雛唄、 | ナノ

15


 天気が良く青空が広がる、夏休み二十五日目。五年生がこの学園へと戻ってきて三日が経った現代でいう八月の中旬。

 外に出ているだけで暑くて汗が滲むというのに、どうして私はこう毎日毎日外で激しく動き回っているのだろう。いや、必要だから動き回っているんだけど、そうなんだけど。ここ数日で確実に焼けたと思う。現在進行形で焼けている、絶対。

「っま……ッ!」
「待ったなしって言っただろ」

 手にかいた汗で滑りそうになるクナイをぎゅっと強く握りしめて目の前に振りかざされた得物をどうにか跳ね返す。どうだ、と視線を彼にぶつければ彼はニヤリと嫌な笑みを浮かべた。次の瞬間、私は彼に片足を払われ転倒した。い、いたい……。

「……っずるいと思う」
「使えるものは何でも使う、それが忍だからな」
「そうかもしれないけど……」
「なんだ、不満か?」
「不満っていうか……なんていうか」

 地に座り込んだまま、目の前の青紫色を見上げる。彼の狐色の髪が太陽の光を反射してきらきら眩しい。ああもう!

「鉢屋くん強すぎ……」
「お誉めにあずかり光栄です」
「……なんで、鉢屋くんなのさ」
「私が一番、教え方が上手いからに決まっているじゃないか」
「……なんか、見下されてる感ばりばりなんですが」
「見下しているんだから雛さんの感性は正常だ。安心しろ」
「全然嬉しくない……!」

 にやにやと嬉しそうな笑みを浮かべた鉢屋くんにうなだれる。

 夏休みの初め頃、雑渡さんに襲われて以来こうして誰かかしらに護身術のようなものをできる限り毎日習うようにしている。五年生の面々がこの学園に戻ってくるまでは、山田先生を始めとした実技担当の先生方もしくは竹谷くんと尾浜くん、利吉さんや土井先生に代わる代わるといった形で習っていたけれど、五年生が全員戻ってきてからここ三日、私の師は五年生の面々だった。

 その筆頭がこうして嫌味の「い」の字も通じない鉢屋くんで。

 確かに鉢屋くんは強い上に教え方もぴかいちで、他の四人もそれはよく理解しているのか僻むこともないようだった。そのため、基本的には鉢屋くんに武器の構え方や敵がこうして来たらこうする、などといった術を教わっている。

 一通りできるようになったら、実践演習。それには鉢屋くんだけじゃなく、他の面々も加わって私に指導してくれる。おかげでここ数日、午後は事務のお手伝いを休んでその時間をこのことに費やしていた。体力的に辛いものもあるけれど、皆だって自分の時間を割いて私に付き合ってくれているのだから文句は言えない。寧ろ、自分の身を自分で護れるようになるためにも、皆が私にこうして色々なことを教えてくれるのは有り難いことだった。

「雛さん、はい」
「ありがと……不破くん」
「でも、やっぱアレだな。雛さん体力ねぇな」
「竹谷くんたちがおかしいんだって……」
「そうか? てか、んなこと言ったら七松先輩どうなんだって話だよな」
「七松先輩と比べちゃだめだよ、ハチ」

 不破くんが差し出してくれた手ぬぐいで汗を拭きつつ、不破くんの言葉に笑いながら「あの人は暴君だからなァ」と言った竹谷くんを見た。確かに、七松くんは暴君だと思う。そっと面影を思い出して頷く。汚れてしまった着物の裾をぱんぱんっとはたいた。

「……水飲んできても、いい?」
「なら、私も行く」

 立ちあがって鉢屋くんと歩き出す。鉢屋くんと水を飲みに行くのもここ数日で大分慣れてしまった。初めはとても戸惑ったのも今では既に懐かしい記憶だ。まだそんなに日も経っていやしないのに。そんなことを思いながらスローペースな私に合わせてくれる鉢屋くんを感じて、なんだかくすぐったかった。

 ちりん、風鈴の音が聞こえる。


 ***


「ねえ、ハチ」
「ん?」
「三郎、楽しそうだよね」

 水を飲みに井戸へと向かった三郎と雛さんを見送って、長屋の影にその姿が消えたのを見届けた後に雷蔵が柔く紡いだ言葉に笑った。そうだな、と返す。

「兵助、そろそろ終わったかなあ」
「あー……どうだろうな」

 昼過ぎに土井先生から火薬のことで呼ばれた兵助と、二人より先に水を飲みに行った勘右衛門は当然のごとくここにはいない。兵助はどうか分からないが勘右衛門の方はもう少しすれば戻ってくるだろう。もしかしたら、三人で戻ってくるかもしれない。

「それにしても、ハチ。今年はちゃんと夏休み中に課題終わったんだね」
「おう! 今年は勘右衛門がいたしなー。それに、雛さんにこうやって体術教えたりさ、飯の手伝いとかしなきゃなんねえって感じでいい感じに切り替えられたんだよ」
「ふふ……良かったね」
「まあな」

 ぱたぱたとうちわを仰ぐ。

 上着はとうに脱ぎ捨てているが、それでもやはり暑い。そういや、雛さんが俺らの前掛け姿見て恥ずかしがってたの言ってねえな。兵助たち三人が学園へ戻ってきてからというもの、彼女は俺が上着を脱いでいても叫ぶことはない。そして、こちらに視線を投げることもない。

 つまり、彼女はこの前掛け姿を見ないようにしているから平気なのだろう。このことを三郎にでも告げれば、雛さんが可哀想な目に合うであろう情景がありありと思い浮かぶ。一人、そっと苦笑した。面白いことになるだろうが、流石にやめとくか。

「あのね、雛さんが僕たちに普通に接してくれるようになって、安心したんだ」
「へえ……?」
「これもハチと勘ちゃんが夏休みの間、雛さんと仲良くなってたからだよね」
「そうか?」
「うん、そうだよ」
「それなりに馬鹿やってたけどなァ」

 課題をこなすために何日かは学園から抜けていたが、それ以外は毎日のように雛さんと会って喋って時には馬鹿やって息抜きに遊んでいた俺と勘右衛門。もう二度と戻ることはない時間だ。そう思うとよぎる切なさもあるが、だからこそ大切にできたのだとも思う。雷蔵に何度目かになるこの夏の出来事を話しながら、蝉の鳴き声を聞いた。

(あー……あっちぃ……)


 ***


 鉢屋くんと交代で、尾浜くんが相手になってくれたのがおそらく五分くらい前。しかしながら、私はもう音を上げていた。息が荒い。

「……うん、少し休憩させて……!」
「雛さんダメだよー? はいっと!」
「ぎゃッ……が、がつんっていった……! がつんっていったよね、今!?」
「うん。がつんっていったねー。はい、もういっかーい!」
「えええええ?!」

 木を身を守るもののひとつにしてみよう、と言われた通り、木々の間で身体を動かしてみるも視界は狭まるわ動きにくいわ木の根っこに躓くわで演習を始めてそうそう、私は相変わらず惨めな姿を彼らの前に晒していた。

 鉢屋くんなんか少し離れた場所でクツクツ言ってるみたいだけれど、これでも進歩したんだと叫びたい。木がなければもう少し機敏に動けるのだと、言いたい。

 先ほど、尾浜くんが笑いながら振り下ろした竹刀が地に当たってがつんと嫌な音を立てた。それをかろうじて避けるも、もう一回と言われもう一度避けれる自信などあるわけもなく。それ以前に、どうしてクナイを持っている相手に竹刀を出してくるのかな! きっと尋ねたら何があるか分からないでしょ? と言われるに違いない。

(…………あれ?)

 尾浜くんの竹刀を受ける覚悟で目を反射的にぎゅっと瞑って数秒。痛みを感じないことに目を開けば、すっと竹刀を下ろして私ではないどこかを見ている尾浜くんの姿があった。同様に、私たちの近くの木に背を預けて傍観していた竹谷くんもそちらを見ている。

「三郎、すっごく嫌がってるみたい」
「そりゃ、相手が立花先輩だからだろ」
「六年生って夏休みまだあるよね?」
「ああ。でも、戻ってきたんじゃないか?」

 私も彼らの見ている方向に視線をもっていけば、ばちっと誰かと視線が合う。そのことに相手は微かに笑みを浮かべて口を開いた。


 ――来い。


 声が聞こえたわけじゃない。でも、口の動きからして多分、合っているはず。
 思わず「嫌です」と口にしていた。そのことを後悔するも遅い。

 私が何を音にしたかなんてここからじゃ聞こえるはずがないのに、私の唇の動きを読んだのか、彼――立花くんは笑いだした。立花くんの笑い声につられるように木々も風に揺れている。彼の傍らに立っていた五年生三人がぽかんとしているけれど、私も同じ気持ちだ。

(立花くんって変な人……)

 今のどこに笑う要素があったというのだろう、私が断ったのがそれ程おかしかったのだろうか。……よく分からない。でも、なんだか立花くんにも人間らしいところがあるんだなあと微かに驚いた。躊躇なく人前でああも笑うような人だとは思っていなかったから、意外だと、思った。そして、やっぱり綺麗な人だな、とも。


 ***


「あ?」
「なんだその鳩が豆鉄砲を食ったような顔は」
「いやいや……普通驚くだろうが!」

 自室の戸を開けて、先ほどまではいなかった女がいたら誰だって驚くと思うのだが。生徒や先生ならともかく、ここは忍たまの六年長屋だぞ。しかも女はどこか疲れた顔をしている。その女の傍らで茶を啜っている奴の顔は涼しげだ。俺の言葉など微塵も聞いちゃいやしねえ。

「……なんで西園寺がいンだよ」
「私が連れてきた」
「はあ……?」

 仙蔵がこいつを? ……何のために。訝しげに顔を歪めればこちらに視線を寄こすものだから、何だよと意味を込めて睨み返した。ニタりと微かに口角を上げた奴に嫌な予感しかしない。伊達にこいつと六年も共にいたわけじゃねえ。

「鍛練馬鹿なお前にも休息が必要かと思ってな」
「……分かるように説明してくんねーかな」

 どうして今ここでそんな言葉が出てくるのか甚だ疑問だ。こいつの考えは未だに完全には読めやしない。休息が必要っつーんなら寝るか食うかのどっちかだろ。だったらこの女は必要ない。寧ろ邪魔になる。この女を部屋に招いた奴の意図が全くといっていいほど分からない。ゆるりと、窓格子から吹き出る生温さが肌を滑っていく。仙蔵と、女の髪がそれに合わせてさらさらと音を立てた。自室だというのに、自室ではないような感覚に眉間に皺が寄っていく。

「話せ」
「は?」
「だから、話せ。たまにはお前も女人と話をしてみろ」

 授業でも忍務でも私事でも、お前はいつも我々と話すばかりで町娘や遊女ともろくに話をしないではないか、と真面目な顔でそう続けた仙蔵に条件反射のごとく間髪入れずに怒鳴った。

「余計な世話焼くんじゃねえッ!」

 途端、視界の片隅に映った女の肩がびくっと跳ねるものだからはっとなって「わ、悪ィ」と告げた。情けない声に妙に居心地が悪い。視線を感じ、嫌々ながらも仙蔵の方を見やればひとつ頷きを返された。いや、何の合図だ、テメェ。……あご、しゃくんな。大体、こいつと何を話せと言うんだと矢羽音を送ろうとしたところ、先に奴が口を開く。

「なあ、文次郎」
「……んだよ」
「コレの年、分かるか?」
「あ?」

 仙蔵にコレ、と形容された西園寺は何とも言えない顔をしている。かくいう俺も仙蔵の問いに眉を顰めた。対して、俺の前であぐらをかいている仙蔵は一人、俺に答えを求めてくる。なんだってんだ、一体。そんなどうでもいいことをどうして聞くのかと思うが、答えないと後が面倒くさい。ぶっきらぼうに言い放つ。

「俺らと同い年だろ」

 初めは俺らより年下かとも思ったが、五年が西園寺のことを敬称を付けて呼んでいたことに思い至り、ならば俺らと同い年かという結論が出た。違いねえだろ、と思い西園寺を見やればこれまた何とも複雑そうな顔でこちらを見ていた。

「……んな顔される謂れはねぇぞ」

 吐き捨てるように言い放つ。それに対して仙蔵が西園寺に向かって「ほれ、みろ」などとどこか得意げに告げた言葉に西園寺は苦笑を浮かべた。苦笑といえども、西園寺が自然と表情を緩めたのを初めて目にした俺はといえば文字通り固まるしかない。

 仙蔵と普通に話を成立させているところも見るに、俺のいない間に何かがあったのは確かだとは思うがなんなんだ。たったひと月の間に、何があった。いや、たったという表現はおかしいか。ひと月は十分長い。西園寺の雰囲気がひと月前と比べて非常に柔いものであることに、驚きを感じずにはいられなかった。仙蔵の様子にも。そのどちらもに微かに目を見張って目の前の二人を凝視した。

「私たちより、年上だそうだ」
「誰が……って、は?」
「一人しかおるまい」

 年上、という単語に誰が、と単純な疑問を投げかけようとして仙蔵がつい、と視線で指した人物に嘘だろ、と思わずにはいられない。

「西園寺が年上だあ? ありえねえ……」
「だろう? 私もお前に賛成だ」
「いや、だって…………ねえだろ」

 ないないと片手をひらひらと振ったが、仙蔵がこんなどうでもいいことで嘘を吐くとも思えない。ということは、真面目に西園寺が俺らより年上だということだ。ありえねえ。もう一度、ありえねえと音を紡げば西園寺がようやく静かに抵抗を示した。

「そんなに年上に見えませんか……」
「敬語」
「……そんなに年上に見えない?」
「色気がないしな」
「……色気とか、」

 色気は関係ないと思うが。という考えは表に出さずして内心で考える。俺はなぜ西園寺が俺らと同い年だと思っていたのか。具体的な理由が見当たらなかった。そうだな。

 強いて言うならば。

「雰囲気が」
「え?」
「だから、お前は年上っぽい雰囲気がなかったんだよ」

 こちらに視線を投げてよこした西園寺の瞳が一度僅かと揺らいだ気がするが、言い切る。おそらく、俺が西園寺にこうして普通に話しかけるとは思ってもいなかったんだろう。現にその口は言葉を落とすべきか否かで先ほどから開いたり閉じたりをしばし繰り返している。

 仙蔵は妙にニヤけた顔でこちらを見ていた。顔は至って普通の表情なのだが、奴の目が面白いという感情を隠し切れていない。隠す気もないに違いない。それに、ハァと溜め息をひとつ。うぜぇ。

「……の」
「あ? ……なんだよ」
「や、その、潮江くんは大人っぽ過ぎるんだと思うんだけど……」
「はあ?」

 大人っぽ過ぎるってなんだ。更に眉間に皺が寄る。西園寺は俺の声に視線を下げてしまったため俺の表情など見えていないだろうが奴は別だ。しかとこちらを見て、かつクツクツといった笑いを押し殺そうとしていた。失礼なその態度は六年も共にいれば嫌でも慣れるというものでどうってこともない。どうせ、俺が年相応に見えないことについて不躾なことを思っているに違いない、絶対そうだ。

 つーか、それも問題だがそれよりも背筋を這い上がるむず痒さの正体に気が付いた。


 ――潮江くん、だと?


 ***


 潮江くん。

 そう雛に呼ばれたことに衝撃を受けたのだろう文次郎の顔が傑作で笑えてしまう。ただでさえ、雛に言外に老けていると言われた文次郎の心境を考えるだけでも笑えるというのに。クツリクツリ、喉の奥を鳴らした。文次郎に睨まれたが気にしない。痛くも痒くもないというものだ。

 私と文次郎は昼過ぎに学園へと戻ってきた。夏休み終了ぎりぎりまで外で身体を鍛えていても良かったが、二日ほど前に出くわした文次郎は夏休み後に控えた予算会議に備え学園で過ごすというものだから私も奴に便乗して今日、こうして学び舎へと足を運んだ。

 自室での荷解きを済ませ、着替え、一息つこうとしたところで浮かんだ考え。自分らしくもないと少しばかり悩んだがあの女を探しに外に出た。慣れた動作で屋根をつたい、女の影を探すことしばし。

「ぎゃっ!」

 聞こえた声に相変わらず色気も何もあったもんじゃないなと、思いつつ。様子を探れば、どうやらあの女こと雛は青紫を纏う我らが学園の五年生に護身術らしきものを習っているらしかった。以前、見た時は尾浜と竹谷の二人だったが今はどうやら尾浜一人を相手にしているらしい。

 すとん、と音もなく同じ顔をした二人の内の片方の隣へ降り立つ。私に気付いていた鉢屋は驚きを通り越して嫌悪をその顔に浮かべていたが、不破の方は私の名を口にして驚いていた。鉢屋、お前は私のどこがそんなに気に食わないのか。それに、驚き方も不破の真似をしなければどちらが鉢屋でどちらが不破かすぐに見破られてしまうぞと告げればますます嫌な顔をされてしまった。……ふん。

「何しに来たんですか」
「茶に付き合わせようと思ってな」
「え……立花先輩が雛さんを、ですか?」

 不破の問いかけには答えず、木々の間を見やる。そして、交差した雛と私の視線。緩やかに唇が弧を描いた。そのまま唇を動かす。


 ――来い。


 返ってきたのは、口の動きから察するに「嫌」という拒絶の言葉。女で私の誘いを断る者は今まで一人たりともいたことがない。まあ、私から誘うなんてことは忍務でなければ有り得なかったがな。その事実があまりにも新鮮で、彼女の即答があまりにも自然で、気付いた時には声に出して笑っていた。ああ、それを見ていた五年の面々や彼女の表情もまた見物ではあったな。

 しかしながら。
 嫌、と言われれば言われるほど追いかけてしまいたくなるというもの。

 相手も私のそんな思考に勘付いたのかは分からないが、私が歩を進める度に後退し、挙句の果てに走り出すのだから雛は正真正銘の阿呆だなと思わざるを得ない。この私から逃げ切れるわけなかろうに。私でなくとも、この学園に在籍している三年生以上からは到底逃げ切れるとは思えない。

「あんまり雛さんを虐めないでくださいよ。立花先輩」

 追うがために走り出した私の耳に届いた鉢屋の声。それに一度瞳を伏せた。口元は緩やかな弧を描いたまま。彼女の体力は私からしてみればこの学園の下級生より無いに等しく、数分もしない内に彼女はぜえはあとばてていた。それに笑みを零しつつ近寄る。

 蝉の声が止む。

「雛」

 呼んだだけ。
 呼んだだけだった。

「……立花くん」

 相手も同じ。
 ただ、呼んだだけだった。

 彼女がへらりと表情を緩めて降参するとでも言いたげに己の名を紡いだ途端、感じた奇妙な悦びに違和感を感じながら奴の腕を取って自室に引きずり込んだ。茶を入れ、先生方に会いに行ったもう一人の部屋の主が戻ってくるまでの時間が、実際に経った時間よりもずっと長いようで短いもののようにも感じられたのは私だけだったのだろうか。


 ――雛も。


 雛もそうであればいいと、おかしなことを思った。

「潮江くん……だと?」

 文次郎に彼女の年齢をどう推測するかと、尋ねれば予想通りの答えが返ってきた。そのままの流れで話をしていくうちに「潮江くん」と文次郎を称した雛が何かまずいことでもやらかしたのだろうかといった表情で私を見るものだから面白い。けれど、お前の望む答えはやらない。教えてしまうと面白くないだろう?

「……確かにお前に下の名前を呼ばれるのも名字を呼び捨てにされるのも微妙だが、潮江くんだなんて呼ばれる方がもっと微妙っつーか気持ち悪ぃ。その呼び方は止めろ」

 ピキっと微かに青筋を立てた文次郎がまくしたてた言葉。

「ッじゃ……じゃあ、えっと……」
「あ?」
「えっと……も、文次郎……さん」
「ぶふ――ッ!!? っゲほっごほッ」

 何を血迷ったか、雛が発した呼び名は「文次郎さん」だった。クククと喉を鳴らすだけでは抑えきれなくなった笑いが弾ける。笑いだした私。茶にむせた文次郎。

「ッテメェは馬鹿か!? も、も……文次郎さんとかきめぇンだよッ!!! おま、ば、も……! ッこんのバカタレ!!!」
「え、え……え!?」
「え? じゃねえ! 名前で呼ぶなら“さん”とか付けてんじゃねえ! いいなッ!?」

 文次郎の気迫に押され狼狽えたまま頷いている雛と物凄い形相で彼女に食ってかかっている文次郎を眺めて、しばらくはコレで文次郎の奴をからかえそうだと一人ほくそえんだ。



「掬ってはやかに」



「仙蔵、てめぇはいつまでも笑ってんじゃねえよ!」
「……いや、すまん。あまりにもお前が雛に文次郎さんと呼ばれるかと思うと滑稽で……ック」
「ッうっせえな!!!」
「………あの、なんかごめん」
「謝んな!」
「理不尽だと思う……」
「うっせえ!」
「っく、はははは!!!」
「仙蔵、てめえ……!」


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テーマ「人外ファンタジー」
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