雛唄、 | ナノ

06


 足音はひとつ。
 人影はみっつ。

 お風呂上がり、髪から僅かに垂れる水滴が首元にあたって少しくすぐったい。いつもならそう感じたらすぐに手の甲だとか指先だとかで拭うのだが、それよりも今は足音をいかに立てずに歩くかということに気を取られていて、それどころじゃなかった。しっちゃかめっちゃかな予算会議が終わってもまだ、私には休息を取ることは許されないらしい。

 足音はひとつ。
 私のぺたぺたと裸足で歩く音のみ。
 人影はみっつ。
 私と、目の前の女の子二人。

(……なんか、すごくいたたまれない)

 三人で歩いているはずなのに足音が自分のしかしないなんて、なんだか落ちこぼれみたいですごくいたたまれない。彼女たちはくの一教室の五年生で、足音を消すことなんて朝飯前なんだろうけれど、今くらいは普通に歩いてくれてもいいんじゃないかと思ってしまう。

 持っていた着物をきゅっと片手で抱え込む。明日の着替え。他に持ってきた物といえば手拭いと腕時計。それから右手に灯り。それ以外は部屋に置いてきた。

 私の、部屋。

 夏休みの時、雑渡さんが来た際に彼が作動させていったのは幾重もの絡繰り、罠。そのせいで私の身体は奈落へと落ちて、あの瞬間は今思い出しても本当に死ぬかと思ったものだ。おかげさまで、今じゃ奈落そのものがトラウマになりつつある。そんな罠が作動された後の部屋は悲惨なもので、とても人がすぐに住めるような状態ではなく。

 その結果として、私は部屋を移動することになった。今の私の部屋は、普通の客室。絡繰りも罠もない、至って普通の。私にはそれが本当かどうか確かめる術はない。絡繰りというものがどういった仕組みで、罠がどのように仕掛けられるものなのかなんて分かるはずがなかった。でも、土井先生も山田先生も、学園長先生も他の先生たちも皆が口を揃えて、この部屋に罠はない、と言ったから。疑うことは簡単だったけれど、わたしはその言葉を信じたくて何も言うことなく一つ返事で部屋を移った。

 部屋の造りはそれほど前の部屋と変わらなくて、変わったのは場所くらいだった。前よりも少し教師陣の住まう長屋や学園長先生の庵に近くなった。そのせいで、今回は被害を被ってしまったわけだけれども。

(もうちょっと離れた場所で爆発してほしかったな……)

 そうすれば、学園長先生の庵の一部も教師陣の住まう長屋の一部も私の部屋の一部も被害を受けることがなかっただろうに。せめて、どれかひとつだけに被害が集中してくれれば、修理もそこだけで済んで、優先順位とかも関係なくて、修理に必要な材料がなくなるということもなかったはず。つまり、私がここにいる必要もなかったはずなのに。

 修理の優先順位が、一に学園長先生の庵、次に教師陣の住まう長屋、最後に客室なのは分かる。分かる、分かるけど……! はぁ……と、溜め息も吐きたくなる。

「さぁて、部屋なんだけどぉ」
「空いてる部屋がないのですよ」
「……え?」
「だぁかぁらぁ、空いてる部屋はないのぉ」
「…………じゃあ、えっと」
「理解が早くて助かります」

 廊下の角を曲がってちょっと行ったところで、目の前の彼女たちが足を止めた。それに倣って自身も足を止めれば、降ってきたのはそんな言葉。手元の火がゆらゆらと揺れて、映し出された影もまたゆらゆらと揺れていて不気味だった。

 空いてる部屋がない。
 彼女たち――クルミさんとツバキさん――が言うには、空いているには空いている部屋が二部屋ほどあるのだが、そのどちらもが荷物置き場もしくは実験場と化していて、私を入れたくはないらしい。そう言われた手前、その部屋がいいですとは言えなかった。

 となると、必然的に私は誰かの部屋にお世話にならなければならないということだ。

「んーとぉ、あたしとツバキの部屋でもいいよぉ?」
「ワカバ先輩の部屋は絶対に駄目ですので」

 目の前の二人が五年生、その彼女たちが先輩と呼んだからにはそのワカバさんとやらはきっと六年生なんだろう。あと上級生クラスで残っているのはといえば、四年生――……。傷跡は残ったものの、もうとっくに完治しているはずのあの時の、四年生の子たちから受けた傷がずきずきと疼いた気がした。

「あたしとツバキの部屋でもいいよぉ? ……何が起きてもいいなら、だけどねぇ?」

 四年生の子たちだって、私と一緒になんかいたくないに決まってる。だから、二人の部屋に世話になりたいと口を開きかけたその瞬間、クルミさんがもう一度同じ言葉を繰り返した。同じ言葉を繰り返したあと、続いた言葉と私を射抜く視線とその意味に、口を閉じる。抱え込んだ着物に先程よりも皺が寄った。

(……なら、最初から)

 貴方は四年生のところでお世話になって下さい、と強制してくれればいいのに。そんなことを思ったところで、目の前の彼女たちは私を甘やかしてなんかくれない。私が自分で選んだように、私が選択を口にするのを待っているだけ。

 彼らがくれた優しさとは程遠い。
 私のためを想ってくれるひとたちのところへ、今すぐ駆け込んでしまいたくなる。でも、それは甘えで、背を押してくれた人たちへの裏切りにも近い行為だから出来ない。それはしたく、ない。なら、私が口にすべき言葉は決まってる。

「四年生のところにお世話になります……」
「うん、そうだねぇ。そうするしかないもんねぇ?」
「……クルミ」
「あは、ごめぇん。だって、この人つまらないんだもぉん」
「四年には一部屋に集まるように言ってあります。四年は二部屋に分かれているので、どちらを選ぶかは……まあ、適当に話し合ってくださいな」
「うっわ、ツバキ投げやりぃ」
「あんたよりはマシよ」

 歓迎されてないな、というよりも彼女たちにとって私はどうでもいい存在なんだなと目の前で交わされるやり取りにそう思った。

 今現在、くの一教室は下級生・上級生クラスと分かれており、私たちが今いるこの場所は上級生クラス用の長屋。学園長先生は私に上級生のところで世話になれ、と言った。その理由は主にふたつ。ひとつは、ただ単に人数の問題。下級生クラスは人数が上級生クラスに比べて多く、空いている部屋もないから、と。

 そして、もうひとつの理由。こっちの方が理由としての役割が大きい。寧ろ、この理由こそが私が今ここにいる理由でもあった。

 思い返すのは、くのたま長屋に住むように言われた後の夕食の席でのこと。他の先生方と同じように、食堂へとやって来た学園長先生。手招きをされるがまま、台所から出て彼の前に立った私に、学園長先生は言った。

「雛。聞いておるとは思うが、今日からお主の部屋の修理が終わるまでくのたま長屋に住みなさい。――よいな?」

 少し躊躇った後に頷いたのは他の誰でもなく、私自身だった。逆に「え!?」「本当ですか!?」と声を上げてくれたのは夕食を取っていた滝夜叉丸くんと三木ヱ門くんで、そのことがとても嬉しくて、目元が自然と緩んだ。いつの間にか強張っていた、表情も。

「丁度、くのたまの上級生たちが帰ってきたところじゃ。……双方、いつまでも引きずっておくわけにもいくまい。問題は先延ばしにすればするほど、解決しにくくなる。この意味、お主なら分かるじゃろう」
「…………はい、学園長先生」
「うむ! ならよい!」

 私の左腕を軽く叩いて、彼の老人は席へと歩いて行った。その去り際聞こえたのは、「お主なら大丈夫じゃよ」という言葉で、その言葉にわけもなく、泣きたくなった。

「雛さん! あいつらのとこに行くって……!」
「危険です! あいつら目的のためなら何だってするんですよ!? 雛さんだって身をもって知ったでしょう!?」
「くのたまの領域は男子禁制! 幾らこの滝夜叉丸が優秀とあっても、雛さんをすぐには助けに行けません!」
「そうですよ! しかも、あいつら嫌がらせとかも得意なんです! 水面下でねちねちやられたら僕たちだって表立って抗議できません……!」
「また護れないのは、雛さんが傷つくのは嫌です……!」
「別にあいつらと和解しなくたって僕たちが――」

 駆け寄ってきてくれた滝夜叉丸くんと三木ヱ門くんがそれぞれ私の片腕を両手で掴んで、必死な形相で言い募った言葉たちは、私のためを想う言葉ばかり。嬉しいと感じる一方、急な出来事で何を返せばいいか言葉を探しあぐねていれば、二人を制す声が聞こえた。制したのは――。

「これは、ソイツの問題だ」
「私たちと同様、話さねば分からない」
「了承したのはソイツの意思だろ、放っておけ」

 カタン、とカウンターにお盆を置いたその足で、立花くんと潮江くんはこちらへと歩んできた。でも! と食い下がろうとした滝夜叉丸くんと三木ヱ門くんの肩にそれぞれ手を置いた彼らの、私を見る、その瞳は至って真剣なものだった。

「お前なら、大丈夫だろう。きっと――」

 立花くんのその言葉の響きが、とても、とても優しかった。

 彼らがご馳走様でしたと言って去った後、「気を付けてください」「何かされたらすぐ言ってくださいね!」と腑に落ちてはいないだろうに私の行動を非難せずに私を心配してくれる声が、愛しかった。


 ――だから。


 本当はこうして今、ここに、くのたま長屋にいることも怖いけど。目の前の部屋の戸を引くことも怖いけど。戸を引いた先で何が待ち受けているのか考えると次の一歩が躊躇われるけど。彼女たちと和解できるのかなんて全然分からないし、会うのだって怖いけど。

 怖いけど、怖いけど、それでも。
 背中をそっと押してくれる人がいるなら。
 心配してくれる人がいるなら。

(がんばって、みようと思うんだよ)

「――失礼、します」

 そっと抱えた覚悟が無駄にならないように。


 ***


「雛さんは無事だろうか……」
「…………まだ言ってる」
「なんだ、喜八郎! 雛さんを心配して何が悪い!?」
「度を超すとうざい」
「うざ……ッ!?」

 ガーン……と影でも背負ったような顔をした滝夜叉丸を一瞥して、ごろごろと寝転がる。ぼくのじゃない、滝夜叉丸の布団の上。いつも寝る前は綺麗に足元の方に揃えられている滝夜叉丸の掛け布団は、ぼくが蹴っ飛ばしたおかげでぐしゃぐしゃだ。滝は気付いていないみたいだからそのまんまにしとく。

 寝る前だからと下ろした髪が邪魔だった。ぼくと同じように髪を下ろしている滝夜叉丸を寝転がったまま見上げれば、まだ何かぶつぶつと言ってる。うざい。私は雛さんを心配して、だの、心配することすら気高き私には罪なのかだの、云々。だんだん鬱陶しくなってきて、その垂れ下がった髪を思いきり引っ張った。

「ッだ!? な、何をする、喜八郎! 引っ張るな!」
「………………」
「こら! だから、引っ張るなと言っているだろう!」

 ぐいぐいとまるで絡繰りの紐を引くかのように引っ張る。まだ完全には乾ききっていない髪から僅かな水滴が落ちてきた。ぼくに髪を掴まれたままの滝夜叉丸は、ぼくの手を外そうと必死だ。私の美しい髪が傷つくだの、艶やかさがなくなるだの……ばかじゃないの。

 ぱっと手を離せば微かに湿っていて、滝夜叉丸の浴衣に手をこすりつけた。喜八郎! と滝夜叉丸の声がしたけど、無視。また転がる。ごろんごろん、ごろんごろん、ごろん……。

「つかれた……」

 左頬を布団へと押し付けて言葉を吐き出す。予算会議とか、疲れる……。穴を掘っていいのは嬉しいし楽しいけど、それを埋め戻さなきゃいけないし、その上、他の委員会から攻撃はくらうし、爆発には巻き込まれるし……正直言って、だるかった。

「まあ、確かに今日のは流石の私でも疲れたな」
「…………ふぅん」

 適当に返事を返せば、またべらべらべらべらと滝夜叉丸は喋り出した。体育委員会は委員長が七松先輩な時点で、規格外。裏々々山までランニングとか、標高五百メートルダッシュとか、ぼくだったらやってらんない。絶対サボる。まあ、相手が化け物なら不可抗力なのかもしれないけど。

 ふぁ、とひとつ欠伸を零して、また手を伸ばす。……避けられた。滝夜叉丸のくせに、生意気。何としてでも掴みたくなって、猫がじゃれるがごとく、引っ込めては手を伸ばす。何度か繰り返していれば、「いい加減にしろ!」と手をはたかれた。…………ちぇ。

 髪が乱れた、服が乱れたといって、髪や服を整える滝夜叉丸を相変わらず寝転がったまま、見る。

「なあ、喜八郎」
「…………なに、気持ち悪い」
「お前、この眉目秀麗な私に向かって気持ち悪いとは何だ! 気持ち悪いとは!」
「で、なに」

 いちいち突っ掛からなければいいのに。お馬鹿な滝。いきなり真面目な顔するのが悪いんだよ。小さな蝋燭の灯りが滝夜叉丸の背後で揺らいだ。

「……あいつらは、雛さんを認めるだろうか」
「……さあ?」
「何事もなければ、いいんだが……」
「…………ねえ、滝」
「なんだ?」
「あの人は……雛さんはぼくたちより大人でしょ」
「? そうだが」
「何にもできない、人じゃないでしょ」
「……そうだな」

 ぼくの言わんとしていることが分かったのか、滝夜叉丸は息を吐き出した。雛さんは大人なんだからさ、何もできない人じゃないんだからさ、そんなに心配しても、かえって雛さんを困らせてしまうと思うんだ。

 ぼくたちが、今一人であいつらと、四年のくのたまと対峙しているだろう彼女にできることは――なんだろうね。

「雛さんには次から次へと、難題が降りかかってくるんだな」
「……それは仕方ないんじゃないの」
「今回のことに限っては、学園長先生が押しつけたようなものだろう。別にあいつらと和解せずともここで暮らしていけるだろうに」
「…………学園長先生に文句言っても無駄でしょ」

 何考えてるかよく分からないし、学園長先生の突然の思いつきだって今に始まったことじゃないし、文句を言ったところで聞き入れてくれるわけでもないし。

「それに先輩方も……。しかし、何故先輩方はくせ者がいると知っていたにもかかわらず、雛さんを予算会議に巻き込んだのだろうか。しかも、あんな目立つような場所に待機させるとは」
「…………立花先輩が言ってたけど」


 ――くせ者はおそらく、既に雛の情報は手にしていたことだろう。となると、彼女を一人にするのは危険。かといって、予算会議の最中、一人にさせないように教師陣のところへ避難させれば事情を知らぬ雛は自分が部外者だから除け者にされたのだと、表には出さずともそう思うことだろう。私たちはアレを散々傷つけてきたからな。これ以上傷つけるつもりはない、などと綺麗事をほざくつもりはないが……まあ、似たようなものだ。我々にも良心というものがある。……何か言ったか、喜八郎。会計委員会を雛が選んだのは想定内。ならばいっそ、アレを目立つところへ置いておこうと、な。何故? 分かりやすいからに決まっている。ごちゃごちゃと生徒たちに紛れ、万が一のことがあった時、見えにくい場所よりかは目立つ場所にいてもらった方が、対処しやすいからな。


 あの立花先輩の“良心”……。
 良心ってなんですかー、と尋ねたくもなるというものだ。

「――ふむ、なるほど。して、喜八郎。お前の持っているソレはなんだ?」
「あ……」

 そう言いながら、滝夜叉丸がぼくの手から奪って行ったのは仙子ちゃん人形。前に滝夜叉丸が七松先輩を模したパペットを作っていたから、ぼくも委員会とか暇な時に作ってみただけ。立花先輩を模したはずが、女人のようになってしまったから仕方なく名前を仙子ちゃん人形にした。

 立花先輩にはやめてくれと言われたけど。

「なんだ、この不気味な顔は!? これは身体か!? ぐにゃぐにゃではないか……! 見るに耐えん不格好だな! この美しい私とは天と地ほどにも差がある! 喜八郎、まさかお前が作ったのか?! センスの欠片もない……! 私を見習え! 見ろ、このパペットを!」

 ほら、ぐにゃぐにゃだ! それに比べて私の作ったパペットは……うんたらかんたらと、どこかから取り出したパペットと仙子ちゃん人形をぼくの目の前で比べ始めるものだから、だんだん苛々してくる。身体みたいなのがぐにゃぐにゃなのは作るのが途中で飽きたからに決まってるでしょ。

 滝夜叉丸の自画自賛まみれの講釈なんか聞いてられない、寝る。ごろん、と滝夜叉丸とは逆の方へ向いて、丸くなった。

「で、だな。腕はこんな感じで……って、喜八郎、寝たのか?」
「………………」
「私の布団なんだが……」

 滝が立ち上がったなと感じた直後、自身の上にふわりと落とされた掛け布団。こいつの妙に面倒見のいいところが、むかつく。不快な気分のまま寝たくなかったから、ぼくの布団へと移動しようとした滝夜叉丸の足を、布団から手を伸ばして、思いきり掴んで引っ張った。

 びたーん……! と滝夜叉丸は何ともまぬけな転び方をした。

(…………ださ)

「ッ〜〜! 喜八郎!!!」
「………………うるさい」

 まあ、うるさいけど、雛さん、雛さんっていつまでも心配してる滝よりはマシなんじゃない。……言わないけど。滝夜叉丸の声を遮らんがため、布団の中へと潜った。


 ***


(……すっかり遅くなったな)

 夕食後、今日行われた予算会議で予算を削られてしまった、自身が委員長代理を務める火薬委員会の顧問である土井先生と今後の委員会活動についてだとか、削られてしまった分の予算をどう賄うかなど話し合っていたら、もうすっかり外は暗くなっていた。

 亥の刻に入りかけたあたりか。

 教職員の住まう長屋から忍たま長屋へ向かう途中で、ふと足を止める。この角を左に曲がれば忍たま長屋。右へ曲がれば――。

「…………大丈夫、だよな」

 想うのは彼女のこと。
 想うのは雛さんの、こと。

 予算会議中はまともに話せなかったし、その後も後片づけに追われてしまって話すどころじゃなかった。夕食時に少し話せはしたが、少し物足りなかったなと思う。

 学園長先生の意向で今日から彼女の部屋の修理が終わるまでくのたま長屋へと住むことになった雛さん。俺がそのことを知ったのは、夕食時。先に食事を取っていた同期の面々から聞かされた。何でも俺が来るより前に、学園長先生がやって来て、わざわざ食堂内で雛さんにくのたま長屋に住むように言っていったらしい。

 もう今頃、雛さんはくのたま長屋の一室で、寝ているか……それとも。雛さんは、俺が夕食時に「……なんかされたら、言ってよ」と告げた時、笑っていたけれど。

「……………………」

 足は自然と右へと進んでいた。
 すたすたと足音もなく、廊下を進んでしばらく。軽く助走をつけて屋根へと上がった。別にくのたま長屋に侵入するつもりはなかった。神経を研ぎ澄ます。何か妙なことが起きていれば、大体は気配で分かるものだ。静かな夜。今日は予算会議後とあって、自主練をしている生徒はほとんどいないようだった。

 微弱な風で髪がなびく。

「ッ!」

 息を吐こうとして、飛んできた物。
 さっと避けたそれは、手裏剣だった。

「豆腐小僧じゃぁん、お久しぶりだねぇ?」
「……クルミか」
「気安く名前を呼ばないでよぉ」

 甘ったるい声で話しかけてきたのはふわふわとした髪を持つ、くのたま五年のクルミ。くのたま五年の片割れ。甘ったるい声、というのはクルミの声質なだけであって、その声には俺に対する不快感が多分に含まれていた。何故かは知らないが、クルミとツバキの二人は俺たちが一年の時から気にくわないらしい。

 前に一度、同期の面々になんでだ? と尋ねたところ、兵助には分からない、分からなくていいと言われた覚えがある。

「でー? こんなとこで、なぁにしてんのぉ?」
「いや、別に」
「こっから先はぁ、男子禁制だって分かってるぅ?」
「分かってる。ここから先には行かない」
「ふぅん……あの人の様子が気になったぁ?」
「…………何もしてないだろうな」

 俺の言葉にクルミが嗤ったのが分かった。くすくすと立てるような音もしないし、夜の闇のせいでその表情もまともに見えやしないが、嗤ったということは分かった。

「そうだねぇ。――なぁんにも、してないよぉ?」

 返ってきた言葉は確かに欲しかった文字の羅列であったのに、少しばかり眉間に皺が寄った。

「あんたがさぁ、あの人のこと心配するのは勝手だけどぉ」
「………………」
「ちょっとは考えて行動してよねぇ?」

 どういう意味だ、と問うよりも先にクルミが口を開く。

「あたしぃ、またサバイバルとか勘弁だからさぁ」
「女の嫉妬って見苦しいんだぁ。好きが歪んじゃうんだよねぇ」

 軽やかにその身を跳ねさせて、クルミが俺の耳元で囁く。横目でその近くなった顔を見下ろせば、舌を出された。まあ、あたしにはあんたのどこが良いのかなんてさっぱり分かんないけど! と、いつもの語尾を伸ばす喋り方を消してクルミはそう毒づいた。

(…………猫被りめ)
 
 この女に騙される人間が憐れでならない。俺だって、俺のことを好きだなんて思う奴が俺のどこが良いのかなんて分かるわけないだろ。こっちに跳んできたのと同じく、また軽やかにその身を跳ねさせて、クルミは俺から距離を取った。

「あの人を想うんならぁ、あの人がここにいる間くらいはぁあの人の心配ばっかするのぉやめたらいいんじゃなぁい? 刺されるよぉ、ま、た。ま、それも面白いけどぉ」

 誰が、とは聞かなくても分かっていた。
 じゃぁねぇと、挨拶と共に再び飛んできた手裏剣を避けて溜め息をひとつ。どっと疲れが襲ってきた。

(好きとか……)

 予算会議終了後のまま、薄汚れた格好の自身を顧みて、踵を返す。クルミが零していった言葉の欠片。その意味をぐるぐると考えていたら、いつの間にか風呂に入って、いつの間にか風呂も上がっていて、俺の足は習慣か、自身の部屋へと向かっていた。

 開け放った先では、同室の勘右衛門が寝巻姿で布団の上に寝転がり、うつ伏せで足をばたばたさせていた。

「おかえりー、兵助。どうだったー?」
「ただいま。んー……何もなかった」
「それにしては浮かない顔じゃん」
「ああ……クルミに会った」
「うっわぁ、それはご愁傷様」

 クルミとツバキの同期でもある俺たちは今まで散々あいつらから被害を被ってきた。勘右衛門も例外ではなく、クルミ……とその名を聞いただけで、顔を歪めていた。俺も布団を敷こうと、畳まれたそれに手を伸ばす。その身を起こした勘右衛門は枕元に置いてあった水桶から水を掬っていた。

 俺にも、と言えば手渡される湯呑み。

「……なあ、勘ちゃん」
「んー?」

 水で喉を潤して、一息。
 同じように水を口にしていた勘ちゃんの、下ろされた髪を見つつ言葉を零す。

「――好きって難しいな」
「ぶふぉッ! っげほ、ごほッ……!」
「……大丈夫か?」
「ッ………はー……兵助、いきなりそういうこと言うのやめてくんない?」
「なんで?」

 げほごほ、と咽た勘ちゃんの背をさすりつつ首を傾げる。俺としては、さっきクルミに言われてからずっと好きとは何かと考えてたわけで、別にいきなりでも何でもないんだけど。もう一度、好きって難しいな……と呟けば、今度は目の前の肩が震えだした。……おい。

「ふっふふふ……」
「なんで笑うんだよ!」

 俺がそう食ってかかった瞬間、勘ちゃんは立ち上がって「あーもうだめ! ろ組んとこ行ってくる!」と言い放って出て行った。あははははと笑い声をあげながら。…………今何時だと思ってるんだよ。


 ――ぎゃはははは!


 十秒後、聞こえてきたのは、ろ組の部屋からの笑い声。

「…………ッ!」

(人が真面目に考えて言ったことをあいつら……!)

 無視するに限る! と思い、目を閉じてみるもなかなか止むことのない笑い声。俺にも我慢ならないことはある。すっと立ち上がって、駆け出して、ろ組の部屋をすぱーん! と開け放った。

「お前ら、いい加減にしろよッ!」

 今何時だと思ってるんだよ! と続ければ、またしても笑われた後、そっちかよ! とハチに突っ込まれた。……真面目で悪いか。風呂に入ったことである程度は取れたはずの疲れが一気に返ってきた気分だった。止み止まぬ笑い声に遠くをみやる。

(はぁ……雛さんに会いたい)

 好き、を考えて何故か頭に浮かんだのは――……。



「重力加度」



(徐々に増して、やがて)

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