アンダンテ | ナノ


 忘れないのではなく、忘れられないのだ。


episode.6
「鋭い星が夜を射抜く」



 くるりとスプーンを回せば、綺麗に描かれていた白いハートの模様がゆっくりとエスプレッソと交わって消え失せた。

「あぁ、もう混ぜちゃったの? せっかく可愛かったのに勿体ない」
「どうせ飲むのに形は崩れるんだから、勿体ないもないでしょう」
「そうだけど……可愛いから、飲んで崩しちゃうの勿体ないじゃない」
「飲まないで飾っておくつもり?」

 ほんの少しからかい混じりにそう言えば、目の前の女性は小さな声で「奏ちゃんの意地悪」と零して、それから私と同じように、スプーンでくるりとミルクで描かれていた猫の模様を崩した。彼女が砂糖を入れてからそっと口付けたのを見て、私もカップに口を付ける。砂糖を入れなかったエスプレッソはそこそこ苦い。
 ラテと一緒に頼んだ昼食代わりの苺のショートケーキにフォークを入れて、一口に切る。落とさないように口に運べば、こちらをにこにこと見つめている彼女が目に入って、視線を彼女へとやった。
 
「……嬉しそうだね」

 しっとりとスローテンポの曲が流れる店内。淡い橙色をした照明。落ち着いた色合いで統一された家具たち。鼻を擽るコーヒー豆の匂い。座り心地の良い椅子。ここを訪れた人の多くはきっと落ち着ける場所として、安らぎもするのだろう。実際、そのような人が多々見受けられた。コーヒーを飲んで一息ついている人、ゆったりと椅子に背を凭れて本を読んでいる人、穏やかに話をしている人……。

「もう何度も言ってるけど、奏ちゃんと会えて嬉しいのよ」

 こうしてお茶も出来て嬉しい、と本当に嬉しそうに続けた彼女に、……宮野明美に、小さく、そうとだけ返した。

 日も落ちかけの時間、彼女と街中で会ったのは確かに偶然だった。
 また新しく組織へと入ってきた者たちの仕事をみて、路肩に止めた車内で上へと報告し終えた頃、叩かれた運転席の窓ガラス。警官だったら少しだけ面倒だなと思いながら顔を上げれば、見知った顔があった。窓を開けてみれば、呼ばれた名前。
 これから彼氏とデートの予定だったのだが、彼氏の方が一時間程遅れるというので時間を持て余しているのだと彼女は言った。その間、奏ちゃんが良ければお茶をしない? とも。

 ……彼氏。
 宮野明美の彼氏。恋人。

「今日はどこへ?」
「うーん……夜ご飯を食べに行って、近くの公園を散歩するくらいかしら」
「………………」
「あ! 普通だって、つまらないって思ったでしょ?!」

 普通がいいの! 普通でいいのよ! と主張してきた彼女に“普通”とは何かを考えさせられる。好いた人と食事をして、他愛もない話をしながら二人で歩く――。普通だなんて、つまらないだなんてそんなことは思わない。だって、それは、紛れもない「幸せ」でしょう。

「……奏ちゃん?」

 ふと黙り込んだ私を不思議そうに呼ぶ彼女の声は柔らかい。この声に呼ばれるなら、彼女に“名前”を教えたのはあながち間違いでもなかったかもしれないなと思う。

 監視というのは、対象にこちらが監視していることがバレないように行動するのが基本ではあるけれど、監視が付いているとあえて対象に分からせることで行動を制限することもある。彼女の場合は後者だった。
 だから、宮野明美自身、自らの自由が監視されたものだと知っているし、私が偶に彼女の監視役として就いていることも知っている。私と彼女は、監視する側とされる側。だというのに、彼女は最初から私にはフレンドリーな態度で接してきた。初めまして、と優しげな笑みと共に零した彼女に抱いた第一印象は「変」、それに尽きたことを憶えている。

 今でも思わなくはないけれど、今はそれよりも、

「なぁに? 奏ちゃん」
「……何でも」
「何でもって顔じゃないけど……、奏ちゃんが笑ってくれてよかった」

 無理矢理付き合わせちゃって悪いことをしたかなって思っていたから、よかった。なんて、――なんて、善良な人間かと、思う。思って、しまう。私をそんな風に気に掛けてくる人間は、目の前の彼女、たった一人だった。

 だからこそ、思うのだ。
 彼女とは友人にはなれない。彼女がそう望んでも。私が、本当は――……思っていても。

「大くん、用事終わったから、ここに迎えに来てくれるって」

 彼女から振られる話題に適当に付き合って、この喫茶店で過ごすこと丁度一時間近く。掛かってきた電話を取った彼女は、穏やかな表情でそう言った。

 優しい人なの。
 優しげな瞳で、恋人のことを語った彼女。心の底から想っていると言わんばかりの顔をして。でも、一瞬、寂しそうな影がちらついたのが見えて、もしかしたら薄々勘付いているのかもしれないと思った。今はまだ、何となくそうかもしれないという疑念の程度だろうけれど。彼女は聡い。彼が思っているよりも、きっとずっと。

 視えるはずのない未来が、疎ましかった。

「奏ちゃんは、大くんに会ったことある?」
「顔は知ってる」
「顔は知ってるって……奏ちゃんらしい言い回しね」

 くすくすと軽やかな音を立てた彼女は、続けて、「ねえ、私に紹介させて」と言ってきた。誰に誰を、なんてことは訊かずとも分かっていて、小さく肩を竦めてみせる。

 先に会計を済ませてしまおうか。
 裏返しにされた伝票を黒に覆われた指先で持ち上げた。


 ***


『――命中後、ターゲットの死亡を確認』
「了解。こちらも肉眼で確認。処理班を向かわせます。貴方も片付けて、こちらへ戻ってきて下さい」

 応、の返しと共に切れた無線。すぐさま、別の場所で待機していた処理班へと連絡を取る。そちらからも応の返事が返ってきて、ようやく息を吐き出した。

 全く、手間取らせてくれる……。
 海沿いの倉庫に身を潜めていた、組織からの脱走者。脱走者と言っても、男は一番下の使い捨てに近い下っ端の構成員だった。脱走者は時々いる。自らが踏み込んだ場所の恐ろしさに気付き、耐えきれず、逃げ出す。逃げ出したところで待ち構えているのは黄泉への入り口だというのに、万が一にでも組織の手から逃れられるとでも思っているのか。

 ……途中で逃げ出したいと願うくらいなら、最初から足を踏み入れなければいいのに。踏み入れないという、その選択肢があったのだから。裏の世界でしか生きていけない人がいることを知っている。踏み込まずにはいられなかった人だって見てきた。それでも、選ぶことが許されていたのなら、“ここ”じゃなくたってよかったんじゃないの。

 そんな簡単に足を洗えるのなら――……。
 
 鉛色をした海がさざめいている。
 春先の潮風が頬を撫ぜ、髪を揺らす。

「…………、」

 間もなくこちらへと戻ってくるだろうスナイパーに合わせて、彼が車を停めるだろう場所へと足を進める。物陰から出たところでは、処理班が死体となった男を無造作に特殊ケースへ詰めようとしているところだった。まだ、若い男だった。臓器が使い物になるようなら、摘出後売り飛ばし、臓器が使い物にならずとも、人間の骨や血を欲しがる者たちへ売り付ける算段だろう。詳しくは知りたいとも思えない。

 手にしていた銃を懐に仕舞い込む。
 彼が失敗するとは思えなかったけれど、念には念を入れるべきだと構えていたものだ。それにしても、明かりには困らなかったとはいえ夜、あの距離から的確にターゲットの脳幹を一発で撃ち抜くなんて……。

「流石は、」



 ――シルバーブレット。

 

 音にせず紡いだソレ。いつか彼がそう呼ばれる日が来る。それが何時かまでは分からない。けれど、確実に訪れる。“未来”が変わっていなければ。

 図らずしも、彼――諸星 大――と同じ仕事に就かされたのは宮野明美と偶然街で会ったあの日から二日後のことだった。
 組織から脱走者が出たから、処分してこいと命が下ったのは夕方頃。何も私じゃなくても、と思ったものの、その脱走者であった男は面倒なことにも組織からある物を持ち出していた。ある物とは組織がとある施設に仕掛けている爆弾の起動スイッチ。何だってそんな物を持ち出されたんだか……。

 男は組織から抜けさせてくれないのなら、スイッチを押すと息巻いて逃げたようだった。男の処分など何時でも可能で、重要なのは男が持っていったものの方。言ってしまえば、人質を取られたようなものだった。となると、私に命が下ったのも分かる話だ。交渉するふりをして、要求を呑んだふりをして、男をおびき出し、そこを上手くつき、早々に片を付けろとそういうことだった。
 そして、そのパートナーとして連れて行けと言われたのが、組織でスナイパーとして売ることにしたらしい男、諸星大。彼もまた、あの褐色肌の青年と同じく、組織内で上手く立ち回っているようで、上からの評価をしっかりと積み上げているらしかった。でなければ、入ってきて一年そこそこの人間を裏切り者の制裁へ駆り出したりはしないだろう。
 
 男に付けられていた発信機を追って、辿り着いた先は海沿いの倉庫。私が一人で交渉に出向くも、スイッチを片手にボートを用意しろと叫んだ男に一旦、要求を呑むと言って引いた。そして、実際にボートを用意し、のこのこと倉庫から出てきた男を遠くから諸星大が狙撃した――これが一連の流れだった。

 爆弾の起動スイッチが押されることもなく、脱走者を逃がすこともなく、そして今、男の、組織から支給されていた携帯電話も処理班から手渡され、回収完了。任務はオールクリア。

「じゃ、ロゼ。報告は任せた!」

 処理班の中でもリーダー格であり、組織の中で私と等しい地位にいる男の声にひとつ頷く。私の頷きを確認することもなく、男は慌ただしく車の助手席に乗り込み、それと同時に車は走り出していた。鮮度が命なんだよ! とマッドサイエンティストの気を持つ男の口癖を思い出して、足元にあった石を蹴っ飛ばした。

 久しぶりに気持ち悪いと思った気がする。
 自分で手を下したわけでもないのに。

 そう思って、ふっと笑みを浮かべた。
 ……くだらない。


 ***


 ジンとはまた違った煙草の匂いがする車内で、もう少しで目的の場所へと着く頃、任務での応答以外、口を開かなかった男から、なあ、と声を掛けられた。彼は運転が上手いようで、揺れは少ない。

「あんたのソレは、クセか?」

 ソレ、と言われて手を止める。
 車を走らせている諸星大の方を見ても、彼はこちらを見てはいなかった。黒いニット帽を被り、私のものより長い黒髪を持った男。その横顔に、あの時――彼女を介して会った時に見られた柔らかさはない。

「……深い意味はありません。どうせ燃やすものですから」
「ほぉ……燃やすのか。なら、何故、メモをとる」

 こうして事の顛末をメモに書き記しては燃やす、そんなことをするようになったのは何故だったろう。何故、と問われて、初めて、自分でも、何故だろうと思った。
 粗方書き終えていたメモを閉じ、ペンを仕舞う。

「さぁ……何となく、でしょうか。貴方こそ、何故、そんなことを聞くんですか」
「何となく、気になったものでね……」

 その言い回しが妙に気に障って、かといって、何か口にする言葉があるかというとないものだから黙っていれば、諸星大は何でもないことのように続けた。

「あんたがもし、そうやって書き出すことで、」


 ――“何か”を吐き出しているのなら、とんだお笑い種だと思っただけだ。


「っ……」

 彼の言葉が、刺さって、けれど悟られぬように表情を崩すことはしない。
 何かって、何。分かりかけて、分からないふりをする。 

「……私にそんな口をきいて良いんですか。私の名前、ご存知でしょう」

 あの組織の幹部クラスの反感を買うような言葉を吐いて、幹部でもない「今」の貴方では下手をしたらその命すら危ぶまれるかもしれないのに、いいのかと。
 一種の忠告だったのに、彼は、



「ああ、結城奏だろう」



 衝動的に彼の米神へと銃口を突き付けていた。
 鈍い光が一瞬、街灯を浴びて煌めく。

「貴方に、その名前を呼ばれたくはありません」
「それは悪いことをした」
「…………私に、この引き金は引けないと思っていますか」

 銃を突き付けられているというのに、男の顔は涼しいままで、態度も飄々としたものだった。走ってくる対向車のライトが男の横顔を照らし出す。


「アイツが、あんたを優しいと言っていたからな」


 その言葉に今度こそ、顔をしかめるほかなかった。
 彼女が私を優しいと言っていたから何だというの。優しいから撃たないだなんてそんな馬鹿な話があるものか。私はそんな人間じゃない。そんなこと分かりきっているくせに、そんな言葉を吐くなんて。
 
 寄った眉間の皺もそのままに、突き付けていた銃口を外した。
 

 ***
 

「……これは?」

 回収した、脱走者の携帯を、組織が所有する機械類の修理や管理を担当する者のところへ置きに行くべく、ここでいいと車から降りようとして諸星大から手渡された小さな紙袋。中を見ればシンプルな包みだが、可愛らしいラッピング。当然、この男からの貢物ではないだろう。

 私に紙袋を手渡して、煙草へと火を付けようとしている男に、一応、尋ねる。
 シュッと擦られたマッチが淡い色を纏ったのが分かった。

「あんたに奢ってもらったことを気にしていてな。あの日、あんたと別れた後で買っていた。渡せるようなら渡してくれと頼まれたものだ」

 誰が、なんて愚問。
 煙草を吸って、それからひとつ息を吐き出した男は見ずに助手席のドアを開け、外へ出る。人通りも車通りも少ない夜道にバタン、と音が響いた。夜風が吹いていて、寒い。歩道へと車を回り込むようにして向かえば、ひゅっと風が過ぎて行く。
 
「彼女、……貴方のことも優しいと言ってましたよ」

 左ハンドルの車。足を止めて、開けられた運転席の窓の横に立った。
 呟いたのはある種の嫌味で、先程のお返しのようなもの。優しいと言われておきながら、私も貴方も誰かを手に掛けることを躊躇わない。優しいって、何でしょうね。

 返事はない。
 何か返ってくるとも思わなかったし、期待もしていなかった。
 渡された紙袋片手に、歩き出そうとした瞬間、


「ロゼ?」


 唐突に聞こえた声。
 コートが風にはためいて、雑な音を立てた。

 どうして、こんなところに……。探偵業でもこなして来たのだろうか。タイミングが良いのか、悪いのか、私の方へと歩いてくる人影を目に留めて何とも言えない気持ちになる。帽子に収まっていない彼の明るい色をした髪が時折、街頭を掠めて光ってみえた。

「こんばんは、ロゼ。奇遇ですね。仕事帰りですか?」

 そう穏やかな声と顔で訊いてきた安室透に何か返事をする前に、彼の青い瞳が一瞬、鋭さを纏ったのを見た。

「何でその男がいるんですか」

 私のすぐ傍に寄った安室透が、私の横に停まっている車の運転席に座る男を見つけて言った。彼の視線を追うように見れば、不躾にもそんな言葉を吐かれた諸星大の方はこちらを見るでもなくただぷかぷかと煙草をふかしている。薄い灰色の煙が上がっては、うっすらと線を残すように消えていく。

「…………一緒の仕事に就かされたもので」

 諸星大から視線を外してそう言えば、目の前の青年も同じように男から視線を外して、今度はその海のような色をした瞳が私を映した。明るい場所で見るよりも濃いその色。
 私の言葉にあからさまに不満そうな顔をして、

「僕とは暫く一緒の仕事に就いてないじゃないですか」

 拗ねたように言うものだからほんの少し笑みを含んだ吐息が漏れる。

「貴方とはちょくちょく会っているでしょう」
「それとこれとは話が別ですよ。僕だってあなたと仕事をしたいんです」
「……私に拘らずとも良いでしょうに」
 
 貴方は誰とでも上手く仕事を成し遂げているし、成し遂げることが出来るのだから。何故、私に拘るのかが分からない。私に気に入られたい、なんて――考えなくていいのに。


「僕はあなたがいい」


 思ったよりも、真剣さを感じさせる声にゆっくりと瞬きをひとつ。
 それからそっと小さく口角を上げてみせた。

「行きましょう」

 安室透へそう声を掛け、開けられたままの車の窓に向かって「彼女にお礼を言っておいて下さい。私が次、彼女に会えるのがいつかなんて分かりませんから」と告げる。ああ、と短い返しを背に今度こそ歩き出す。

 おそらくは訊きたいことがあるだろうに、何かを訊いてくることもなく安室透は自然な動作で私の横に並んだ。二人分の足音が夜道を鳴らしている。
 
「ロゼ、仕事帰りなら夕食はまだでしょう? 僕もこの時間まで猫を捜していましてね、まだなんです。ああ、猫は既に飼い主の元へ届けてきたので大丈夫ですよ。それで、どこかへ食べに行きませんか。勿論、帰りは送りますから」
「……貴方の誘いは相変わらず強引ですね」

 誘っているくせに、もう決まっているような口ぶり。悪くはない。そう、……悪くはない。

「その前に寄るところがあります」
「そこは僕が付き添っても構いませんか?」
「構いませんよ」
「なら、僕も一緒に行きます」 
 
 ――いいですよね?
 歩道を歩く私達を追い抜いていった諸星大の車を意識してか、彼の声は柔らかいのに、語調は強いもので。

「……あの人と何かあったんですか」
「そういうわけではありませんが……、」

 一端、言葉を途切れさせた安室透の視線の先は。

「どうもあの男はきな臭い」

 独り言のように零されたそれ。
 少し間を空けて、そうですね、と返した。


 それはきっと、――予感のようなもの。

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