雛唄、 | ナノ

16


 立花くんに無理やり、ではないけれど半ば強引に前に一度だけ訪れたことのある彼の自室へと連れていかれ、そこで話をした潮江くん。

 潮江くんと彼を呼べば、そう呼ぶなと言われたために「文次郎さん」とどうしても彼を呼び捨てにすることができずそう呼べば、彼には怒鳴られ立花くんには爆笑されどうしようもなかった。その後、結局、私は彼を「潮江くん」と呼ぶことにしたのだけれど。

 そこに至るまで、どうしてあんなに時間がかかったのだろうか。いや、楽しかったといえば楽しかったし、まさかあんなにも恐いと感じていた潮江くんと押し問答のようなリズミカルな会話をできるとは思わなかった。一昨日の出来事だというのにあの時の会話の大体を憶えている。思い出すだけで何だか嬉しいな、なんて洗濯物を干しながら思った。

 今日も天気は良い。
 時折吹く風がとても心地よかった。

「で、結局のところ、お前はこいつを文次郎さんと呼ぶのか?」
「おい、仙蔵……! テメェ、その無理にニヤけた顔を抑えたような表情、今すぐ引っ込めねぇと殴んぞ!」
「仕方ないだろう? 非常に愉快だからな、先ほどのように大仰に笑わないだけでも有り難く思え」
「何が有り難く思えだ、バカタレがッ! ちっとも有り難くねえよ!」

 立花くんは強かった。潮江くんがいくら怒鳴っても声を低くしても青筋を立てても飄々とした態度を崩すことなく、むしろ手玉に取って遊んでいたくらいだ。立花くんを口で言い負かすことのできる人などこの世にいないんじゃないかと思えるほど、彼はさらりさらりと言葉を交わしては言葉を突き付けていた。

 私はといえば、二人のやり取りを見ている他に為す術はなく。彼らの表情を極端に、色で表すなら赤と青だなあなんて蚊帳の外からぼんやりとそんなことを思ったものだ。そして、出来ることなら巻き込まれたくない、とも。しかしながら、そんな私のささやかな願望はあっという間に崩れ去った。

 不意に私に視線を投げて寄こした立花くんが口角を上げたような気がした次の瞬間、私に白羽の矢が立ったのだから。あの瞬間、確かに私はある種の恐怖を感じたと言っても過言ではなかった。

「雛」

 立花くんが、私の名を呼ぶ。

 その音はとても心地良いものなのに、続いた言葉に苦い表情をせざるを得なくて。立花くんがもう一度、こいつの名を呼んでみろと顎をくいっと上げて潮江くんを示したものだから、潮江くんの意識が私へと移ってしまった。

「……西園寺」
「……はい」

 崩していた足を瞬時にさっと整えて正座をした。まるで父親に怒られる娘の図なんじゃなかったろうか。潮江くんを父親だなんて思えやしないけれど、まさにそんな感じだった。

「絶対、さっきみたいなふざけた呼び方すんじゃねえぞ、いいな!?」
「…………はい」

 じゃあ、呼んでみろと命令され、頬が引き攣った。潮江くん、文次郎さんと呼ぶのはダメ。ということは、つまり、潮江と彼の名字をさん付けか呼び捨てにするか、文次郎と彼の名前をくん付けか呼び捨てで呼べということで。

 文次郎だなんて仲が良くもないのに馴れ馴れしくて、例え彼が許すとしてもとてもじゃないが呼べない。文次郎くんと呼んだら呼んだで、なんだか年下扱いされているように感じられるんじゃないだろうか。それでまた潮江くんに機嫌を損なうのは嫌だな。かといって潮江と呼ぶのも微妙な気がする。男の人を名字で呼び捨てにすることにはあまり慣れていない。潮江さん、が一番無難のような気がしなくもないがどうなんだろう。

(……ど、どうしよう)

 冷や汗がだらだらと流れていく。内心でぐるぐると考えを巡らせている内にも時間は止まってなどくれるわけもなく、余計に焦って仕方ない。痺れを切らしやしないだろうかと目の前の二人をちらりと見るも、私の予想に反して二人とも私を急かすことはしなかった。立花くんなんて呑気にお茶を飲んでいた。

 それが逆に私をどぎまぎさせたのだけれども。

「……その、あの」
「なんだ」
「いや……その、ど、どうしても今ここで呼ばなきゃだめ、なのかなあと思って」
「別に構いやしないが、問題が先延ばしになるだけだろう? なら、今ここで決着を付けた方が得策だと私は思うが」

 そう言ってのけた立花くんを見ればニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべていたから、きっとおそらく、十中八九、面白がっているだけだと思った。

「つーか、お前が適当に呼べば済む話だろ。さっさと呼べ、めんどくせえな……」
「いや、だってそれは潮江くんが! ……あ」
「ッだから潮江くんってくん付けすんなっつってんだろ!?」
「む、無理……!」
「無理ぃ……? ンでだよ」

 いや、それはだって……ともごもごと言い淀んだ私に突き刺さる二人分の視線。いや、だって、無理でしょ。そんな呼び捨てにするだなんて恐れ多くて絶対できないと断言できる。膝の上に置いた手を見つめながら、この問題の打開策を私は必死に考えた。

 右手の指先と左手の指先をそっと絡ませてみるも、自身の手のひらに掻いた汗がじっとりと無駄に絡み合うだけだった。外から入ってきた夏独特の生温い風がひゅっと目の前を通って行った。

「…………あ」
「あ?」

 ふと思いついた、さっきの潮江くんの言葉の逆さま。屁理屈かもしれないけれど、言うだけ言ってみようと思い、口を開いた。潮江くんが適当に流せばいいんじゃないか、と。そうだ、そうだよ。私と彼の接点なんてそんなに無いし、これからもあまり話すことはないのだろうから彼にとって私なんてどうでもいい存在なわけで、ましてや私の彼に対する呼び方というものなどもっとどうでもいいことだと思う。

 立花くんはそれも一理ある、と何だか笑っていた。潮江くんといえば、次に飛んできた大声があまりにも印象的でどんな表情をしていたか忘れてしまった。少なくとも爽やかな笑みは浮かべていなかったはずだ。

「むず痒いんだよ! お前がさらっと一回呼び捨てで呼べば済む話だろーが!」
「そんなことを言ったら、お前こそ雛が言うようにお前がさらっと流せば済む話だと思うが?」
「ッうっせえ! 仙蔵!」

 そこは私が引くべきだったのだろう。けれど、その時の私は妙にテンパっていたか何だか知らないが、あろうことか「あの」潮江くんに「が、我慢してよ!」と啖呵を切ったのだった。そこから先は、どちらが我慢するかしないかのやり取りが延々と続いた。

 一昨日の、こと。

 私と潮江くんのくだらないやり取りは立花くんの呆れたような愉快そうな制止の声で止み、私は夕食の準備があるからと彼らの部屋を後にした。その後、夕食の席で会った二人は、片方は愉快そうに片方は不愉快そうにしていたような気がする。

(……恐く、なかった)

 今思い返しても不思議なくらい、彼、潮江くんと至極普通に会話を成立させていたと思う。それは一体どうしてだろう。あそこに立花くんもいたから? 時間が経ったから? 私の心に余裕が生まれてきたから? どれも正解のようでどれもしっくりこないというのは何とも変な感じだ。

「雛さあん!」

 声のした方を見ると、小松田くんが走ってきていた。事務の仕事の手伝いまではまだ時間があったはずだけれど。……何かあったのかな。


 ***


 例えるなら、自分ばかりに懐いていた猫が俺を置いてふらりと俺じゃない誰かの元へ行ってしまった時に浮かぶ嫉妬とか切なさとか恨めしさとかそんなモノをごった返しにしたような不可思議な感情に似ている。似ている? いいや、似ているんじゃなくてそのまんまなんだ。そう、そのまんま。

 ただ、彼女は俺ばかりに懐いていたわけじゃないし、別に俺から離れた場所へと行ったわけでもない。それなのに、こうして夏休みを利用して実家に戻り課題をこなしてから学園へと戻ってきた今、彼女との距離がどこか不安定で面白くない。ついでに言うなら、俺よりも夏休みの間、ここに残っていた同期二人の方が彼女との距離が近いようでそれもまた、面白く、ない。

「……そう、面白くないんだ」
「え?」
「勘右衛門。俺病気かもしれない、どうしよう」
「……医務室行く?」
「いや、いい。別に咳が出るわけでも熱があるわけでもないし」
「ふぅん……?」

 俺たち五年生は一昨日で夏休みが終わってしまったから、先生方も学園に戻ってきたこともあり、ここ二日は普通に授業を受けている。火縄銃の練習を終え、後片付けをしながらもモヤモヤと何処かに燻る何か。ふとした瞬間、身体の奥のずっと奥の方でチクりと痛みをも伴う何か。

 雛さんが俺がこの学園にいない間に、あんなにも変わっていたことに驚いたのと同時に感じたのは、大事な時期に彼女の傍に俺がいなかったことに対する苛つきと一抹の寂しさだった。別に俺がいようがいまいが、そこまで重要ではないはずなのにと自身を納得させようとしても未だに納得できていないことが不思議でたまらない。雛さんにとってこの学園が少しでも優しい場所になったのならそれだけでいいはずだろ、俺。

 なのに。

 ぱっと晴れない気分はどういうことか。これはもしかしたら、病気の前兆なのかもしれない。そう考えると少しスッキリした。俺の隣で同じく、後片付けをしている勘右衛門にそう告げると微妙な顔をされてしまったが何かおかしなことを言っただろうか。白かった雑巾が土色に染まっていくのを見ながら、首を傾げる。

「ねーえ? 兵助」
「んー?」
「……いや、俺、何となく兵助が病気かもって思ってる正体分かったんだけどさあ」
「? ああ」
「うーん、この場合ってまだ確定じゃないの? それとも鈍いだけ? ……まあ、うん。どっちにしろ、俺は兵助のこと応援するから大丈夫!」

 何を応援するんだ? と聞けばいろいろ! と返ってきて、ますますわけがわからない。俺が首を捻っている内に勘右衛門が今度はいきなり鼻唄を紡ぎだすものだから、俺の頭上にはハテナマークが増える一方だった。


 ***


 兵助がここ二、三日、彼女を見る度にどこか拗ねたようなつまらなさそうな表情をしていることには気付いていた。それは同じい組として行動していた俺だけじゃなく、同期三人も気付いていたと思う。あ、でも雷蔵はどうかなあ。

 俺たち五年生の夏休みが終わって二日目の今日、午後は実技だから火縄銃を実際に持ち出しての授業だった。特に大きな失敗をすることもなく、先生から与えられた課題をこなした俺と兵助。夏休みの間、ほとんど銃に触っていなかったから少し不安もあったけれど、感覚は鈍っていなかったようでほっと胸を撫で下ろした。

 使用した火縄銃の手入れをしつつ、今日の放課後の予定を頭の中で組み立てていれば、隣から聞こえてきた溜め息と声。え? と訊き返す。返ってきたのは、「病気かもしれない」なんて脈絡のない言葉で一瞬手が止まった。そして続く兵助の話を聞いていけば、どうやら兵助が自身が病気かもしれないと思っている原因が彼女にあることがよぉく分かった。

 兵助の話を簡単にまとめてしまえば、つまり。

(……病気の前兆って)

 そんな馬鹿な。

 第三者からみれば、それは紛うことなき嫉妬だというのに。なんで気付かないんだろう? いや、まあ……兵助が嫉妬だって気付いたら気付いたであれだよね。アレ。兵助が雛さんのことを気になるって認めることになるわけだし。とにかく、面白くなりそうだなあと思うと勝手に笑みが零れてくる。

 応援する、と告げた俺に兵助は首を傾げた。今はまだ、それでいいと思うんだ。何かが芽吹くも芽吹かないも今はまだ分からない。

「んー……でも、やっぱり今のままじゃだめかなあ」
「何が?」
「んっとね、兵助の様子?」
「は? どういう……」
「多分、兵助は構ってもらえる時間が減ったから拗ねてるわけでしょ。だったら、時間を作っちゃえばいいじゃん」
「……勘ちゃん。俺には何言ってんのか分からないんだけど」

 分かるように説明してくれないか? と目で訴えてくる兵助に笑みを返す。

「ふふん、俺に任せといて!」


 ***


 ポキ、リと首を回せば音が鳴った。昼間に小松田くんが無くしてしまったという書類を見つけるのに色んな引きだしを引っかき回しては片づけてを繰り返していたせいだと思う。夕食時を過ぎた食堂はがらんとして静かだ。椅子に腰を掛け、机に頬杖をついてみる。時間は夜の八時半を回ったくらい。私以外、まだ誰もいない。食堂に来てね、と言われたから来てみたのはいいけれど、時間が経過していくにつれて少し寂しくなってくる。

 早く来ないかな。

「……雛さん? 何してんの?」
「ッッ!? く、くくちく……はあ、びっくりした」
「え、あ、ごめん。でも、俺もびっくりしたよ。雛さんがいるなんて思ってもなかったし」

 突如として生まれた音に心臓が飛び出るかと思った。足音も戸を開く音も、気配も何もしなかった。ばっと反射的に後ろを振り返れば見慣れた長い綺麗な黒髪に青紫色のその姿。はぁっと安堵のため息を吐く。もうほんと、どうしてここの人たちは何事につけても静かなんだろう。分かりきってはいるものの、驚かされる度にそう思ってしまう。

「私は、なんていうか……尾浜くんに言われてここに」
「勘右衛門に? ……俺もなんだけど」
「……尾浜くん本人は?」
「……来てないの?」

 久々知くんのきょとん、とした顔を見て何となく分かったこと。つまり、なぜかは分からないけど尾浜くんは私と久々知くんを同じ場所に呼び寄せておいて自分は登場しないパターンなんだろう。喧嘩した二人を仲直りさせるためによくやるヤツだと思う。ベタ。ベタな小芝居。

 私と久々知くんは喧嘩なんてしてないし、尾浜くんの意図は分からないけれど、もしかしたら久々知くんが私に何か言いたいことがあるのかもしれないから彼を席に座るよう促した。それと同時に私は席を立って、台所へと向う。ここには灯りが幾つか置いてあるから、夜で日も落ちているとはいえそんなに心細さも感じない。

「ほんと、勘ちゃん何したかったんだろうな」
「んー……久々知くんが私に何か言いたいことでもあるとか思ったんじゃない?」
「俺が雛さんに?」

 何かあったっけ? と零す久々知くんの目の前にコト、と麦茶を差し出す。自分の分も机に置いて、彼の正面に座った。

「もしかしたらアレか?」
「アレ?」
「うん、アレ。俺がさ、勘ちゃんに病気かもしれないって言ったんだ」
「病気かもしれないって……え、どこか悪いの?」

 彼の顔色を伺う限り、体調が悪いようには見えない。怪我もしているような感じはしないのだけど、どうなのだろう。少し眉間に皺が寄る。もし本当に彼が病気ならどうしよう。この時代、病気にかかったらそんな簡単に治りはしないだろうし……。そんな私の心中を察したのか、久々知くんが困ったように笑うから瞬きをひとつ零した。

「なに不安そうな顔してんの。病気かもしれないって言っただけだろ」
「そりゃ、病気かもなんて言われたら不安になるっていうか……」
「……俺が病気になったらいや?」
「嫌に決まってるでしょ……心配するよ」

 久々知くんだけじゃなく、私にとって大事にしたい人たちが病気になったり傷ついたりしたら心配しない方がおかしい。ましてや、この時代、病気や怪我を治す術は現代に比べてとても少ない。薬だって多くはないのだ。

「……心配してくれるの?」
「え、勿論。だって……久々知くんだって私のこと、」


 ――心配してくれるでしょう。


 何も考えず、ただ思ったことをそのまま口に出しただけなのに。目の前の彼は、なぜか一切の動作を停止していた。焦ってひらひらと彼の前で手を振ってみる。久々知くん。そう声を掛けた途端、まるで金縛りにでも遭っていたかのような彼の身体がすっと動いて、掴まれた手。びくっと震えたのは怖かったからではなく、ただ単純に驚いただけ。そう、怖くなんてなかった。

(……や、ちょっと怖かったかも)

 久々知くんには気取られないよう、強張った身体から力をふっと抜く。

「なあ、雛さん」
「…………?」
「しばらく……こうしてていいよな」

 問いかけるのではなく最早断定のそれに苦笑を浮かべれば、瞬時に「嫌なの…」と拗ねたような言葉が返ってきてくすっと笑ってしまった。

「可愛いね、久々知くん」

 机の上で器用に、されど不器用に絡められた私の左手と久々知くんの右手。少し恥ずかしさもあるけれど、嫌な気はしない。どうやら、久々知くんは人肌が恋しかったようだ。そう思って可愛いと告げたら、彼が照れたような、何とも形容し難い複雑な表情をするものだからますます可愛く思えて仕方ない。

 今この瞬間になって、何だか久々知くんが年下なんだなあという実感が湧いてきた。ぎゅっと強くなった指先の拘束にそっと応えた。



「絡みゆく安に触れる」



「勘ちゃん、俺なんか病気じゃないっぽい」
「うん、知ってたけど……なんで?」
「雛さんと話したら治った」
「ふぅん……で?」
「で? って何?」
「え?! 自覚したんじゃないの!? 違うの!?」

 後日、尾浜くんから詰め寄られたと言ってきた久々知くんに私も久々知くん同様に首を傾げ、それを見ていた尾浜くんが「つまんなーい」とぼやいたのはまた別の話である。


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