雛唄、 | ナノ

29


 小松田くんに書類の書き方を教えてもらって数時間、こちらに来てからというもの勉強なんて一月近くしていない私には大分苦痛だった。こっちに墨汁なんてものがあるわけもないから、字を書いて墨を使っては墨をまた磨っての繰り返しによる疲労もある。ひとまず、慣れない筆で何枚か書類を仕上げたところで今日のところは終わりだ。

 言葉が通じて読み書きも苦労しないことがひどく幸せに感じる。ここでもし、読み書きも出来なかったなら私はこの世界にとって役立たず以外の何物でもなかっただろう。しかしながら、ここが忍たまの世界だってことを改めて思い知らされた。
 どう考えたって室町時代、戦国時代の人間に標準語なんてものが通じるとは思えない。どこもかしこも方言ばかりで時代劇などを見れば分かるように何を言っているのか分からないのが普通のはずなのに。でも、ここでは通じる。それどころか、横文字……例えばフリーやらバイトだとかの言葉が行き交っている。

 小松田くんにお礼を言って、夕食の準備のために食堂へと足を進めれば、その道中、空を彩る綺麗な紅があった。鮮やかに広がるその色はどこまでも続いているようで、

「…………大丈夫」

 人知れず見上げた空は遠かった。


 ***


「お、わっ! …………った……」
「ッうぷっ! あだだ……ってあれ」

 ぶつかった。
 …………人に。

 私がぶつかった人は、尻もちをついてしまったようであああ……なんて妙な唸り声を上げている。今の体勢的にみれば、私が悪いように思われるかもしれないが私は決して悪くはないのだ。私が曲がった途端に、この女の人が箱を持って曲がってきたのだから。その箱の中身といえば、じゃがいもだったらしくごろごろとそこらに散らばっている。

「…………――の!」

(今日の夕飯にでも使うのだろうか……っとこうしてる場合ではない!)

 会計委員としての仕事が残っているのだ! 思い切り立ち上がれば下からぎゃっ! ……と聞こえた悲鳴らしきもの。

「……何故私の下にいるのだ!」
「っ何故って言われても……」

 何故だ、何故尻もちをついていたはずの人が私の下にいるのか。思わず凝視してみれば、その人はひとつ息を零した。確かここで働くことになった人で、食堂で見かける女の人だ。名前を記憶の片隅から絞り出す。

「……西園寺雛さんだ!」

 その人の名前を叫べば肩を大きく跳ねさせた後に、こちらを見たその人。戸惑いがちに頷くことから間違ってはいないのだろう。

「私は神崎左門だ!」
「神崎くん、ね。ごめんね、ぶつかって……」

 そう苦笑して、彼女は散らばってしまったじゃがいもを拾い集めた。

(…………ごめん)

 ごめんと言われたことに瞬きを繰り返していれば、後ろから聞こえてきた同じ委員会の先輩の声。しまった、急いでいたのだった!

「神崎いいぃ……! お前なあ! ほんと何処行ってるんだ! 潮江先輩カンカンだぞ!?」
「げ、田村先輩!」
「あ、三木ヱ門くん……」
「雛さん! ってそのじゃがいも、どうしたんですか!?」
「え、あー……うん。まあ、うん、落とした」

 駆けてきた先輩が彼女と知り合いであることは知っていたが、彼女の姿を見とめた先輩はどこか嬉しそうで正直驚いた。

(だって、先輩は)

「あ、わっかりました! この馬鹿神崎が雛さんにぶつかってじゃがいもを落としてしまったんでしょう!?」

 先輩のこの問いに彼女はどう答えるものかと思って聞いていれば、

「や、その、私がぼーっとしてて……」
「……雛さあん、こんなん庇う必要ないんですよー?」
「先輩、こんなんってなんですか!」
「こんなんで十分だ馬鹿野郎! お前が帰ってこないせいで帳簿の計算が合わないって潮江先輩が苛々し始めて大変だったんだぞ!?」
「うげげー!!! って、じゃあなんで先輩はここにいるんですか?」
「ッのバカ!!! お前を探しにきたんだろーが! それに! 僕は今日の夕食当番だから潮江先輩に許可もらってるんだよ!」
「そうだったんですか! じゃあ、私ははやく戻らねば!」
「当たり前だ! まあ、急いで帰ってもそろばん持ってマラソンは覚悟しといた方がいいと思うけど……っ馬鹿! そっちじゃない!」

 溜息を吐いた先輩に彼女がふっと笑みを零したのが見えた。私と先輩の会話をじゃがいもを拾いつつ聞いていたであろう彼女に、去り際にでは、と言えばひらひらと振られた手。

(……っ頑張るか!)

 なんだかひどく緩やかな空気にほどよい心地よさを感じた。なんだ、これならもっと早く彼女と関わっておくんだった。そんなことを思ったあとで、ふと振り向いた先には、柔らかく笑った田村先輩がいた。

(あんな顔もできるのか……)

 心に生まれたくすぐったさを抑えて爆走したその先には仁王立ちした潮江先輩と犠牲になったであろう後輩の姿があった。思わず戻りたくなったのは本能が危ないと告げていたからに他ならない。


 ***


「ちょ、先輩! 抑えて! 抑えてください! 書類がぐちゃぐちゃになります!!!せっかくの! 努力が! 時間が!」
「抑えられるか、三木ヱ門! 左門を探してこい! あいつが持ったままの台紙がないと帳簿が合わんのだ!!!」

 台紙を持ったままの神崎が厠に行くと言って席を立ったまま帰ってこなくなり、我らが会計委員会委員長、潮江文次郎先輩の苛々加減が半端じゃなくなった。

(なんで、僕が……!)

 これから夕食の当番なので失礼しますと言えば渋々了承してはくれたが、ついでに神崎を捜してこいと鬼のような顔で言われてしまえば逆らうわけにもいかず駆けだした。神崎の声が聞こえた気がした方へ走っていけば、案の定、神崎がいた。思いっきりこの苛々したわだかまりを吐き出すかのように言葉を発して、その後で、神崎の後ろに立つ姿を見て一瞬目を見張った。

(なんで雛さんが?)

 そして目に入ったのは、散らばったじゃがいも。

 どうしたのかと問えば、落としたと。いや、落としたのはわかるんだけど……なんて言葉は呑み込んで状況を整理すれば自ずと出てくる答え。そこらに散らばるじゃがいもに置いてある箱、少しだけ汚れた彼女の着物、どう見たってこの馬鹿が彼女にぶつかったに違いない。
 そう思って彼女に問いかければ苦笑しつつも、ぼーっとしてた私が悪いんだととれるような言葉が返ってきた。その返事に眉を寄せて反論すれば、隣にいた神崎から反論が返ってくるものだから落ち着いていたはずの苛々も甦るというものだ。

(ったく……)

 最後の去り際まで、またもや違う方向に走って行こうとする後輩をどうにか正しい方向へと導き一息吐く。

「……お疲れさま」

 柔く耳に届いた言葉に声の主を見れば、少しだけ呆れたようにそれでいてその声に見合った表情をした雛さんがいて、込み上げてきた何か。

「すみません、ほんと。あいつ、神崎は決断力バカで……まあ、いわゆる方向音痴なんですけど。雛さん、あいつにぶつかられたんでしょう? 怪我してませんか?」
「んー……まあ、ぶつかられたって言ったらそうだけど、私もぼーっとして歩いてたのは事実だからさ。方向音痴は、うん……」

 そう言って彼女は苦笑した。

「……そうですね、あいつはきっと潮江先輩にものすごく叱られるでしょうし。それよりも! 今日、僕が夕食当番なんです! よろしくお願いしますね、雛さん!」
「うん……じゃあ、行こっか」

 よいしょ、とじゃがいもの入った箱を彼女が持ち直したのを見て、持ちますよ! と言えば躊躇しながらもありがとう、とそう返って来た。なんだか、彼女のありがとうは心の奥底に直接届くような響きを持ってるように思える。思わず緩んだ頬に前方からタカ丸さんの声が聞こえてきた。

「雛ちゃーん! 三木ヱ門くーん!」
「今行くよー」

 タカ丸さんの声に小さく紡がれた声が優しかった。

(…………なんか)

 今まで経験したことのないくらいの穏やかで緩やかな時間に酔ってしまいたい。彼女の速度に合わせて歩く自分と彼女の二人の影が止まってみえた。


 ***


「雛さーんっ!!!」
「あれ、雛さんは?」
「食堂のおばちゃーんっ! 雛さんは!?」

 聞こえてきたどたばたとした足音に私を呼んでくれる声。

(あ、なんか嬉しい……)

 話の内容がいいものか悪いものかは別にして、私の名前を呼んでくれることはひどく嬉しいものだった。この間まで、私の存在さえがあやふやだったのに。だからこそ、きっと余計に。

(なんか……)
(…………なんだろ)

「雛ちゃーん、一年は組の子たちが呼んでるよー?」

 にっこりと笑ってそう言ってくれたタカ丸くんには悪いけれど、私まだ表には、あの子たちの前に表だっては行けない。行かない。行けない。ここは食堂で、表に出たらきっとまだ――……。

「んー……忙しいから断ってもらってもいいかな、ごめんね……」

 わかったぁと言って去ったタカ丸くんの足音を背にして作業を続けていく。こんな作業、今やらなくてもいいのだけれど表には出たくない、まだ出れない、出ちゃいけないから。

「――怖いんですか?」
「ッ! そんなんじゃ……」
「……大丈夫です、分かってくれます。先輩たち悪い人じゃないですから、いつか分かってくれますよ!」
「…………うん」

 三木ヱ門くんが私の隣に腰を降ろして穏やかに言葉をくれる。ありがとう、と言おうして聞こえてきた言葉たち。

「雛さんっ! 忙しいならそこで聞いててくださーい!」
「僕たち、今日補習授業で水軍の皆さんとこ行ってきたんですよー!」
「雛さんのこと話したら、気分転換にでもこいって!」
「今度一緒に行きましょうよー! 海、気持ちいいんですよ!」

 まだ、冷たかったけどな!
 利吉さんにも会ったんです!
 あ、利吉さんていうのは山田先生の息子さんで!
 今度お邪魔するからお話聞かせてほしいって!
 僕たちも聞きたいでーす!
 雛さんが暇な時未来の話聞かせてくださいね!
 こらっ、お前ら! うるさい!
 げ、土井先生!!!
 土井先生だって聞きたいって言ってたじゃないですか!
 ばっか、そういうことは言わないのが常識だろ!?

 ぎゃあぎゃあ続く喧騒に私はただ目を見開くばかりだった。
 タカ丸くんは苦笑しているようで、隣の三木ヱ門くんは煩いな、もう……だなんて言っていて食堂のおばちゃんの勘忍袋の緒が切れて雷が落ちたようだけれど、わたしの視界は少しずつ歪んでいった。

「やっと静かになった……雛さん?」

 ぼたぼた落ちゆく雫の意味を知るのは私だけ。些細なことが、今が、こんなにも嬉しいことなんだって思えるのは、きっと私だけ。


 ――……すごく、嬉しい。


 ***


 たんっと地を蹴って木々の間を、枝を、足場にして駆けていく。

 たまたま仕事帰りに聞こえた聞き慣れた声に彼らの前に姿を現せばいつになく詰め寄られ投げかけられた何重もに重なった質問。土井先生の翻訳により、彼らが言ってることはわかったが。

(未来からきたって信じますか……ね)

 学園にいるという、その女人。見なければ、話さなければ分からない。分からないが、父上が別れ際に言った言葉が印象に残っている。

(綺麗な瞳をしている、か)

 それが何を示すのか分からぬ私ではない。まだ見ぬ彼女に静かに想いを馳せてそっと胸の奥底に閉まった。今から、戦場に行くのだから。少しでも油断してしまえば、簡単に命を奪われるその場所へ行くのだから。


 ――余計な感情は不要。



「遅きの開花」



(少しだけ芽吹く)
(満開になることを祈って)


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