも。


「――偶然でしょう」


 そう、偶然。偶然であって。私が、あの人を、何かと私に優しかったあの人を、――死に追いやってしまったなんてことは。

 目を逸らすこともなく、偶然だと言い切った私にジンはつまらなそうに鼻を鳴らした。けれど、その口角は未だに緩やかに弧を描いたままで、この男の中では私が何と言おうと私があの人を裏切ったという結論にされるようだった。それで何か自分の身が危なくもなろうものなら何かしら対策を取らねばならないが、単にジンの中で私が、ロゼが情のある人間をも裏切ることの出来るヤツだという認識に変わっただけなら問題はない。下手に口を開いても、怪しまれるだけならばこの話はこれでお仕舞いだ。

「兄貴! 来やしたぜ」

 聞こえたウォッカの声にジンはゆったりとした動作でそちらの方に目をやって、私の腰を引き寄せていた腕をするりと解いた。そのままコートのポケットに手を突っ込んで、私の横を通り過ぎていく。ジンの背中を見ることはしない。

「…………、……」

 生きた亡霊のような男がいなくなった視界で、映し出されるもの。人間だったはずのものが二つ、無造作に置かれている。冷たくなっただろうそれは動くことはなく、何かを言葉にして訴えてくることもない。辺りに広がる黒に近い赤。鼻をつく臭いが充満している。
 それは、今までにもう何度も、何度も目の当たりにしてきた光景だった。痛みも悲しみも虚しさもこの胸を貫きやしない。



「――あなたも来ていたんですね、」


 
 耳に届いた、温度の感じられる声。



「ロゼ」



 その声が私を呼んだ。
 後ろを振り返ることなく、眼はあの人だったものを捉えたままで「貴方は物好きなんですね」と返す。またひとつ、私のものではない足音がこの倉庫内に響いた。

「まあ、否定はしませんよ。僕が会ったことのない幹部の方々が見えていると聞いたものですから」

 まだコードネームを与えられていないにせよ、彼は既にこんなことに呼び付けられるような地位にはいなかった。それなのに、ここにいるということは彼が自らの意思でやって来たことに他ならない。

「会えましたか」
「顔をちらっと見た程度です。やはり幹部の方は纏うオーラが違いますね。僕一人で挨拶なんてとても」

 そんなことちっとも思っていないだろうに。 
 足音が私のすぐ傍で止まったのを聞いて、青年へと視線を移す。先程までの私と同じように人間だったものを見ていたらしい安室透が私の視線に気付いて、その顔に小さく笑みを浮かべた。外では呼び付けられた構成員が早速ガソリンを撒いているのか、微かにそんな臭いが感じられる。

「……手前で倒れている方は組織の中でも割と中堅の方だったんです」
「何をやらかしたんですか?」
「潜りだった、……それだけですよ」
「へぇ……。となると、もう一人はその仲間というところですか」

 変わらない、穏やかな声と表情。
 
「これはあの幹部のどちらかが?」
「……私が、と言ったら?」

 再び、あの人たちだったものに視線を戻して言った。言ってしまった。言ってしまった後で、ああなんて愚かな問いかと気付く。こんなことを言って何になるというの。あなたはそんなことをしないでしょう、なんて言ってでも欲しいのか。そんなこと、彼も言いはしないだろうし、私自身、“しない”なんてことが有り得ないことを知っている。そんな言葉を望んじゃいやしない。この手で既に――……。それなのに、そんな問いを零してしまったのは何故。
 私と同じく、あちらに向けられていた青の瞳が、こちらを見たのが分かった。

「……あなたがやったのだとしたら、」

 お手柄じゃない。

「…………いえ、そんな仮定の話は必要ないでしょう」


 ――あなたが殺ったわけではないんですから。


 彼の、安室透のその言葉に目を見張ったのは、嬉しかったからじゃない。驚いたからでもない。気付いてしまったからだ。私が、……私が、あの人を死に追いやってしまったわけではないと思いたかった、誰かにそう、言ってほしかった――そんな浅ましい想いを抱いていたことを突き付けられたからだ。
 引き金を引いたのがあの人で、そうするしかないまでの状況を作ってしまったのが彼女でも、元を辿れば、“訪れなくてはならない”出来事の為に動いてしまった私の――私の、咎。

「……私がやったも同然ですよ」
「……本当にあなたは読めませんね。らしいと言えばらしいのか、らしくないと言えばらしくないのか」
 
 組織にとって鼠を退治したということは誉められるものなのでは? と続けた安室透にそっと口角を上げて瞼を閉じた。閉じた先の残像があの人を映し出す。輪郭が徐々に薄れていく。瞼を開けて、踵を返す。出入り口へと歩き出す。もう振り返ることはない。

 ……振り返らない。

 
 ***


 倉庫から出ればより一層強くなったガソリンの臭い。外は夜へと向かって明度を落としており、今は使われていない無人の倉庫の周りはひどく静かだった。遠くから微かに車のエンジン音が聞こえるくらいだ。呼び付けた構成員たちは既に帰らせたのか、それとも万が一にでも誰かいないか辺りを探らせているのか彼らの姿も見当たらない。

「別れは済んだか?」

 黒い帽子の下から刃物のような鋭さが覗いている。ゆらゆらと、煙をくゆらせたジンの傍らには当然のようにウォッカがいて、こちらを見ていた。
 
「何だ……ソイツは」

 こちらを見ているということは必然的に私だけでなく、私と共に出てきた安室透の姿も目に入るというものだろう。諸星大とは違って、コードネームも与えられていない今の彼にジンが興味を持つとは思わないけれど、目を付けられるのも厄介だろうと適当に躱そうと口を開こうとして、

「初めまして、安室透といいます。何れ、あなた方と同じ地位まで上り詰めますので、覚えておいて下さいね」

 安室透が先に口を開いていた。…………。ジンが、この男がどれ程恐ろしい人間か分かっているのかと問うように隣に立つ安室透を見れば、その顔は笑みを乗せていて。

「ソイツは何だ、ロゼ」
「……私が担当していた一人だけど、」
「ッハ、随分と懐かれたらしいな……。可愛いじゃねぇか、教育はなってねぇようだがな……」

 ゆらりと、闇から足を忍ばせてくるようにジンがこちらに向かって歩いてくる。自然と足が動いていた。

「……テメェもソイツに入れ込んでるらしいな、ロゼ」
「ジン」

 安室透の前に立った私に影が差す。見上げれば交わる瞳。私を見下ろすそれは先程のように愉しげに細められていることはなく、ただひたすらに冷たい。
 
「使えねぇ奴なら俺がこの場で始末してやってもいいんだがな……」
「あの方にも評価されている人を貴方が勝手に処分するつもり?」
「……フン、テメェにもお気に入りがいたとは驚きだ」
「貴方にもいるでしょう」

 あの黒いニット帽に長髪を持った男が。言わずとも私が示す人物に思い当たったようで、目の前の唇がうっそりと笑んだ。ああ、これはいただけない。
 そう思った瞬間、またしても顔に煙を吹きかけられ咽た。先程のように身体を拘束されていたわけではないから、煙から逃げるように足を引けば、背中に感じた誰かのぬくもり。滲んだ視界に頼らずとも、私の後ろにいたのは一人だった。

「受動喫煙という言葉をご存知ですか? 愛情表現にしてもやり方を考えないと嫌われますよ」 

 いつものように飄々とした体でそう言った青年を、片手で口を覆ったまま、貴方は怖いもの知らずなんですかと責めるように見る。私と目が合った彼はやはりいつものように柔らかな笑みをその顔に乗せたままで、初めて彼を、彼の笑みを苦々しいと思った。

「……口は減らねぇらしいな」
「生憎、そういう性分でして」

 ジンを見れば、その深緑の眼差しは安室透ではなく私を射抜いていた。何を考えているのか本当に読めない、ひと。

「兄貴、そろそろ……」
「ああ……。ロゼ」
「……何」
「フン……精々ソイツとよろしくやることだ……」

 ロングコートとその長い髪をなびかせるように、ジンは私と傍らの青年の横を通り過ぎた。仄かに唇に笑みを乗せたのが見えて、その動向を追えば、ジンが下ろした手には火の付いた煙草があって、その手がすっと動いた瞬間――。

 薄暗い灰色の世界に小さなオレンジ色が映える。
 倉庫の出入り口。あの人だったものが……見えた。

 
 ***


 倉庫が赤々と燃える様を、倉庫から離れた場所で安室透と二人、見ていた。闇に覆われつつある景色の中でそこだけが赤く、やって来た消防車やパトカーといった類の車両の持つ光が点々と浮かんでいる。窓を開けずともサイレンの音がうるさい。

「あなたは、親しかったんですか」

 ジンが火を放った後、私たちは燃え出した倉庫を背にあの場から引き上げた。ポルシェの後部座席から自身のパソコンを持ち出して、私が乗り込んだのは安室透の車だった。一度、ジンに名前を呼ばれたけれど今日はとてもそんな気分じゃなくて。あの男に捕まるよりも早く、さっさとドアを閉めて彼の車に乗り込んだ私をジンがどう思ったかは知らない。

「…………いい、人でした」

 誰と、と問うこともなくそう返した私に、隣でハンドルを握る彼はそうですかとそれだけで深く訊いてくることはなかった。それが、たったそれだけのことがどうしてか優しく感じられて、ふっと身体から力を抜く。
 血の臭いに煙草の匂い、それからガソリンと物が焼け焦げる臭い、それらが混ざり合った臭い。きっとこの車の中はその内のどのにおいもしないのに、私の嗅覚、というよりも脳の一部が麻痺してしまっているようでそれらのにおいが消えないままだ。

 ……初めてではない。こんなことは。
 なのに。
 ……なのに、どうして。

「ロゼ、」

 痛みも悲しみも虚しさも感じない。この胸を貫かない。
 なのに。
 ……なのに、どうして。


「何もお前さんが手を汚すことはないさ」


 あの人の、言葉を、あたたかな表情を、思い出すのだろう。
 
 私の名前を呼んだ安室透の方へとゆっくりと顔を動かす。私を見る、その青い瞳。褐色の肌。柔らかな色をした髪。


「あなたが殺ったわけではないでしょう」


 まるで私に言い聞かせるようなそんな口調で零されたもの。私がそんな人間ではないことを知っているだろうに、まるで私が気にしていることを気にするなと言わんばかりのそれ。……私は、こちら側の人間で、誰かを殺めたとしてそれを気にするなんてことはないんですよ。そもそもそんな資格すら、ない。許されることでは、ない。

 けれど、……けれど。 
 貴方の声に、許してほしいと、そう、想ってしまった。

 視界の片隅で赤い炎が美しく揺らいだ。

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