世界が広がったように、見えたの。
「雛ちゃん、入るよ?」
いつものように返事が返ってこない。
彼女の気配がなぜか薄いのはいつものことで、気配が感じられないのも別に不自然ではないと思っていた。戸を静かに開ければ彼女の姿はなく、そこにあったのは布団と着物のみ。着物は私が学園内から拝借して彼女に与えていたもので綺麗に折りたたまれていた。
その現状を理解した瞬間に頭をよぎった嫌な予感。彼女に与えた着物は三着ほど。それのどれもがここにあって、彼女に初めて逢ったときに着ていた彼女の服が、置かれていた荷物が、ない。ぐるりと部屋を見渡せばふと目にとまった文机の上にある白い一枚の紙切れ。それを手にとり目に映った言葉に目を見張る。
「お世話になりました」
それだけ。
「ッ……なにも今じゃなくても!」
今の時期、山々には山菜やらを求めて動物やら山賊が溜まりやすいというのに。出ていった方がいいとは言っていたけれど、まさか彼女が足や手首の怪我も完治していない今出ていくとは思ってもいなかった。彼女が出ていく気配にも気付かないで呑気に寝ていた昨夜の自分が恨めしい。身を翻し駆け出す。
学園長に知らせなければ――。
***
「……疲れた」
(私馬鹿だ。水だけ持ってきて食べ物持ってこないとか馬鹿だ……)
あの学園を出るには夜明け間際が一番良いことを知っていた。
忍者というからには夜には行動するだろうし、夜に出ていくのはさすがに怖い。夜明け間際なら夜中に自主練をしている子たちだって熟睡してるし明るくもなってくる。だから、出るのはあの時しかないと思って焦って出てきたのが間違いだった。挨拶をしていこうかとも迷ったけれど、迷いなく出ていくためには誰にも会うことなく出ていく方が適していると思った。
持ってきてしまった私の未練がましい無駄に重たい荷物を降ろして一息吐く。
「…………さむ」
さすがにまだ夏とは呼べない春と夏の間の中途半端な季節の早朝に、下着にシャツとカーディガン、膝上スカートとハイソックスは寒かった。鳥肌がたつのも無理はない。なんだか、山賊とかに出くわす前に野たれ死にするかもしれない……。
松葉杖を駆使して歩く。松葉杖をつかずとも歩けることには歩けるけれど、それはそれでずきずきと小さな痛みが走るようで使わずにはいられなかった。履き慣れていたはずの靴が妙に重い。
「ほんと、どうしよう……」
見渡す限り緑緑緑の山山山。学園の裏口から出てそのまま前方に広がる道を歩いてきただけなのだ。もちろんのこと地図なんかはもっていないし、適当に歩いて町に出られれば運がいい。
(その前に力尽きないといいんだけど)
町に出られるとしてもどのくらいかかるのかは分からないし、第一、町に出られることなくこの山で迷子になってしまうかもしれない。
――このまま、帰れたらいいのに。
泣きそうな心を無理矢理押し込んで、ひとつ息を吐き出した。
***
「はあ!?」
「へ、兵助っ! 声、声大きいよっ……!」
「おま……は!? 雛さんが出ていくことを知ってて黙ってたのか!」
「う……その、昨日、ちょっと……」
「ッ俺も捜しに――……」
「やめておけ、兵助」
「ッ三郎!」
今にも走りだしそうな兵助の腕を掴んで止めた。それにしても、何でお前が泣きそうになっているんだか。
今朝、学園長先生と土井先生が言い争っているのをほぼ全校生徒が目撃したんじゃないだろうか。何も食堂の前でやることないだろう。学園長め、わざとらしい。
あの人がいなくなったから捜しに行きたいと訴えた土井先生に、お前には一年は組の授業があるじゃろう、とそう言って学園長先生は却下し続けた。いつもの学園長先生ならば笑ってもちろん行けとでも言いそうなものだが、彼の人はおそらくそこら辺にいたある程度の生徒には聞こえるように大声で言ったのだ。
「授業の一環として、雛を捜してくるのは、六年生のみとする! これに参加しない者は、単位がいくつ減るかわからんぞ! 六年生以外が参加した場合はその者の単位も減らすつもりじゃ! 覚悟しておくように! おばちゃあん、わし魚定食!」
それを聞いた先輩方が一瞬固まった後に次々と姿を消していくのを見た。
「先輩方が動いているんだし彼女は自分から出て行ったんだろう、別に大丈――……」
「ッなんで、そんなこと言えるんだよ……!」
「…………兵助」
「雛さん怪我してるんだぞ!? お前たちだって、彼女がこの地に不慣れなことくらい分かってるだろう!」
「……だが、私たちには何もできないだろう」
「捜しにいけばいいじゃないか!」
「単位が減らされるとしてもか?」
「………………っ」
「この学園に入れてくれたのは誰だと思ってる、兵助」
単位を落とすということは進級が危なくなると暗に言われたと同じ。それは多額の入学金や授業料を払ってくれた親の期待を裏切ることに他ならない。
「お前は、実の親より得体の知れないあの人を優先するつもりか」
そう言えば、親想いな兵助のことだから止まると思っていた。なのに、振り解かれた手の先には駆けていく兵助の姿。
「行っちゃったなぁ、兵助……どうしよう」
「どうしようって……ンなの追いかけるのがダチってもんだろ!」
そう駆けていく八左ヱ門に勘右衛門は引っ張られていった。雷蔵は私とあいつらを見てどうしようかあたふたしている。その光景に、思わず口角が上がってしまう。随分と面白いじゃあないか。
「三郎、どうする……?」
「行こう、雷蔵」
「え……え、だって……」
「私だって兵助の友人だからな」
兵助一人を見捨てて上にあがるなんて野暮なことはしたくない。それに、私は彼女に不本意な態度をとったきりだ。私の言葉に笑みを返した彼女に、興味がないわけではなかった。あの人の、悲痛な「かえりたい」が奥深くで木霊している。
***
「雛さんが出ていっただと!?」
「六年生が捜しにいったらしいよお」
「……六年生が?」
「うん、なんかね。学園長先生が六年生だけ行けって言ったみたい。だからね、六年生以外が行ったら単位減らすからあって……って言ってるそばから行こうとしないでえええ!!!」
じたばた暴れる滝夜叉丸くんの襟首を掴んで引きとめた。
「ッ離してくださいよ! タカ丸さん!」
「行ってどうするのさあ……! 単位減らされるだけでしょお!」
「単位がいくつか減らされたくらいでこの成績優秀な私が進級できないとでもお思いですか!?」
「や、思わないよ? 思わないけど、うーん…………ってあああああ!!! 行っちゃった……」
教えたら行く可能性が高いと思いながらも、雛ちゃんが出て行ったと滝夜叉丸くんに告げたのは自分だけど、その背を見送って何とも言えない気持ちが残る。
(あ、三木ヱ門くんも加わった……)
「……大丈夫かなあ」
大声で喚き合いながらも共に同じ方向へと駆けていく、自分とは本来二つ年下の彼らの姿を見つめて、大丈夫かなと呟くも何となく事態は丸く収まりそうな気がした。だって、昨日、雛ちゃんが僕たちにくれた「ありがとう」は今までのものよりずっと柔らかかったから。
***
うん、ピンチ。
私に出せる最大限の速さで山道を駆ける。鞄や松葉杖なんてものは当の昔に投げ捨ててただ夢中で走っていた。
「ッ……さ、いあ……く……!」
お約束はお約束らしく、私の後ろには山賊とよばれるであろう柄の悪い連中が迫ってきていた。
それはつい先ほどのこと。私が道を曲がった直後、悲鳴が聞こえ、おじさんが私の方へと駆けてきた。わけがわからず突っ立ってれば腕をかすっていったナニカ。おそるおそる腕を見ればスっと切れた肌に赤い血。
なにが投げられたかは分からないが、突然の恐怖におじさん同様走りだした。おじさんが違う道に行ったから追ってこないと安堵したのも束の間で、山賊らしき連中はおじさんではなく私に向かってくるではないか。なんで……!?
槍やら石やら投げられてたまったもんじゃない……!
まともな体力も持っていない上に足を怪我したままの私が彼らに捕まるのなんて分かりきったことだった。相手の数は五、六人ほど。
「嬢ちゃん、珍しい服着てんなあ……?」
「いくらで売れるかねえ」
舐めまわすような視線に反吐が出るも、腕を強く掴まれ、その痛みに声も出ない。
(…………終わった)
(もう、いいかな……)
来い、と腕を縛られ口を塞がれ引きずられていく。とめどない恐怖に涙も溢れることもなく、胸中を占めるのはワタシという命の諦め。どこか恐ろしい場所に売られてしまうくらいだったら今ここで殺してもらった方がいいという静かな諦め。その諦めから生まれる、微かな希望。
――コロサレレバユメカラサメルカモシレナイ、ナンテクダラナイ。
そして心のどこか、捨てきれない願望が渦巻いてる。
――タスケて、だれか。
***
息を切らせた男性を見かけた。
その男性に仙蔵が変装したままどうしたのかと話を聞けば山賊に追われ逃げ切ったのだという。男性を見る限りとても山賊たちから逃げられるような人には見えない。すると、口にした言葉が山賊は女を追っていったんじゃないかと。男性の前に風変わりな服を着た女がいて、自分はそのまま走ったから分からないが、いつの間にか山賊は追ってきていなかったのだと。
それを聞いて舌打ちをして駆けていく文次郎の後を皆して追っていく。ばらばらに捜索していた僕たちだったけれど、仙蔵の合図で合流してそのまま彼女が駆けていったであろう場所へ木々を移り渡っていく。
「……言わんこっちゃない」
「え? なに、仙蔵?」
「忠告をしておいてやったのに、今にもどうにかされそうじゃないか」
「……どうする?」
「このまま女を救いだすか?」
「……学園長先生は捜してこい、とは言ったが助けてこいとは言ってないからな」
「ちょっもう、皆して……! 助けるのが普通だろう!」
矢羽音が往き交う。
(…………ッいた)
「っ……(西園寺さん……!)」
山賊が休憩をとっているためか彼女は木の根元に投げられていて、その四肢に自由はなく、不清潔な縄で縛られていた。ふと、上を向いた彼女と偶然にも視線がぶつかる。
「(なんで……)」
僕の姿を見とめた彼女は首を静かに横に振った。
***
「(…………あ)」
何となく上を向けば交わった瞳。もしかしたら助けに来てくれたのかもしれないという期待と自身の運の良さに涙腺が緩みそうなのを耐え、首を振る。
助けてほしい。
でも、助けを乞うことはできない。
助けてと叫べたらいいのに。だけど、私は彼らに助けを求められるような人じゃない。そんなの分かってる。それに、彼らだって助けを求めたところで助けてくれるかなんて分からない。助けてと乞うて拒絶されたら、また傷つくだけ。
――だから首を振ったのに。
自由になる手と口。
「ッ……ど、う……して」
座り込んだままの私を見下ろして呆れたように嘆息する麗しい人。
「お前はどうしてどうしてと煩いな」
「……っだ、って……」
「助けたかったから助けた。それでいいじゃねーか! な、長次!」
「………………助ける」
「西園寺さん……! あーもうっ! 足の怪我が酷くなってるじゃないか! 帰ったらすぐ医務室ですよ!」
「かえ……ったら……?」
(帰るって、どこへ)
(帰る場所などここには、ない)
(ないというのに)
「……うん? えっと、だから……学園に帰ったら医務室! 女の人に怪我は似合いませんから」
さも当然と言わんばかりに、“学園に帰ったら”と言葉を零す善法寺くんに私の口から自然に零れた言葉。
「ッい、いの……?」
(私が、学園に戻っても)
(いい、というの?)
その言葉に彼らは一瞬顔を見合わせた後に善法寺くんが笑った。
「うん、だから……帰りませんか?」
「帰りたくないならここにおいていってもいいが」
「もうっ仙蔵! ね、西園寺さん、帰ろう?」
「別に無理やり連れ帰ることはな――……」
「仙蔵、きみは黙ってて」
「……すまない」
俯くことしか私にできる術はなくて。
「雛さんっ……!」
聞き覚えのある声に反射的にそちらを向けば、わけもわからず途端に後ろに倒れ込んだ自身の身体。
「何でこんな危ない山中に一人で出て行ったりするんです!?」
「信じるって言ったばかりじゃないですか!」
「お前ら授業中じゃ……」
「彼女が心配だったんです!」
「そうですよ! なんで出てったりするんですか! あ、もしかして潮江文次郎先輩のせいですか!? 先輩、雛さんに謝ったんですか?!」
「潮江先輩、まだ謝ってなかったんですか!?」
「「謝ってください!!!」」
まさしく嵐。
私に抱きついてきたかと思えば今度はその潮江……先輩と思しき人物の元へ行き、ぎゃあぎゃあと訴えている紫色を纏う彼ら。
「わ、わかったっ……わかったから! おま、三木ヱ門、物騒なものを構えるな! つーか、その石火矢どこから持ってきやがった……!?」
「「じゃあ、謝ってください!」」
二人の勢いに呑まれ背中を押されるがまま、私の目の前に差し出される人。殴られた、あのときの映像が脳内で一瞬にしてフラッシュバックして思わず身構えた私。そして私たち二人を取り巻く何とも言えない雰囲気。
「………………った!」
「…………え?」
「っだから! 悪かったっつってんだよ! バカタレ!」
「…………ッ」
「ッ……殴って悪かったな!」
そう言ってふんと横を向いた彼にかける言葉などなく呆気にとられてしまう。
「お前も謝れるのか、文次郎」
「うるせえ!」
「ふふ、これで一件落着だね……あれ、西園寺さん?」
「「潮江先輩?!」」
「ああ!? ……ッ俺じゃねえよ!」
流れた雫は頬を伝って、落ちて。
「…………ッ」
「俺の話し相手になってくれる約束じゃないか。……雛さん」
優しげにそう言葉をくれた彼の纏う色は青紫。
「お前らまで来たのか」
「来たのかって食満先輩ひどいなあ……」
「単位なんて学園長先生にお菓子でも奢ればすぐ獲れますからね」
「三郎、いくらなんでも、それは……」
私のすぐそばで聞こえる他愛もない温かさに満ちた会話。
「………………ッ」
(私、こんなに嬉しくていいの)
(なにか、罰があたらないでしょうか)
(それでも、)
(いつか罰が当たったとしても)
(今はただ、ただ)
「……かえ、りたい」
心に巣食う私の世界ではなく。
今目の前で佇む彼らの学び舎に。
――どうしても、帰りたい。
熱を帯びた目で捉えたのは、今までになく穏やかな顔をした彼らの姿だった。
「――帰りましょう」
(どうか、うけとって)
(どうか、うけとめて)
第一部前編:完 後編へ続く
←|→ (25/88)
[ もどる ]