雛唄、 | ナノ

05


 夏休みに入って七日目の夜。夜中と呼べるだろう時間。
 細く差し込んだ月明かりの下、目に留まった誰かの後ろ姿。それが誰かはすぐに分かった。

(……滝夜叉丸くん)

 今日は朝に会っただけで、昼間も夕食時も姿が見えずに少しばかり気になっていたから、会えて良かった。せっかく彼の姿を見つけたのだし、一言でも声が聴きたくなって彼の方へと歩みを進める。

 彼ら四年生は夏休みがない。

 けれど、彼らの担当の先生方には夏休みがあり、帰省中で不在のため、彼らが日中は与えられた課題や各委員会での仕事などをして、時々、息抜きに遊んだりしているのは知っている。でも、夜まで何かしているとは思っていなかった。夜に自主練をする子がいることは知っていても、夏休みだからと私は甘く考えていた。……すごいな、と思う。私が寝ている間にも彼らは己を鍛えていて、そうして朝が来ればまた、いつもと同じように笑ってくれているのだから。さも当然のように。

 私は私で、夏休みが始まってからというもの、三木ヱ門くんの会計委員の仕事を手伝ったり、雑渡さんの奇襲を受けて先生方に習い始めた護身術の稽古をしたり、学園長先生たちとお茶をしたり、料理をしたり、時々近くの山に連れて行ってもらったり、彼ら四年生と戯れたりと、夏休み初日には想像もつかなかったほど楽しく充実した日々を送っている。

 そのため、夜になると睡魔にあっという間に襲われて、今日のように夜中に起きるなんてことはひどく珍しかった。

 喉の渇きを覚えて起きたものの、部屋に置いてある水甕の中にはほんの少ししか水が残っておらず、井戸に向かうしかないと髪も寝巻も整えることなく回らぬ頭で判断したのが多分十分くらい前。毎日触れていたおかげで夜中といえど、スムーズに水を汲み上げることが出来た。夜の井戸だなんて、以前の私だったら怖くて絶対に近付けもしなかっただろう。渇きが癒えたところではっきりとしてきた意識、それと共に聞こえてきたカキンカキンと金属が何かに当たっているような音と微かな息遣い。そして見つけた、彼の姿。

(……戦輪だっけ)

 武器の名前についても、先生方から少しずつ教えてもらっている。確か、彼の扱っている武器は戦輪であっているはずだ。そういえば、彼と始めて会話をした日も夜で、戦輪が導いてくれたように思う。

 目を凝らして的を見れば、いくつもの戦輪が刺さっていることから、始めてすぐというわけではないようだ。今、何時なんだろう。彼はいつからここにいるんだろう。新月に向けて段々と細くなっていく月は、風にゆっくりと流される雲と交互に姿を現し、滝夜叉丸くんの姿も時折、闇に溶けそうになる。

「…………あ」
「ッ誰だ!? ……雛さん」
「あ、ごめ……邪魔するつもりじゃ……」

 一瞬垣間見えた黒い線に口から反射的に漏れた一文字。それを彼が聴き逃すはずもなく、滝夜叉丸くんは緊迫した声を飛ばした後に脱力したかのように私の名前を呟いた。でも、その声にいつものような覇気はなく、綾部くんのように少しばかり無機質に感じられて滝夜叉丸くんのそれじゃないみたいだった。夜で、手にした灯りと月の光があるとはいえ、辺りは真っ暗なものだから、それが少しだけ怖いと思ってしまって、一度首を横に振る。怖いなんて、思いたくない。

 止めていた歩みを滝夜叉丸くんの方へ進めれば、近寄るにつれてその表情が露わになって、そして気付いたこと。

(……元気、ない)

「気にしないで下さい。私もそろそろやめにしようかと思っていたので」
「…………それ」

 更に近寄ってみれば、彼の腕に走るいくつもの黒い線に眉を顰めてしまう。暗いから黒に見えるのであって、それは紛れもない血だった。それほど深く切れてはいないんだろうけれど、数が多ければ痛々しさが嫌でも浮かび上がる。指摘すれば彼は今気付いたとでも言いたげに苦笑するものだから私が怪我をしたわけでもないのに少しの痛みを覚えた。

「手当て……しようか?」
「…………、……」
「……滝夜叉丸くん?」
「……雛さんは疲れていらっしゃるでしょうから、私のことは気にせず寝て下さい」
「え、でも」
「いいんです。私のことはどうかお気になさらず」
「気にしないでって、でも……」
「雛さん、すみません。今は、放っておいてくれませんか」
「ッ!」


 ――拒絶されてしまった。


 その事実に一瞬身動きがとれなくなるも、一度私に頭を下げて、近くの屋根に飛び乗ろうとしたと思われる滝夜叉丸くんの足を気付けば掴んでしまっていた。手にしていたはずの灯りが音を立てて後ろの方に落ちた。蝋燭の火が消えてしまったかもしれない。自分でもどうしてこんな行動をとったのか、わからない。分からないけど、でも。

「ッ?! ちょ、雛さん!? 足を離して下さい……! このままじゃ雛さんの上に倒れます!」
「え? あ……や、えと……うん」
「うんって言いながら引っ張らないでくださいよ! 何してるんですか?!」

 離したらいけないような気がした。
 そんな気が、した。

「手当て、したいです」
「……放っておいて下さい」
「ッそのままじゃ、傷が……」
「これくらいの傷はどうってことありません」
「でも化膿とかしたら」
「……朝になったら医務室に行きますから、早く足を離してくれませんか」

 冷たい。
 とても冷たい声が降ってきた。
 動揺してしまう。向けられる初めての声音に戸惑ってしまう。

 彼だって立派な人間で、いつも元気だったり機嫌が良いなんてことはなくて、今はたまたま何か嫌なことがあったりしただけなのかもしれない。今まで、彼が私に嫌悪や負の感情を見せたことがないのが不思議なくらいだったのだから。だから、別に気にすることなんてないのに。私だって色んな感情を持ってる。誰かに当たることだってある。滝夜叉丸くんのコレは人間なら誰しも持っているようなもので、きっと普通だというのに。

(ッ泣くな……!)

 じわり、わけのわからない哀しみに目頭が熱くなったけれど、それは無理やり押し込んで、彼の冷たい声音に震えそうになる足を叱咤して、宙づりになった滝夜叉丸くんの足にしがみついた。

「……いくら雛さんでも、していいこととして悪いことがあります」
「ッごめ……! でも……!」
「今の私は、貴方に優しくする余裕がないんです。寧ろ、もっと傷つけてしまいそうで怖いんです」
「…………ッ」
「……分かって下さい。そして出来ることなら、今ここで私に遭遇したことを忘れて下さると嬉しいです」
「なんで……」
「なんで? そんなの決まってるじゃないですか……。雛さん、今にも泣きそうです。私に今宵ここで会うことがなければそんな顔しないで済んだんですよ」

 私が傷つけてしまった――そう言った彼の声は沈んでいて、先ほどとは違う意味で目頭が熱くなってきた。

(違う、と否定するのも)
(どこか違う気がして)

 何を言えばいいのか迷ってしまう。彼らはいつも私の欲しい言葉をくれるというのに、どうして私は彼らの欲しい言葉を見つけることもできないのだろう。

「ッ…………っ……っ」
「……雛さん、あまりに強情だと蹴り飛ばしてしまいますよ」
「っ………………ぃ!」
「? ……なんですか?」
「ッいいってば! 蹴っ飛ばしても!」
「は?」

 滝夜叉丸くんが眉を顰めるのも無理はないと思う。私が引き下がればいいだけの話なのに、引き下がるどころか食い下がっているのだから。しかも、彼の……いや、彼らの前で大声を出すのは久しぶりだった。

「い、いいってば、蹴っ飛ばしても! だから、その……ね、うん」
「雛さんって意外と強情ですね……」
「……ごめん」
「でも、私はそちらの方がいいと思います」
「え?」

 今度は私が口を開ける番だった。

「雛さんが、痛々しく笑うよりずっと素敵です」

 仄暗い中、見上げた先には、いつもより元気がなくて切なそうな表情をした滝夜叉丸くんがいて、何か言わなきゃ、何かを言わなきゃいけない焦燥感に駆られた。

「ッ滝夜叉丸くんは、その、私に優しくできないとかさっき言ったけど……! 今も十分、優しいと思う……!」
「……ッそんなこと」
「ありますッ! だ、だいたい、滝夜叉丸くんが優しくないなんて言ったらほとんどの人が優しくないでしょ……! 言ったことなかったけど……ッ滝夜叉丸くんが、信じるって言ってくれたこと……っ嬉しかった! 私、すっごく嬉しかったんだってば!」
「雛さん……ッしかし! 私は!」

 続いた言葉が、ただ痛かった。


 ***


「ッ私は、雛さんを信じると、守ると言っておきながら全然守れてなくて……!」
「先日もあのくせ者がやってきたことを気付きもせず、雛さんに怖い思いをさせて、成績優秀だとか言っておきながら肝心なことをできやしない……!」
「雛さんは気にするなと言って下さいましたが、“気にしないで”なんてそんな酷なこと言わないで下さい……!」
「私たちは忍のたまごなんですよッ!?」
「忍を志す者がどうして……ッ確かにあのくせ者は私なんかよりずっとずっと大人で! プロで! 出来た人です!」
「でも……ッだからといって、何もできなかったなんてそんなこと、そんなことあってはならなかったのに……!」
「ッ悔しいんですよ……ッ!」
「いつだって、先輩方に守られてばかりで! ッ分かってます、私がまだ子供だなんてそんなこと……! 今日だって、今朝は雛さんに要らぬ怪我を、火傷を負わせてしまったし、喜八郎の掘った蛸壺にははまるし……! 罠にはひっかかるし……!」
「ッだから……!」
「だから、今はどうか私のことは放っておいて下さい!」

 彼女にこんな言葉をぶつけたところで、私の不甲斐無さが消えるわけではないのに。

 足を彼女に捕われたまま、両腕だけを頼りに屋根にぶら下がり、沸々とした行き場のない感情を吐き出してしまった。こんなことをして、どうにもならないなんてことを頭では理解していたはずなのに。どうして。言い切ったところで、我に返った。

(ッ……嫌われても仕方あるまい)

 彼女は、私を否定しない数少ない人の一人だというのに。彼女を守ると、何度も何度も言ったのに。


 ――キズツケテシマッタ。


 傷つけたくなかった人を傷つける感覚など味わいたくもなかった。

 両腕に力を込める。雛さんは蹴飛ばしてもいいと言ったが、そんなこと本気でできるわけがない。思い切り力を込めて、彼女を傷つけることがないように一気に上体を屋根に持ち上げようとした。

「ッ!? わ、ちょ……っな!!?」

 私が力を込めようとしたその瞬間。油断していたその瞬間。思いもよらない力に足を取られ、そのまま地へと、彼女と共に倒れ伏した。

「ッ馬鹿なんですか?! 貴方は! こんなことをして、頭の打ちどころが悪かったりしたら死んでたかもしれないんですよ……!」

 この現状にしばし固まってしまったが、おそらく自身の下敷きになったと思われる彼女のため現状を理解すると同時に起き上がり、発した言葉。言葉を飾っている暇などなくて、本能のまま零したソレ。

「ッだから、私のことなど放っておいてくれと言ったのに……!」

 地に倒れたまま私を見上げる彼女の頬に伝ったものを見とめて苦い気持ちが溢れ出る。

「…………ッ」

 いつもは見ていたいと思う彼女の双眸を今は見ていられなくて、ふいっと身体を反転させて歩き出した。

 走り出した。

(ッくそ……! 最悪だ……ッ)


 ***


 微かに昼間の熱の余韻が残っている地面に仰向けに倒れたまま、思う。

(ばか……)
(ほんと、馬鹿……ッ)

 放っておいてほしいと言った滝夜叉丸くんを引き留めてしまったこと。食い下がってしまったこと。足を引っ張った挙句、地へと落としてしまったこと。自分の考えを優先して無責任な言葉を言ってしまったこと。涙を、流してしまったこと。浅はかとしか言いようがなかった。

 謝らなくちゃ。

 謝らなくちゃ、とただそれだけが頭の中を支配して、私はしばらくの間、そこから動けなかった。


 ***


「あーのーさー……そういう懺悔とか気持ち悪いから、さっさと雛さんに謝ってくれば? お前にいつまでもそうネチネチと女子みたいにされてるとすっごくうざい。いつもよりすっごくウザイ。だいたいさー、なんで僕のとこにくるわけ? 邪魔なんだけど、邪魔!」
「それがだな……喜八郎には先ほどまで散々言ってきたんだが、ちょっと目を離した内にいなくなってしまい、タカ丸さんは先生方の髪を切りに行ってしまって朝からいないし、いいか……こんなことを言えるのは三木ヱ門、お前しかいないんだ。むかつくが仕方なく、お前のところに来た」
「……僕がお前をこの部屋に入れたのは、ただ単にさっさと雛さんに謝ってほしいから。それだけだから。ただでさえ、今日は暑苦しいってのに、なんで僕はお前の話なんかを聞いているんだろう……ああ、気持ち悪いッ!」

 僕の話なんかちっとも聞いてやしない目の前のバカは、また昨日の夜中にあった出来事をぽつぽつとかなり沈んだ声で話し始めた。ああ、ムカつく。

(……早く雛さん来ないかな)

 このバカは雛さんを傷つけたらしい。話を聞いてみれば、このバカだけが悪いわけじゃないような気がしたから今回は殴らないでおいてあげたけど。正直言って、さっさと謝ればいい。

 コイツだって人間なんだから、夏の暑さによる体調不良とかが重なって、普段は心の隅に追いやっている苛立ちや不安が爆発したんだろう。特にコイツや喜八郎の苛々が爆発するととんでもない方向に向く。仕方のないことだ。ただ、ソレを向ける相手は間違っていたというだけで。

「三木ヱ門く、……あ」
「雛さん、ちょっと今コイツおかしいんで、戸を閉めてこっちで待っててください」
「え……でも……」
「滝夜叉丸も人間です。僕だって。だから、別にこのバカを庇うつもりは全然ないですけど……まあ、昨日はコイツ、ちょっと色々失敗してたっていうかなんていうか……」
「……分かってる」

 滝夜叉丸が一人勝手に云々唸っているのを横目に、姿を見せた雛さんをこの部屋、会計委員会室に招き入れれば、綺麗に浸透した彼女のコエ。コトバ。そして彼女はそのまま僕の隣ではなく、滝夜叉丸の目の前にすっと腰を下ろした。

 見ればあのバカは絶句してる。
 なんという阿呆面だろう。

「……滝夜叉丸くん、あのね」
「ッすみませんでした……! 私、ほんともう何と言ったらいいか……雛さんに生意気な口を聞いたり雛さんには関係のな――……」
「滝夜叉丸くんッ!!!」
「ッ!」

(び、びっくりした……)

 雛さんが大声を出すとは思ってなかった。僕の出る幕ではないから、妙な緊張感の漂う目の前の二人を見つめるだけだけれど。

「……ごめんね」

 蝉の鳴き声ばかりが聞こえる蒸し暑さの中で、彼女の言葉は確かな力を持っていた。滝夜叉丸ほどではないけれど、僕も目を見張った。

「気にしないでなんて、無責任なこと言ってごめん。でもね、怪我をしたのは私の落ち――……」
「違いますッ!」
「……落ち度だよ、私の」
「雛さんが悪いんじゃありません! くノ一でもない貴方が怪我をしないことなんてありえないんです……。ここは、こういう世界なんですから……!」
「…………うん」
「だから、私が貴女を護りたくて……!」
「……あのさ、」

 そう言った彼女の声はいつになく真剣味を帯びていた。

「確かにね、こうして怪我とかしてるけど、怪我はいつか治るものだからいいの。良くないかもしれないけど、もう過ぎたことだから、いいんだよ。……滝夜叉丸くんには、私、救われてるんだから」
「ッ……別に私は何もッ」
「うん、知ってる。滝夜叉丸くんも三木ヱ門くんも、皆、意識して言ってくれた言葉じゃないって。でもね、昨日も言ったけど、わたしね」


 ――信じるって言ってくれたこと、
 ――嬉しかったんだよ。


 微かに笑ってそう言う雛さんがあまりにも儚く思えて、これ以上の会話は要らないような気がした。それは言葉を受け止めた滝夜叉丸も同じのようで、その表情はひどく情けない。

(見えない傷を癒したのは)
(僕たちの何気ない言葉で)

「……雛さんが許してくださるというのなら、もう、謝りません」
「許すとか……っ許さないわけないじゃんね」

 その声はいつからか震えていて、見れば彼女の瞳から流れていくのは色のない微笑みだった。そのことをそっと指摘すれば、じとりと睨まれてしまった。でも、睨まれたというのに、なぜか僕は嬉しくてたまらなかった。

 西園寺雛という人に近づけたようで。

 滝夜叉丸と二人、笑ってしまう。

「「雛さん、不安だったんですか?」」

 返ってきた言葉を囲んで僕たちは、涙を流すことはなかったけれど確かにそっと泣いた。傷ついて、傷つけたからこそ得て、そして積み上げていくものもあるのだと――。



「塗りねた君との空白」



「ッ不安だったに決まってるでしょ……! っもう、もう……もう嫌われたんじゃないかと思ったらッ……悲しくて」
「私こそ雛さんに嫌われたと思いましたよ」
「コイツ、さっきまで散々泣き言を言ってたんですよ」
「ば、そういうことを言うなバカ!」
「ふん、さっさと出てけ! バカ!」
「…………ふはっ」


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