雛唄、 | ナノ

09


「はい、雛さんの分です!」
「…………ありがとう?」

 にこにこと眩しいばかりの笑顔を浮かべた三治郎くんに手渡された空の籠と箸。ありがとうなんて言って受け取ってしまったけれど、この籠と箸はさて一体何に使うものなのだろう。

(嫌な予感がしてきた……)

 私の周りの井桁模様を纏った四人が所属している委員会のことを考えると、この籠と箸をそっと地面に下ろしたくなる。

 夏休み明けの予算会議を皮切りに昨日から始まった、委員会見学。初日の昨日は鉢屋くんが委員長代理を務めるという学級委員長委員会にお邪魔して、他愛もない話を交わしながらお茶をし、即席で作ったトランプで遊んでいたものだった。使用していたルーズリーフで作られた薄っぺらの五十三枚のカードは大事にスクバの中に仕舞ってある。

 そんな委員会見学、二日目の今日。
 今、私の目の前に広がる草、草、草。緑、というよりも草。……草。

 ここまで私の手を取って連れてきてくれた一年は組の三治郎くんと虎若くん。連れてこられた先には一年い組の上ノ島一平くんと一年ろ組の初島孫次郎くんがいた。一平くんと孫次郎くんとはほとんど初対面のようなものだったから、よろしくねと挨拶をしている間にどこから持ち出してきたのか籠とピンセットと箸を抱えた三治郎くんと虎若くんがいて、私の分だという籠と箸を三治郎くんから渡されたのが十秒前くらいのこと。

「一平と孫次郎、挨拶済んだでしょー?」
「うん」
「じゃあ、ぼくたちも行こう!」

 そう言って、再び私の手を取って歩き出した三治郎くんに慌てて問う。

「ちょ、ちょっと待って、三治郎くん」
「? 何ですか雛さん」

 私の方を振り返った三治郎くんに倣ってか、他の一年生三人も歩みを止めて私を見上げてくるものだからうっと少し言葉に詰まる。爽やかな青空の下、乾いた風が吹いて皆の髪を、着物を、目の前の草を揺らしては通り過ぎて行く。
 ここから少し離れたところから、いつものように生徒たちの声で聞こえてきた。

「えーっと、訊きたいことがいくつかあるんだけど……いいかな?」
「いいですよー」
「じゃあ、えっとまず、どこ行くの?」

 この草の中? と付け足せば、そうですよ? なんて可愛らしい答えが返ってきた。何のために? と問えば、委員会活動をするために、と。竹谷くんと孫兵くんは? と問えば、もう既にこの草の中に入っているとのこと。

「……委員会活動って何するの?」

 そう問えば、目の前の四人は顔を合わせた後に全員がへらりと何とも言い難い笑みを浮かべるものだから、嫌な予感はますます強くなっていく。私がじりっと後ずさろうとしたことに気付いたのか、私の手が三治郎くんに取られているのは変わらず、虎若くんと孫次郎くんの二人が私の背後に回ったかと思うとぐいぐい背中を押してきた。一人残った一平くんが三人の分の籠とピンセットを纏めて持っているらしい。

 手を引かれ、背を押され、足を動かしてしまうもののちょっと待ってほしい。

「え、ちょ、待って。え、ねえ、何するの?!」
「ただの虫取りです!」
「虫取り!?」
「ちょっと毒があるやつ……」
「毒!?」 
「大丈夫です! 直接手で触んなきゃ!」
「え!?」

 早く行きましょう! との声に、私のこの委員会見学は、委員会体験になりつつあることを悟ったのだった。嫌だなんてことは思わないけれど、でも体験させてもらえる内容次第かもしれない。可愛らしい子たちに嫌だ、行きたくないと駄々をこねることも出来ず、青々と生い茂る大量の草の中――忍術学園の菜園だという場所――に足を踏み入れる他、なかった。

 
 ***


 彼女は思っていたよりも真剣に俺たち、生物委員会の活動その一を手伝ってくれた。虫が得意とは決して言えないだろう彼女に逃げてしまった毒虫を捜させ捕獲させるのは酷なものかと思い、無理はしなくていい、一年が間違って毒虫に刺されたり噛まれたりしないか様子を見ていてくれるだけでもいいんだと言った俺に彼女、雛さんは少しだけ苦笑して言った。私に出来る範囲で、手伝う――と。

 その言葉通り、雛さんは雛さんに出来る範囲で毒虫の捜索と捕獲を手伝ってくれた。委員会見学っつーから、見学だけでもよかったんだろうけど、あちらこちらで虫に遭遇しては俺たちに知らせてくれる雛さんに孫兵も、一年の四人もいつもより楽しそうだったし、よかったんじゃねぇかなと思う。……毒虫の捕獲が楽しいなんておかしな話ではあるけどよ。そう思って、ほんの少し苦笑する。

 毒虫というものに慣れてきたのか、雛さんが一人で毒虫を捕まえてきた時は驚いたものだ。器用にもちゃんと箸でつまんでいた雛さんに「おほー……」と生物委員一同で感嘆の息を漏らしたのも記憶に新しい。ま、顔は微かにひきつっていた気はするが。その後で、雛さんが蜘蛛の巣に引っかかり、蜂には追い回され、転び、最終的には綾部が掘っただろう穴に落ちた一連の流れには彼女には失礼だが笑わずにはいられなかった。いやー……見事なものだったな。

 徐々に朱色に染まりゆく空に向かってひとつ伸びをする。そのまま腕を伸ばし、肩を解していれば後ろから自身の名前を呼ばれて振り返る。
 振り返った先には水場で汚れてしまった手や足を洗ってきただろう雛さんと、今から向かう場所に必要なものをそれぞれ腕に抱えた生物委員五人の姿が見て取れて、その姿に俺も自身の足元に置いておいた籠を右手で持ち上げた。 

「よーし。餌は持ってきたな?」
「はい!」
「じゃ、行くかー……って雛さん、そんな恨みがましい顔すんなよ。悪かったって!」
「だって竹谷くん……」
「だからさっきは悪かったって! 笑って悪かったよ!」

 視線を感じて、その方向を見れば若干恨みがましい顔をした雛さんがいて、左手で頬をかいた。いやまあ、人の不幸を笑ってしまった俺が悪かったんだけどさ。苦笑しつつ悪かったと口にすれば、雛さんが仕方ないなぁ……と言わんばかりの顔をしたから、

「わっ」
「悪かったって! だから詫びって程でもねぇけど、可愛い奴らんとこに連れてってやるから。前に連れてってやるっつって結局行けず仕舞いだったろ? 雛さんも気に入ると思うぜ!」

 近づいてそれからその頭にひとつ手を置いた。俺の言葉と行動にぱちぱちと幾つか瞬きをした雛さんが小さな声で「私、竹谷くんより年上なんだけど……」なんて零したからそのまま彼女の頭を雑に撫でれば今度はしっかりした音で抗議の声が飛んできた。それに笑って、手を離す。

 もう……、と聞こえてきた雛さんの小さな声を背に、俺と雛さんのやり取りを見ていただろう後輩たちの頭も順にぽんぽんと軽く撫でていく。最後に一人すたすたと歩き始めていた孫兵(と孫兵の肩に乗っていたジュンコ)の頭に追い抜きがてらひとつ手をやって、行くぞー! と声を掛ければ元気な返事が返ってきて、目元を緩めずにはいられない。可愛い後輩をもったもんだ。上級生がせめてもう一人くらいいればな、と思うことは間々あるものの、自身を慕ってくる後輩というものは可愛いものだ。

「雛さぁん、置いてっちゃいますよー!」
「ええ、ちょっと待ってー!」
「雛さん、早くしてくれー」
「髪ぐしゃぐしゃになったのは竹谷くんのせいじゃん……!」

 俺が乱してしまった髪を髪紐を解いて結び直しているらしい雛さんの声が後ろから聞こえてくる。振り返ってみれば三治郎と孫次郎が雛さんの歩く速さに合わせて歩いているようだった。

 乾いた地面が俺たちの足袋と草履で微かな音を立てている。人数分の影が淡く地面に映し出されている。さっと駆け抜けていく風は夕方にもなると涼しさを運んでくる。
 緑の葉がひらりと宙に舞ったのを眺めながら、もう少しして秋が深まってきたのなら生物委員一同で外にどんぐりか、栗拾いにでも出掛けるかなぁなんてことを考える。その時には雛さんも誘ってやろう。夏休みの間、俺と勘右衛門とで彼女を何度か裏山には連れていったが、まだまだ俺たちに比べればこの学園内に軟禁されていると言っても過言ではない彼女のことだ。きっと喜んで誘いに乗ってくれることだろう。

 今向かっている場所のことや生物委員会で飼っている動物たちの話、それから“雛さんがいたところ”の話をしながら俺の後ろをついてくる後輩たちと雛さんの声に、歩みを進める俺の気分はひどく穏やかなものだった。


 ***


「ふぉ……もこもこ……!」

 ぼくの所属する生物委員会が飼育している兎の一羽をその腕で抱き上げた女の人を見上げる。「ふぉ、なんて変なの〜」と三治郎に言われたその人はごほんっとひとつ咳払いをして、そろそろと腕に抱いた兎を撫でていた。
 指先に幾つか切り傷を残しながらも綺麗な手で、優しい手つきで、繰り返し兎を撫でているその人、西園寺雛さん。ぼくも抱き上げた兎の頭を撫でながら、彼女を見ていた。

 一年生の中では、比較的は組のきり丸やろ組の伏木蔵が彼女とは親しいと聞いている。ぼくのい組の中なら左吉が。

「雛さん、撫でてんのもいいけど餌もやってくれよ」
「うん……」
「うんって言いながら下ろしてねぇぞ」
「もうちょっと」
「しゃあねぇなぁ……。虫たちの方は孫兵と虎若に任せるとして、じゃあ、三治郎、孫次郎、俺らは犬たちのところに行くか」
「え!? ああ待って、私も行きたい!」

 兎を抱いて動こうとしなかった彼女だったけれど、竹谷先輩の発した「犬」という単語に反応して、さっとその腕から兎を放していた。……ちょっと、うーん……、結構、名残惜しそうな顔をしてた。

 彼女が放したのに倣ってぼくも抱いていた兎をそっと地面へ下ろす。ぴょんぴょんと跳ねていく姿にぼんやりとかわいいなぁと思っていれば、掛けられた声。一平くん、と声を掛けてきた人を見上げれば差し出された草や人参の入った籠。

「これ、全部あげてもいいのかな?」

 そんな言葉にひとつ頷いて、彼女と一緒にぼくも兎たちに餌をやる。ここに来るまでに兎は未来にもいますか? なんて話をしていて、その中で兎をペットとして飼うことはあっても家畜の一種として飼うことはほとんどないと言っていたから、この兎たちもいつかは食べられてしまうかもしれない可能性なんて、ぼくの隣でゆるゆると頬を緩めて兎たちを見ている彼女には浮かばないんじゃないかなぁ……。
 ぼくだって、可愛がっている兎たちを好んで食べたいとは思わないけれど、いざという時には何でも糧にするのが当たり前だと知っている。

「……楽しいですか?」
「ん? うん、楽しいよ」
「兎、好きですか?」
「好きだよ。一平くんは?」

 彼女の柔らかな声と柔らかな表情にちょっとだけ恥ずかしくなって、ほんのちょっと間を空けて頷いた。そうしたら、餌をもぐもぐしている兎を見ながら「可愛いよね」と彼女が返してきたからそれにもまたひとつ頷く。

(……西園寺雛さん)

 未来――、それもずっとずっと遠い未来からやってきたらしいひと。
 上級生が警戒していたのを知っている。い組の級友たちが得体の知れない人には近づかない方がいいと言っていたのを覚えている。この人がひどく悲しそうな顔をしていたことを、ぼくも遠くからだったけれど見ていた。

「雛さん、俺らやっぱ先に行ってるわ。犬たちんとこ行く前に鶏小屋寄ってくし。一平に後でこっち連れてきてもらってくれ。一平もいいよなー?」

 竹谷先輩の声に分かったと返した彼女に続いて、ぼくも分かりましたぁと返す。竹谷先輩と三治郎と孫次郎が犬たちを飼っている小屋の方へ歩いていったのを見届けて、また視線を目の前の兎たちに戻した。もっしゃもっしゃ……いつものことだけどすっごい食欲だよねぇ。

「えーっと、掃除もするんだっけ?」
「あ、忘れてた」
「じゃあ掃除して、私たちも竹谷くんたちのところに行こっか」

 そう零した彼女にはい、と返事をして、用具室から持ってきて小屋に立てかけてあった箒の一本を彼女に、雛さんに渡した。そんな些細なことひとつに、雛さんはありがとうとお礼を言ってくれる。ぼくは何だかそれがとても嬉しくて、それでいてやっぱり何だかちょっと照れくさく思えて、誤魔化すように笑ってみせた。

 昨日、この人と、雛さんと初めてまともに話したと言っていた彦四郎が、ぼくと伝七に向かって「二人も雛さんと話してみるといいよ」と告げてきたことの意味が分かったような気がしたんだ。

 夏休みが明けて、上級生の先輩方が雛さんのことを警戒しなくなったことを知った。い組の中でも雛さんに近づかない方がいいといった声が消えたのが分かった。食堂や学園内のどこかで見掛ける雛さんが明るい表情を浮かべているのを、ぼくも前よりは近いところから見ていた。

「雛さん」

 ぼくが名前を呼べば、雛さんは「ん?」と微かに首を傾げて掃除をしていた手を止めてぼくを見てくれた。

「ぼくとも仲良くしてくれますか?」

 
 ――三治郎たちと同じくらい。 


 ぼくの言葉にちょっとぽかーんとしていた雛さんだったけれど、次の瞬間にはぼくの目線の高さに合わせるようにわざわざ膝を折って、

「勿論だよ、一平くん」

 それから、ちょっと恥ずかしそうに、私の方こそよろしくねと言ってくれた雛さんにぼくは今度こそ満面の笑みを浮かべた。

(だって、三治郎たちばっかり雛さんと仲良くしてるのはずるいもんね? ね!)


 ***


 生物委員会の面々と共に彼らの委員会活動を体験すること、三時間あまり。最初は菜園という名の草がボーボーに伸びた場所へ、孫兵くんが逃がしてしまったという毒虫を捕まえるために連れていかれ、生物委員会の体験内容とか碌なものじゃないなと思ったものだったけれど、その後で兎を始めとした動物たちと触れ合えることが出来て、それから一年生と――特に今まであまり関わりのなかった一平くんと孫次郎くんと――少し仲良くなれたようで、現金な私は今ではすっかり竹谷くん率いる生物委員会のことが好きになっていた。

(虫はやっぱり好きになれないけど……)

 私の両隣を歩く一年生二人に気付かれない程度に苦笑する。

 虫といえば、あんなだだっ広い菜園じゃ逃げてしまったという毒虫を見つけることが困難なんじゃないかと思ったものだったけれど、どうやら虫にも習性というものがあるようで、それらを熟知しているらしい竹谷くんと孫兵くんが目を付けたところを隈なく捜索した結果、逃げてしまった毒虫のうちの八割方を捕獲することが出来た。

 捕獲じゃなくて、捕虫って言ってたっけ……。

「雛さん、あとはこの子たちに餌あげて今日のところはお仕舞です!」
「りょーかい」
「ねえ、雛さん、雛さん!」

 忍犬として訓練されているらしい犬たちが元気に駆けているのを見ながら、右隣を歩いていた三治郎くんが掛けてくれた言葉に返事をすれば、今度は左隣を歩いていた虎若くんから名前を呼ばれた。

「雛さん、今日、楽しかったですか!?」
 
 どうかした? と問う前に飛んできた声。その勢いのよさに少しだけ驚くも、内容はとても可愛らしいもので。笑ってしまう。あたたかな気持ちからくる笑みが零れ落ちていく。私の答えを待っているかのように私を見上げてきた虎若くんの頭に、先程竹谷くんがやっていたようにそっと手を置いた。

「――楽しかったよ」

 私の答えが嬉しかったのか、瞳をきらきらと輝かせた虎若くんに私の表情も緩むばかりだった。虎若くんは何でも、佐武衆という鉄砲隊の若なのだという。三木ヱ門くんと同じく、火縄銃の名手で有名らしい“しょうせいさん”という人に憧れているらしかった。

 虎若くんも可愛いなあなんてことを思っていれば、右側の袖を引かれてそちらを見やる。と、ぼくも撫でて下さい! と言われて緩んだ頬もそのままに三治郎くんの頭に手を置いた。

(うーん……かわいい)

 駆けていく犬たちの後を追い掛けるように走り出した三治郎くんと虎若くんの後ろ姿を眺めながら、生物委員である彼らのことを、彼らの活動内容のことを考える。

 生物委員会の仕事というのは、私が思っていたよりも量があって、そのひとつひとつが濃いものだった。ほとんどが孫兵くんの個人的なペットだという毒虫たちの世話に、学園で飼育しているという動物たちの世話――その世話というのも、動物たちに餌をあげたり水をあげたりは勿論、小屋の掃除や、補修も含まれていて、常に人手不足で大変だと竹谷くんが言っていた。どうしても自分たちだけで手が回らない時には手の空いている生徒や先生方に手伝ってもらうのだとも。

 広い学園内、私も覗いたことのある池には魚がいたっけ……。どこかに亀もいた気がする。夏休みの間、ここに残っていた竹谷くんに今日と同じように犬たちのところへ連れてきてもらったりもしたし、竹谷くんが個人で飼い慣らしているという鷹も見せてもらった。彼が鷹を飼い慣らしているのは単なる愛玩というわけではなく、有事の際に力を借りるためらしかった。「有事の際……」と小さく呟いた私に竹谷くんは何を言うでもなく、曖昧な笑みを浮かべていたのを憶えている。それから、鋭い目つきに鋭い嘴に鋭い趾(あしゆび)をした鷹が餌の虫や生肉を啄みながら私の方を見てきたのには冷や汗が流れたものだったな……。

(あれはなんか、……うん)

 思わず、まさか、私を狙ってたりしないよね?! と近くにあった木に隠れるようにしたことも覚えている。それを見ていた竹谷くんと、一緒にいた尾浜くんには笑われてしまったけれどあれは本能が危ないと告げていたのだから、あの時の私は正しい行動をしたと、私は思う……。
 
 夏休み初日には山犬にも逢わせてもらったし、山犬の世話をすることはないとはいえ、あれだけでも随分と生物委員の子たちは大変なんだろうなと思ったものだったけれど、こうして今日、彼らの活動の一部を一緒にしてきて、改めて彼らの大変さが分かったような気がした。

 もう見慣れてしまった毒蛇のジュンコちゃん――何でも女性らしい――をこれまたいつものようにその肩に乗せた孫兵くんの姿が見えて、孫兵くんの名前を呼ぶ。犬たちと一年生の子たちの野を走る音が雑に流れて、獣の匂いが鼻を擽っていった。

「雛さん」
「虫たちの世話はいいの?」
「僕も出来ることならずっと彼女たちの傍にいてあげたいんですけど、あんまり構いすぎてもいけませんし、それに今日はジュンコの気分がこっちみたいだったので」
「こっち?」
「竹谷先輩と、後輩たちと、雛さんといる方です」

 なー、ジュンコーとハートのエフェクトが飛んでいそうな声と雰囲気でもってジュンコちゃんに話し掛けた孫兵くんに笑った。ふふっと柔らかな音が自身の唇から零れていく。私が笑ったことに気付いた孫兵くんとジュンコちゃんが二人してきょとん、とでもいうような表情を浮かべたものだからそれにもまた笑ってしまう。

「雛さん、何か面白いことでもあったんですか?」
「面白いことっていうより、嬉しいことかなぁ」
「嬉しいこと……? 何ですかぁ?」
「孫次郎くんは何だと思う?」
「んー……犬に触れたこと、ですか?」
「それもあるかなぁ」
「じゃあ、兎さん……?」
「それもあるね」
「えー……じゃあ、何だろう?」

 丁度、私たちの方へ歩いてきていた孫次郎くんと一平くんとも合流して、竹谷くんがいるだろう小屋の方へ向かう。教えて下さい、との可愛い声に笑って「今、こうしていることだよ」と返した。ちょっと違うようでいて、心のままの言葉を。

 犬たちと一緒になって駆けていた三治郎くんと虎若くんは既に竹谷くんのところに着いていたようで、その手には餌の入った箱とも桶とも呼べそうなものを持っていた。匂いを嗅ぎつけて彼らの周りをうろうろしている犬たちに「待てだよ! 待て!」とちょっと慌てたようにしている姿が可愛くって仕方ない。

 この時代、犬をペットとして飼う者はほとんどおらず、飼うとしても猟犬か闘犬としての役割を課すために飼っているのだそう。じゃあ、ここの犬たちは? と尋ねたところ、忍犬として、やはり何らかの役割を課すために飼っているらしかった。ヘムヘムも忍犬だと聞かされたものの、ヘムヘムに至っては忍犬というかもうテレビにでも出れそうだからなぁ……。ジュンコちゃんと同じく見慣れてしまったものとはいえ、犬が二足歩行で、箒を片手に掃除をしていて、器用にも箸でお味噌汁を飲んでて――……。

(考えるのはやめた方がいいんだった)

 深く考えないように頭を振る。ヘムヘムはヘムヘムなんだから、それでよし!

 先程、三治郎くんが言っていたように一通り犬たちに餌をあげて、今日のところは生物委員としての仕事は終わりのようで、竹谷くんがお疲れさんと下級生の子たちを労うように口にしていた。口々にお疲れ様でしたと返した子たちに倣って、私も口を開く。

「お疲れさま」
「おう! 雛さんもお疲れさん。悪かったな、見学っつーのに手伝わせてばっかで」

 私にも丁寧に挨拶をしてくれた一年生の子たちは、竹谷くんの「解散!」の声に、「ご飯ー!」と勢いよく駆けて行ってしまった。微笑ましさも覚えながら、見送る。私も行って、おばちゃんの手伝いをしなくちゃ。孫兵くんは何やらジュンコと今度は二人きりで散歩をしてくると言って颯爽と歩き出してしまっていた。

 天気の良い一日だったけれど、夜が近づけば山の上に位置するこの場所は大分涼しくなってきて、もうすぐ夏も終わってしまうのだと報せてくれているようだった。暦の上では秋だったなとも思い知らされるような、そんな涼しさを感じながら竹谷くんと並んで歩く。リィィン、と虫の音が辺りに響いていた。

「楽しかったよ」
「それならいいんだけどさ」
「生物委員会って思ってたより大変でびっくりしたけど……」
「だろー? これに加えて、牧場の方もだからな!?」
「夏休みに連れていってもらったとこだよね? 馬とか牛がいる……」
「そ。ま、あっちの方は先生方も当番制で面倒見てくれてっからそこまで俺たちが気を回す必要はないんだけどさー」

 それでも人手が足りねぇんだよなぁ……と頭の後ろで手を組んで、竹谷くんは零した。その後で「でも、ま、どこの委員会も似たような感じだから仕方ねぇんだけど」とも。
 
「……お疲れさま」

 二度目の言葉。
 それを聞いた竹谷くんは何故か少しの間を空けて、それから、


「――ありがとな」


 日溜まりのような笑みと共に言葉を返してくれたものだから、私も笑って告げる。

「私もありがとう。……今日、とっても楽しかったから」

 そんな私に竹谷くんが、なら、また手伝ってもらうかなー? なんて冗談めかして言うものだから、私もまた冗談めかしていいよと返す。柔らかな音が溶けていった。

 一度、長屋へ戻るという竹谷くんと別れて、見慣れたいつもの場所に出て、歩き慣れた場所を歩いていく。食堂への道すがら会った生徒たちと、先生たちと言葉を交わせば、生物委員会はどうだった? と同じことを何度も訊かれて、その都度、私も同じことを何度も口にした。大変だったけど、楽しかった――と。笑みと、明るい声と共に。
 


「戯れにす」



「……何ですって?」
「や、だから……その、ワカバ、さんから話し掛けられて」
「……何ですって?」
「えっと、だから、ワカバさんに話し――」

 今夜お邪魔している部屋の主である、くの一教室・四年生のアオイちゃんとカオルちゃんに恐る恐るながら話し掛けてみれば胡乱げな視線が寄越されて、その視線に言葉の先を紡ぐのが戸惑われたもののええい、ままよ! と紡いだ途端、返ってきたのは「……何ですって?」という言葉だった。

 ワカバさん、という人はくの一教室の六年生でいいのかと訊こうとして、ワカバさんという人に話し掛けられて――、というところまでしか結局言えてない。

「ワカバ先輩に話し掛けられた……? 貴女が?」
「う、うん」
「ワカバ先輩が話し掛けた……? 貴女に?」
「そ、そうなるんじゃないかな……?」

 寝る前で髪を下ろして美少女っぷりに更に磨きがかかったように見えるアオイちゃんとカオルちゃんの二人が嘘ぉ……とでも言いたげな顔で私を見てきたから、本当だとたじたじになりながらも伝える。年下の女の子といえど、彼女たちは私よりも“力”を持っていて、過去の経験から生まれた微かな恐怖は今も私の胸のうちに巣食っていて、それはまだ確かな痛みをもっていた。

「……ワカバ先輩は何と仰ったんですか」

 蝋燭の灯が揺らいでいる。
 二人の影が伸びて、一段とそこだけが濃い色をしている。  
 まだ彼女たちの目を見て、話すことは出来ない。

 でも。

「掃除と、薪割りを、ありがとうございましたって……」

 話してみなければ分からないことがある。話してみなければ伝わらないことがある。私はそのことを自分の身を通じて知っているつもりだった。……だから。
 
(だから、)
 
 少しでも話すことで、何かが変わるきっかけになったらって――。


(声が、言葉が全てではなくても)

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