アンダンテ | ナノ


 一体、何をもってすればその心の内を揺らせるのか探しあぐねていた。


episode.5
「まがいものの想いを焼べる」
side:安室 透



 ピンポーン……、とインターホンを鳴らしてからたっぷり三十秒程、間を空けて開かれたドア。チェーンロックがゆるく垂れている。十センチも開けられているかどうかの間から顔の半分を覗かせた人は僕の顔を見ても何も言わない。エントランスの鍵を開けてもらった時も彼女は何も言わなかった。溜め息のひとつでも吐かれるかと思ったが、外れたようだ。おや? と思うものの、それは笑みの裏に隠して、目の前の表情ひとつ変えない扉越しの人――ロゼ――に声を掛ける。

「入れてくれませんか?」

 夜の八時を回った今、辺りはすっかり暗く、マンション内の灯りが冷気のせいか、くっきりとして見えていた。自身の吐き出す息もまた白い。
 寒いわけではないが、部屋に入れてもらうために寒がってみせようかとしたところで、チャリと金属の擦れる音がした。ジャラと雑な音が耳を掠めた後で大きく開かれた目の前のドアに、手を掛ける。今度はカサッと自身が持つスーパーの袋から擦れる音がした。

 お邪魔します、と一言断って室内へ足を踏み入れた時にはロゼはこちらを見ることなく、奥へと歩いて行ってしまっていた。部屋の主に代わって、鍵を掛けておく。
 ざっと玄関周りを見回すも、監視カメラのようなものは見受けられない。……流石にあの組織の幹部クラスが監視されているなんてことはないか。何かしらやらかしたならともかく、過度な監視は破滅を生みかねない。玄関の靴箱の上の空きスペースにも何も置かれていなかった。

 下を見れば、誰も履いたことのないだろうスリッパがちょこんと揃えて置かれていて、ふっと息を緩める。靴を脱いで、スリッパを履き、ロゼがいるだろう居間へと足を進めていく。廊下から続くドアが幾つかあったが、居間へと続くドアだけはくもりガラスが嵌め込まれていて分かりやすい。そこまで辿り着くまでにも置物や絵画も何も見受けられなかった。この様子じゃ、居間の様子も分かりきったようなものだ。

「ロゼ?」

 くもりガラスのドアを開けて、顔を出す。僕が名前を呼んだその人は何か資料のようなものをファイリングしていた。僕の声にこちらを見たロゼが、何か言いたげに少し口を開けて、それから閉じたのを見た。もう一度、彼女の名前を呼べばようやくちゃんとした言葉が返ってくる。

「……本当に来るとは思っていませんでした」
「まさか! 僕があなたに嘘を吐くとでも?」
「……正確には、貴方のことだから来ると言ったら来るのだろうと思いはしましたが、」
「嫌でした?」

 僕の返しに彼女は何とも言えない顔をするものだから、まあ、そうだろうなと内心で呟く。ただ、彼女は嫌だとはっきり口にしない。食事の誘いにも、送り迎えの申し出にも、今に対しても。なら、嫌というわけではないということにしてしまおうというものだ。彼女が何を想って、僕を拒まないのかは分かりかねるが、拒まない何かが彼女の中にあるのは確かだろう。かと言って付け込む隙があるかというと、ないのだから厄介なものだ。

「どうして、来たんですか」

 コートを脱ぎ、台所を使う許可を貰って、スーパーの袋から買ってきたものたちを出し終わった頃を見計らってか投げ掛けられた言葉。

 どうして。

「……一人だと寂しくなるんですよ。こんな月もない夜には」

 ほとんど使われてもいないだろう包丁やまな板、ボウルを仕舞われた棚から出しては洗っていく。自身の口から零れたのは、そんな言葉。本当のような、嘘のような、曖昧なものが零れたことに、静かに笑んでみせた。


 ***


 ロゼの部屋に上がり込んで、三十分が過ぎたくらいだろうか。鳴った着信音。鳴ったのはロゼのものだ。

 ことことと音を立てる鍋を横目に皿に生野菜を盛り付けていく。……さっぱり使われた形跡がないが、この皿もあのカップもどれもこれも高級品だ。組織に潜り込んでもうすぐ一年。その間、自身のお目付け役であるロゼと行動を共にすることが多かったがロゼ自身がこういったものに興味があるようには見えなかった。
 このマンションも立地・外観からして高級なものだろうと踏んでいたが、内装もその推測を裏切らないものだった。居間に置かれたソファーやガラステーブルもおそらくは値が張るものに違いない。マンションは防犯の面から分からなくもないが、彼女に高級品を愛する嗜好はないように思える。にもかかわらず、彼女の周りはそういったもので溢れている。

 彼女がいつも着ている服に関してもそうだ。何事か英語で会話をしている彼女の様子を盗み見れば、目に入るワインレッド。あの上に着込んでいるスーツにコート。どれもが上質なもので、釦には馬や獅子、薔薇の模様が施されていることを知っている。自室だというのに外されることのない黒の手袋も、彼女の髪が束ねられているシャツと同じ色をしたリボンも手触りが良いことを知っている。

 彼女にそれらを買う金がないとは思わない。思わないが、おそらく買うことはしないだろう。ロゼに高級品を愛する嗜好がないように見受けられるにもかかわらず、そういったもので溢れているということはつまり、彼女にそれらを買い与えている者がいるということだ。どういった経緯と目的でもって、その者がそうしているのかは分からないが、そうしている者というので一番に候補に浮かぶのは、彼女が表の仕事で秘書を務めているという“資産家で美術館のオーナー”だった。
 組織の中枢部に食い込んでいる古参の幹部……。もし、その者が彼女に色々な物を買い与えているのだとしたら。彼女、ロゼを相当気に入っているに違いない。

 味見のために、お玉で小皿へとスープを移した。
 もう少し濃い方がいいか。

「――……、……?」

 料理をしながらも、意識をそれだけに集中させることはしない。手を動かしながらロゼの声へも意識を向ける。所々聴こえてくる言葉から会話の内容は組織絡みのものだと思われるが、淡々と任務の報告を行っている時のものよりも彼女の声に柔らかさが伴っているように思える。

 そして、何度か彼女の口から紡がれた「ベルモット」という単語。白ワインを意味するそれ。あの組織の幹部より上のクラスにはコードネームが与えられるという。僕自身はまだロゼを始め、数人の幹部しか目にしていないが、その誰もが持っていたコードネーム。それらに共通するものは――酒やカクテル。

 ロゼが電話を切ったのに合わせて、出来上がったサラダをロゼがいる食卓テーブルへと運んでいく。僕と僕が手に持つものを奇妙なものを見つけたと言わんばかりの表情で見てきたロゼに穏やかさを纏って話し掛ける。

「――ベルモット。今度、食事に行く時に頼みましょうか」

 ああ、我ながらなんて茶番。

 僕の言葉にロゼは何故か、こちらをじっと見つめてきた。僕に見惚れているんですか? と笑顔で尋ねてみるも、それによって視線を逸らされただけだった。相変わらずつれない人だ。今更、そう簡単につられてしまうのもつまらないが。
 食卓テーブルの上に置かれていたノートパソコンと散らばっていたプリントやファイルを部屋の中央に置かれたガラステーブルの上へと移動させる彼女を横目に、サラダを始め、出来上がった料理を食卓テーブルの上へと置いていく。

 最後に飲み物として、ロゼが好んでいる銘柄のお茶を注いで、ロゼの前へと出す。既に着席していたロゼの向かいに座れば、ロゼが、お茶を戴いても? と訊いてきたものだから、勿論どうぞと答えた。慣れた仕草でソーサーとカップを手にしたロゼが一口、お茶を飲んで、それから、

「貴方もきっとよく知る人です」
「へぇ……、よく知る人ですか」
「いずれ彼女にも会えます」
「“にも”?」

 もう一口、お茶を口にしてロゼはそっとソーサーとカップをテーブルの上に置いた。彩りよく並べられた料理たち。いただきます、と礼儀正しく手を合わせて箸を取った彼女にならって、僕も箸を取った。
 テレビもラジオも付けられていない部屋は、ひどくひっそりとしていた。そんな中で僕と彼女が鳴らす微かな食器の音が響いている。

「貴方が、」
「僕が?」
「……貴方が、コードネームを戴けば、私を始め、今、貴方が接触しているメンバー以外の幹部たち“にも”会えるということですよ」

 ロゼは僕が彼女と同じく幹部に昇進するまで、僕に組織の深くを探るなと事あるごとに口にするくせに、時々今のようにさらっと情報を寄越してくる。

 それは僕を信用しているからか。
 それとも僕を疑っているからか。 
 
 彼女が僕を好いているのか、厭っているのか。
 この一年近く、それなりの頻度で会い、言葉を交わしてきたのに、未だにロゼという女を掴み切れないままでいる。隙があるようでいて、踏み込ませない女。彼女の口から零れる言葉は上辺だけのものではないはずなのに、本物に触れた気がしない。無理に暴こうとしたところで、おそらく暴けない。暴いても閉じられる。それでは意味がない。

「あなたは読めない人ですね、ロゼ」
「貴方に言われたくはありませんね」

 そう言って、少し自嘲するかのように笑んだロゼに目を細めた。

 ベルモット――。
 今の会話で分かったことは、ベルモットという女の幹部がいること。ロゼが英語で話していたことから日本人ではない可能性が高い。それから、僕“も”きっとよく知る人ということから考えられるのは、既にどこかで顔を見ているもしくは顔を世間に公開しているということか。僕が接触しているメンバーの中にも名前を知らない者もいるというのに、ロゼは接触しているメンバー以外“にも”と言った。彼女が、僕が接触したメンバーが誰かなんてことを把握しているわけもない。となると、今の僕では接触したことのないというよりも接触出来ないメンバー……名前の分かった幹部がまた一人増えたな。接触出来ないということは、彼女より上の立場か、それとも活動拠点が異なるのか。
 
 組織の幹部に「ジン」と「ウォッカ」がいることは既に分かっている。ロゼの口から零れたことはないが、他のメンバーが恐れている人物だ。特にジンの方は、奴らのボスへの足掛かりになるに違いないと僕たちも睨んでいる、“こちら”にとっても重要な人物。幹部に昇進したとして、奴との接触に成功しなければボスにも届かないことだろう。

 それでもって、幹部に昇進するためには――……。

「味はいかがです? 割と簡単なものを作ったので、高級店の味に慣れていらっしゃるだろうあなたの口に合うかは分かりませんが」

 ロゼ。
 あなたの、評価は完全な上任せという態度はあなたに気に入られたい僕としては厄介でもあるが、余計に媚びたり態度を繕ったりする必要がない分、あなたとの仕事は随分と楽なものなんですよ。失敗も成功もありのまま上に報告しているということはつまり、仕事さえしっかりこなしてしまえば、僕の評価もしっかり積み上げられていくというもの。

 仕事には不要なお喋りもお節介も全て、僕の評価には付き纏わない。
 
「美味しいですよ」
「さっぱり美味しそうに聞こえませんが」
「……随分と久しぶりに誰かの手料理を食べました」 

 いつもと同じ、淡々とした口調で落とされた言葉に手を止めて彼女を見れば、ロゼは黒い手袋を嵌めたまま、綺麗な箸使いで「僕の作ったもの」を口に運んでは咀嚼し飲み込んでいく。

 躊躇いもなく。
 ……僕が白だと思っているわけでも、僕が信用に値する男だとも思っていないくせに、僕が作ったものを躊躇いもなく口にするロゼにほんの少し、苦味を覚えた。

「何か、入ってるとは思わないんですか」

 例えば、毒とか。
 堪らず、そう零してしまえば彼女はおかしそうに笑って、

「入ってるんですか?」

 と、返してきて、それに僕が何も言えないでいるうちにもスープをスプーンで掬っては口に運んでいた。…………確かに毒など入れてもいないし、入れるわけもないが。それにおそらく、彼女には――。

「貴方の考えている通りです。あまり深くは考えないで下さい」

 多少の毒は効かない。
 毒が効かないなんてことはよっぽどの特異体質でなければ有り得ない。それが先天性のものか、後天性のものかの差はあれど。後天性のものだった場合、毒に慣れなければそうはならない。

「……あなたは、」

 どうして、組織に入ったんですか――なんて馬鹿なことを口走りそうになって寸前で呑み込んだ。この女は紛れもなく、黒の人間だ。その手で多くの人の命を奪い、罪を重ねている。そこにロゼの意思があろうとなかろうと、彼女が人を殺しているのは事実だった。その瞬間に立ち会ったことはないが、事実として認識している。そんな人間に馬鹿なことを……。

 僕の零し掛けた言葉を待つでもなく、今度はロゼが手を止めて、

「今日、どうして来たんですか」

 僕がこの部屋に上がり込んですぐ落とされたものと同じ問い。やはり、先程の答えでは納得してもらえなかったようだ。僕を見るロゼの瞳からは何も読み取れない。視線が交わって、揺れることも、逸らされることもない。


「あなたに会いたくなったから――では理由になりませんか」

 
 なるわけがない、はずだった。


「なるんじゃないでしょうか」


 ……ロゼの言葉を噛み砕いて、一、二、三秒。なるんですか、と呟いた僕に彼女はもう一度、なるんじゃないでしょうかと言った。おかしそうに、それでいて少しだけ、……嬉しそうに。

 今日の夕方、ロゼから仕事のことで電話があった。その流れで、いつものように食事に誘ったものの、今日は部屋から出られないと彼女は言った。なら、僕が夕食を作りに行ってもいいですかと言ったのは決して良心や好意からのものではなかった。偽善なんてものでもない。

 奴ら、黒の組織を内部から探るためには何としてでも幹部クラスに昇り詰めなければならない。組織の重要な仕事を任されるような。その為にもまず、自身のお目付け役となった女幹部、ロゼの気に召せられようと最初は思っていた。ロゼが自身を贔屓にしてくれるなら、上への口添えも容易いだろうと踏んでいたためだ。ロゼが彼女自身の好き嫌いや贔屓目を一切無しにしてこちらの評価を全て上任せにするため、僕が“幹部になるために”彼女に気に入られようという考えは早々に捨てた。

 彼女に気に入られたいのは、“幹部になってから”のことを考えてだ。
 同じ幹部ならば好き嫌いや贔屓目が反映されることだってあるだろう。彼女にそれがないはずがない。

 ロゼを味方に付けておいて得することはあっても、損することはないだろうと踏んでいる。優れた記憶力を持ち、人との交渉にも長ける。武器を一通り扱えるのは裏に生きる者として当然だとして、毒を扱えるということは組織の所有する毒薬などに詳しい可能性だって高い。それから、彼女に近しいであろう組織の中枢に身を置く古参の幹部の存在。彼女がいなくとも、その人物に気に入られる自信はあるが彼女の口添えがあれば難易度が下がることは間違いない。

 その為の、――駒。
 今もその為の、一手。

「貴方は私に嘘を吐かないんでしょう?」

 ロゼだって気付いているはずだ。
 僕が、あなたをそういう風に見ていることに。

 それなのに、どうして。


 ***


 バタン、と背後で閉じたドア。少ししてカチャ、と鍵が掛けられる音がした。ドアの横に掲げられた部屋主を指すプレートには「暁 由良」の文字。

「次が、貴方との最後の仕事です」 

 そう言ったロゼから渡されたフロッピーディスクが掌に収まっている。中身は一度見れば、データごと消去される仕組みで、かつ、組織の手が加えられたパソコン以外で開こうとすればその時点でデータが破壊されるというものだ。

 半年を過ぎたあたりから、物の取り付けや回収作業、現場の下見やターゲットの行動の把握など比較的簡単な仕事の時はロゼが現場に来るということは少なくなり、ロゼが僕らと動くのはターゲットとの接触や取り引きの現場に赴く時などに限られていた。ただ、偶に取り付けられていた僕らを監視するための盗聴器や発信器。僕と共に仕事をしていた所謂下っ端でソレに気付くことなく、時々ヘマをやらかしては“誰も見てないから”とへらへら笑っていた男などはいつの間にか姿を見なくなった。

 奴らの“試験”は流石得体の知れない組織なだけあって、シビアだ。
 僕もおそらくは疑われていただろう。仕事が出来る、だがそれだけ出来るとなると逆に怪しい、と。だからこそ、一年もかかった。ロゼの腕から放されるまで。
 
「……まあ、悪くはなかったが」


 あなたの腕の中も。


 高価なものたちに包まれているくせに、ファーストフードやコンビニのもので食事を済ますことも間々あるという彼女。料理はしないんですか、出来そうなのにと零した僕に彼女は、ロゼは、食べたくなくとも食べなければ生きられませんからと返してきた。あの人は、出来るなら何も食べたくないのかもしれなかった。一緒に食事に行っても、どんなに有名な店に赴いても、そういえば彼女が美味しそうにしているのを見たことがない。今日、先程、僕が作ったものを食べている時の方がよっぽど――……。

 ……ロゼ、読めない女。

 自身のお目付け役であるロゼの目が外れるということは、組織の中へと更に一歩踏み込めたことになる。あとは上手いことやって、幹部への道を切り開くとしよう。そこに至るまでも、至ってからも彼女を僕の方へ傾かせることは諦めない。ロゼが持っているモノ、ロゼ自身、手に入れておけば今すぐではない“いつか”きっと役立つだろうしな。

 その為に、彼女の部屋にまた上がり込んでもいいかもしれない。身体から落とすという手もある。彼女にその隙があればだが。胃の方から落としこんでもいい。

 手にしたフロッピーをコートのポケットに仕舞い込む。万が一にも落としてしまわないように、奥深くへと突っ込んでボタンを留めた。
 歩き出せば、途端に冷気が身体へと纏わりついてくる。電灯のひとつが切れかかっているのか、チカチカと不規則な点滅を繰り返していた。

 静まった夜に、靴音が溶ける。

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