雛唄、 | ナノ

18


 彼女の雰囲気はがらりと変わった、と思う。この学園の雰囲気もがらり、と変わったと、思う。人を、余所者を一人、受け入れただけでここまで変わるものなのかと不思議でたまらなかった。

 こうして、今、彼女と初めてちゃんとした会話をするまでは。

「……三之助くんと左門くんがいなくなった?」
「そうです。あのバカ二人はどっちも最悪の方向音痴なので、目を離すとすぐにどっかに消えるんです。ただでさえ、ここに来る道中でも交互に消えやがって手間をかけさせたくせに今度は二人して消えるなんて……! あいつら……!」

 ありえない……! と頭を抱えてしまう。ほんとの本気でありえない。なんであいつらはあそこまで方向音痴なんだ、どうして俺はあいつらと同じ組なんだと思ってしまうのも仕方のないことだと思う。俺の目の前でジョウロ片手に俺と同様にしゃがみこんでいる西園寺雛さんはきょとんとした表情で瞬きを繰り返している。

 あいつらこと、俺と同じ三年ろ組に所属する次屋三之助、神崎左門の二人は片方は無自覚な方向音痴、片方は決断力のある方向音痴と、つまるところどちらも俺にとってはいつもいつも手間をかけさせられる方向音痴に変わりはない。その二人の方向音痴の度合いからして学園に辿り着く前に遭難する危険性があったため、行きと同様に帰りも三人で合流してから学園に戻ってきた。その道中は言わずもがな非常に疲れるものだったが、どうにか学園に辿り着き部屋に荷解きをして、ほっと一息を吐こうとしたところではたと気づいた事実。

 ばっと後ろを振り返ったときには既にあいつら二人の姿はなかった。ぽつんと荷物と私服だけが無造作に置かれ、その主がいなかった。思わず頬が引き攣った。

「ああもう! ほんとどこ行ったんだよ!」

 今、あの瞬間を思い出してもイラっとくる。あいつらが消えたことに気付けなかった自分も自分だが、何も言わずに消えたあいつらもあいつらだ。あいつらには誰かがついてないと、俺がついてないとダメなのに。一息吐くどころじゃなくなった俺は素早く忍装束に身を包み変え、二人を捕獲するため学園中を走り出した。あいつらのおかげで俺の体力と脚力は同期の連中の中でも上位に君臨するものになっているんじゃないかとも思う。

 そして、叢から木々の上、食堂から池、挙句の果てには縁側の下までをも探し始めた俺に突如としてかかった声。それはこの学園にとっては異質な存在である彼女こと、西園寺雛さんのもので。彼女から話しかけられるとは露ほどにも思っていなかった俺は文字通り飛び上がった。その結果、がんっと頭に走った鈍痛。

 ここまでくるともう不貞腐れてしまおうと、彼女に向き合う形で膝を抱えて座った。そして今まで彼女と個人で接触したことのなかった俺は、彼女に自己紹介をして今までの経緯を語ったのだった。

 三之助と左門の二人……というか、俺以外の同期の皆は彼女を下の名で呼び、彼女に自身の下の名を呼ぶことを許可した間柄だという。俺だけ仲間外れかよ、と知った時は思ったものだが俺には今までそういった機会が巡ってこなかったのだから仕方ない。

「……あのさ、富松くん」
「……下の名で結構ですよ」

 おもむろに言葉を紡いだひとに、小さく返す。三之助も左門も、孫兵も、藤内も数馬も貴女は下の名で呼んでいるじゃないですか、と胸の内で付け足して。いいの? と返してきた目の前の女人に首を縦に振った。

「じゃあ、えっと……作兵衛くん」

 蝉の声もそろそろ止んで、秋の気配が近づいてきた今日この頃。
 照りつける太陽の日差しは変わらず強いけれど、むわっとした生温い風も変わらず凪いでいるけれど、目の前のひとが浮かべる表情は以前遠目で見ていたものとは異なって、ひどく穏やかなものだった。そのことに月日は確かに流れているのだなとぼんやりとした意識の中で感じる。

「さっきさ、あっちの木の木陰で二人して寝てたよ……?」
「……誰と誰がですか」

 彼女の言葉に思わず低くなった声音。

 それに彼女は、雛さんは、苦笑して俺の探し人二人の名を告げた。ありえない、俺がこんなに汗だくになって、痛い思いもしたっつーのに……! 怒りも安堵も、この暑さで疲れた身体を動かす原動力にはなりゃしない。思いきり脱力する。はあ、と溜め息を数回零した。

 そんな俺に雛さんはちょっと待ってて、と身を翻して自身の目の前から去っていった。彼女の言葉通り、ぼんやりとしたままその場から動かずに少しの間待っていれば、戻ってきた彼女から手渡された竹筒が三つ。

 …………三つ。

「熱中症にならないように、ね」

 なんだかとても気持ちよさそうに寝てたから、起こすにも起こせなかったんだと続けた雛さんをしばし見つめて、立ち上がった。ありがとうございます、と一礼して歩き出す。あの二人がいるという場所へ向かって。

(……なんとなく、分かったなあ)

 この学園の雰囲気が変わった理由。それが彼女を受け入れただけでここまで変わるものなのかと思っていたけれど、感じていたけれど、なんとなく分かった気がする。


 ――彼女だから、変わったんだ。


「あーあ、ほんっとお前らに振り回されるこっちの身になれってーの」

 雛さんの指差した場所へ辿りつけば、すぅすぅと寝息を立てている俺の大事な級友が二人ごろんと寝転がっていた。腰に手をあててそう零したあと、俺も寝転がる。さわさわと草木を揺らす風の音と、隣に感じる温もりに俺の瞼も徐々に下がっていく。夏休みも残り、三日かあ……予算会議もそろそろかあ……なんて、その先はゆっくりと微睡に消えていった。


 ***


 ふぁ、と欠伸が出た。

 先ほど、三年生三人が木陰でくぅくぅ寝ていた微笑ましい光景をみたからだろうか。よっぽど疲れていたんだろう、もしくはよっぽどあの場所が心地よかったに違いない。私も昼寝したい、なんて思いながら朝に干しておいた洗濯物を取り込みにかかる。今日は快晴だったから午後になれば既に洗濯物はきちんと乾いていた。太陽の日差しを浴びた着物たちはあたたかい。とても、とても。


 ――あと三日で夏休みが終わる。


 もう先生方の夏休みも終わっているから、夏休みが終わった学年から順次授業に入っているらしい。おかげで、夏休みの初めの頃のように四年生の子たちとも、二年生の子たちとも、話せる時間は滅法減ってしまった。五年生や六年生も授業が始まってからというもの、当然のことながら忙しいらしくて彼らともせっかく少し仲良くなれたような気がしていたのに、話せる時間は食事時か授業の合間といった限られた時間だけ。放課後も自主練や委員会関係で忙しないここの生徒たち。

 それでも、約一ヶ月前と比べればひどく嬉しいことに違いないのに。少しだけ、寂しいと感じてしまう自分が哀しい。

 欲張り、と胸の内で自身に告げる。これ以上何を望んでいるの、わたしは。もう十分でしょう。彼らとある程度、気兼ねなく話せるようになったのに。彼らに受け入れてもらったというのに。

 それでも。
 消えない、得体の知れない欲の塊。

 それに、ほんの少しの後ろめたさを感じながら履き慣れてしまった草履を引きずるようにして部屋へと戻る。ざりっと地面と擦れる雑な音がした。着物を畳んで、事務室に行く前にお茶を飲みに食堂へ立ち寄ろうと思い部屋を出ようとして、ふと目に留まった日記帳。

(…………日記、帳)

 もう書くことはやめてしまったソレ。

 手に取って、ぱらぱらと捲る、わたしの軌跡。疲れた、と帰りたい、と嘆いたわたし。楽しかったと、皆に逢えてよかったと、思っているわたし。変わってしまった。でも、変わらないものも確かに存在していて、それらはわたしの中でぐちゃぐちゃに混ざり合って矛盾した感情を生み出していく。

 今でも、変わっていないもの。かえりたいよ。できることなら、帰りたい。でも、ここにいたいとも今、少なからず思ってしまっている。優しい人たち、現代では得られなかった何かがたくさんあるこの場所。

 だから、私は想う。願う。


 ――もしも、帰れる日がくるなら。


 その時はどうか、この世界で「生きた」私の記憶を消し去ってほしいと。そうじゃなきゃ、耐えられそうにないから。そうじゃなきゃ……この先を考えるとキリがないんだった。

 そうだった、と一人自嘲する。
 ぱたん、と閉じる。
 目を静かに伏せて、ひとつ頭を振った。

(さて、と。事務室行かなきゃ)

 小さな過去の私の存在を、教科書やノートが詰め込まれたスクバにそっと閉まう。小袖姿の私がスクバに触れているのがなんだかおかしくて、急に泣きたい衝動に駆られた。……どうして、こうなったんだっけ。その問いはきっと、まだ分からないままなんだろう。分かる日がくるかも分からないまま、月日だけが無情にも過ぎていく。

「ジュンコォォ……!!!」

 感傷に浸って微動だにしないままでいた私の心臓を、飛び上がらせたのは自身の膝元ににょろにょろと這い上がってきた蛇と、近くで聞こえた大声だった。

(…………あれ、蛇?)

 声にならない悲鳴が出た。


 ***


「あれ、ジュンコ……?」
「え?」
「……ッ僕のジュンコが消えた!」
「え、えええええ??!」
「またなの?! え、孫兵、またー?!」
「学園に帰ってきて早々、どうして逃がしちゃうの!?」
「藤内も数馬もそんなことはどうでもいいんだ! 早く探さないと僕のジュンコが怪我をしてしまうかもしれない!」

 まだ夏休みが残っているにもかかわらず学園に戻ってきた僕たち三年生は、暇にかまけて先に授業を始めている先輩方の授業風景を見学したり、自主練をしたり、各々好きなことをして過ごしていた。夏休み終了間際に戻ってくることはよっぽど実家が遠かったりしない限りは僕たちの学年ともなるとない。

 昨日、学園に戻ってきた僕は生物委員会の先輩である竹谷先輩に面倒を頼んでおいた愛しの生物たちの様子をみたり戯れていたりした。今現在、一緒にいる三年は組の藤内と数馬とは先ほど会ったばかりで、少し話をしていたところだった。僕の相棒とも呼べる毒蛇のジュンコは僕の隣でくるりと蜷局を巻いて寝ていたからそっとしておいただけなのに。なんでいないんだ……!

「どこ行ったんだよ、ジュンコー!」
「僕、竹谷先輩たちに伝えてくるね!」
「じゃあ、俺は……ええい、俺も探す!」

 それぞれ声を上げて、捜索開始だ。

 まずは、ジュンコが好みそうな木陰から叢、縁側の下、木々の上までざっと見て回る。僕にとってジュンコは相棒だから、一見しただけでそこにジュンコがいるかいないかは大体判別がつく。

(こっちにいないなら……あっちかな)

 忍たま長屋から離れて、客室周辺に辿り着いた。ここはもう勘で右か左か。……右! そう決めてきっと遠方を睨みつけて高らかに叫ぶ。

「ジュンコォォ……!!!」

 どこ行ったー?!
 あっちはいなかった、そっちは?
 いないよ、もう!
 どうすんの、あれ一応毒蛇だぞ!
 もう毎度のことなんだから仕方ないだろ!
 そうだけどさあ……!

 遠くから僕と同じようにジュンコを捜している人たちの声が微かに耳に届く。それに混じって、か細い悲鳴みたいなのが聞こえたような気がして、もしかしたらと僕は走った。走って走って、ひとつ開け放たれた縁側を見つけた。そして、そこに固まったように座っているひとの姿も。

「雛さん……!」

 先日、触れた彼女の柔い雰囲気を思い出して少しばかり気分が高まった。勢いよく彼女の名前を呼べば、雛さんはぎぎぎっと音が鳴りそうな動作でこちらを見た。その顔色は近づいていくにつれてはっきりしてきたが、青白かった。

 どうしたんだろうかと不思議に思いつつ、彼女の部屋へと近づいていけば、その視線の先がその膝元に落ちたものだから、彼女につられて僕もそこに視線をやれば――……。

「ッジュンコ! お前、こんなところにいたのか! 探したんだから!」

 先ほどと同じようにくるりと蜷局を巻いて彼女の膝元に居座っている僕の相棒こと、ジュンコがいた。見つけたことを純粋に嬉しく思って、彼女の許可をとることもなく雛さんの部屋へと上がり、その皮膚を優しく撫でる。にょろり、と鮮やかなその肢体をくねらせるジュンコは本当に可愛い。

「もう! お前なー! 雛さんのところに行きたいんだったらそう言ってくれれば連れてってやったのに。可愛いなあ、もう! あ、雛さん。紹介しますね! 僕の相棒のジュンコです!」
「…………孫兵、く、ん」
「綺麗でしょう? 可愛いでしょう? いいなあ! 雛さん! ジュンコに好かれたんですね! ジュンコってばなかなか人に懐かないから雛さん貴重ですよ!」
「う、うん。ありがとう……? 孫兵くん、その……」
「あ、安心してくださいね! ジュンコは毒蛇ですが、そう無闇に人を噛んだり締め付けたりしませんから! 確かに毒は強烈なので噛まれれば危ないですけど、大丈夫ですよ!なあ、ジュンコ」

 僕が目を細めて優しくそう問いかければ、ジュンコもシャァ! と牙を剥き出しにして返事をしてくれた。だよね、ジュンコはお利口さんだもんなあ……。なでなでと雛さんの膝元から動こうとしないジュンコの頭を撫でる。可愛い。さすがは僕の相棒だなー、お前は。それにしても、雛さんが微動だにしないのはなんでだろう。暫しの間、ジュンコを愛でたあとに雛さんの表情を窺えば顔色が真っ青だった。

「雛さん? あれ、もしかして具合悪いんですか?」
「…………ま、ごへい、くん」
「はい。なんでしょう?」
「そ、の……ど、ど……ど」
「ど?」

 微かに震えた声で言葉を紡ぎだす雛さんにジュンコを撫でたまま、首を傾げる。ど、の続きが出てこないらしい。

「…………ど、ど」
「? はい」
「……ど、どか、どかして、くれない……かな」
「え、なにをですか?」
「………………」
「…………、……」

 僕と視線の交わった雛さんの瞳が彼女の膝元を指した。それに気付いて、僕は何も言わないまま、ジュンコをそっと彼女の身体から持ち上げた。首元に戻った温もりに、僕は何も言わないまま部屋を出ようとした。

 ……彼女が、ジュンコを受け入れていると思っていた僕が馬鹿だった。

 この学園でも敬遠する人がたくさんいるのに、ましてや彼女みたいな弱そうな人が、蛇を好きなわけないじゃないか。くの一教室の面々だって蛇や虫を嫌う者がほとんどなのを忘れていた。馬鹿な僕。そういえば、彼女には僕が毒ムシ野郎と呼ばれていることは知られていないんだったなあ……。これで、彼女が僕を避けるようになったら所詮、彼女は僕とは相容れない存在だったと分かるだけ。

 ただ、それだけ。


 ――それだけ、だけど。


 やっぱり、自分の好きなものを否定されるのは慣れたこととはいえ、切ないものだなあ……なんて縁側に向かって歩きながら思った。


 ***


 自身の膝上からなくなった重みにほっと安堵の息を零した。蛇なんてものは、私の日常では全くの無縁といっていいほどの生物で、しかもそれが毒蛇ときた。大きさはそこまで大きくなかったから、まだマシな方だったのかもしれないけれど、耐性のない私の動きを封じ込めるには十分な威力をもっていた。

 孫兵くんが来てくれなかったら、私はもしかしたらずっと誰かが来るまであの体勢だったのかもしれない。そんなことを考えると、正直ぞっとする。恐怖に捕われたまま気絶でもできれば一番良かっただろうが、意識を保ったまま毒蛇と一対一でいたかもしれないとか本気で笑えない。

 私の膝元から自身の首にその彼の相棒だという毒蛇を巻きつけた孫兵くん。何も言わないから、私も何も言えなかった。怖かった? 気持ち悪かった? とそう問うてくれたら否定することもできたかもしれないのに。彼は何も言わずに私の前からすっと立ち上がって縁側へと歩いていってしまった。

(怖かった? 気持ち悪かった?)

 ……ねえ、わたし。

 本当に怖かった? 気持ち悪かった? 毒蛇は、何かした? そう自身で自身に問うて、はっとなって今まさに縁側を下りようとしている孫兵くんの背に視線を移した。彼は何も言わなかったけれど、彼はその毒蛇を、ジュンコを、「相棒」だと言ったじゃんか。

「――ジュンコ、っていうの?」

 小さく、呟いた言葉。

 確かに怖かった。正直気持ち悪かった。けれど、その子は何もしていない。人間より、怖くなかった。人間より、怖くなかったよ。私の言葉に足を止めて振り返った孫兵くんの瞳に胸中で言葉を放つ。私の、声に出していない、心の中で唱えた言葉が彼に届くわけなどないから、ひとつだけ告げようか。

「……人間より、怖くなかったよ」

 自分で思っていたより、はっきりとした声が出た。返ってきたのは、シャア! という彼の相棒で、人間ではない、けれど確かに命をもった者の声。



「捜しだす、その跡」



「ちなみにこっちは毒トカゲの大山兄弟」
「……うん」
「これは大ムカデの三四郎です!」
「…………うん」

 孫兵くんに手を引かれ、連れていかれた先には虫や爬虫類がうじゃうじゃと存在していた。次々にこれはあれは、と紹介してくれる孫兵くんの顔がなんだかとても楽しそうだったからまあ、いっかとそっと苦笑した。

 ……でも、やっぱり出来ることなら今すぐこの場から逃げ出したいかもしれない。


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