伊作と文次郎の間にひどくピリピリとしたもんが流れてるのは私にでもわかる。伊作がにこにこ笑ってるだけなんだがな。でも、それは稀に見る伊作の冷たい笑みだった。
「……ねえ、文次郎?」
「…………ンだよ」
忍術学園一忍者してるとか何とか言われている文次郎もあの有様だ。伊作がふと、話しかけた瞬間に背筋がしゃんと伸びたのを私は見逃さなかった。見逃さなかったぞ、文次郎!
「忍は簡単に他人を信じちゃいけないってこと、分かってるけどさ。でも、西園寺さんはすぐ怪我しちゃうような弱い人で、文次郎みたいに鍛練ばっかりしている男が拳をふるってしまえば簡単に壊れちゃうような人なんだよ。それは分かるよね?」
静かに説教を始めた伊作を卓に頬杖をついたまま見やる。確かに伊作の言うことは最もで、あの女の人は私がぎゅうっと力を込めて抱きしめたら一瞬で骨のいくつかは確実に折れることだろう。よろよろ、よろよろとした足取りで割った薪を風呂場へと運んでいるのをじぃっと見ていたからよく分かる。風に吹かれて飛んでいきそうだったよな! と長次に言えば小さな声が返ってきた。
「んん? なんだ、長次!」
「………………もそ」
「お前にしては上手いって?! ばっかだなァ、長次! 私はいつでも上手いぞ!」
「…………、例えが」
再び長次がなんか言っていたような気がするが、腹が減ったからまずは飯だ!
「小平太はバレーか何かを誉められたとでも思っているんじゃないか」
「…………おそらく」
私が食事にとりかかっている間に交わされた仙蔵と長次の会話は一体なんのことだ。首を傾げて二人を見てもすっと目を逸らされた。ったく、感じ悪いなァ! と長次の肩をばしばしと叩く。その間にも、淡々と伊作が文次郎に対して説教を垂れているようだった。
「西園寺さんは確かにまだ間者とかくノ一だとかの疑いが完璧に晴れたわけじゃないし、文次郎が殴りたくなる気持ちも分からなくはないよ。だけどね、彼女は女の人なんだよ? その女の人の顔に傷をつけるのがどれだけ酷いことかわかってる? ……痕になったらどうしようか、一生消えないね、きっとね。ねえ、文次郎? ……何もさ、顔を殴ることはなかったんじゃない? 当たり所が悪かったら、文次郎……きみ、彼女のこと殺してたかもしれないんだよ」
どんどん追い打ちをかけていく伊作の諌めるような言葉に、食堂にいる連中も居心地の悪さを感じたのか、そそくさと出ていく者もいれば耳を澄まして聴いている者もいる。つまり、いつもはガヤガヤと騒がしい食堂がめちゃくちゃ静かだってことだ。私はあまり気にならないが長次が静かにしていろと言ったから、口は閉じて大人しく目の前の飯をいただくことにする。
「暴力を振るうのは、簡単だけど……それは最終手段にしなきゃ」
「…………ッチ、わかってんだよ!」
若干の沈黙のあと、そう言って文次郎は席を立った。飯は私たちが来る前に食べ終わっていたらしい。
「なあ、伊作」
「……なにさ、仙蔵」
「お前はあの女の話を信じたのか」
そう仙蔵が問えば、伊作はひとつ重い息を零して、それからいつものように苦笑して言った。
「信じるとか信じないとか無しにしてさ、彼女と話してみたらどうだい? きっとね、これは話さなきゃ分からないことなんだと思うよ」
私もまだあの人と話をしたことはないが、未来から来たのだという、あの話がほんとならすごいよなァと一人呟いた。
***
私がいなくなっても、別に何ら支障はない。寧ろ私がいたほうが迷惑。だったら、どうやって生きようとかそんなこと考えるのは後にしてここを出ていくべきなんだと思う。
(もっと……もっと、はやく)
(出ていけばよかったのかもしれない)
そうしていたら、きっと傷も少なくてすんだだろうに。でも、それと同時に私に笑いかけてくれた子たちとの関わりもなかっただろうけれど。優しさに触れることもできなかっただろうけれど。
出て行ったところで何が起きるかわからない。運が良ければ誰かに拾ってもらったり、どこかで働かせてもらえるかもしれないし、運が悪ければ山賊だとか海賊だとかに遭って強姦されるなり虐待されるなり殺されるなりするかもしれない。
――結局、怖かったから。
少しでも安全なこの学園にいたかったから。少しでも彼らと仲良くなれればいいと思っていたから。ここを出ていかなかった。その結果として、私も傷ついたし、きっとあの人たちも傷ついてしまった。自分のエゴで他人を巻き込んで、何をしているんだろうか、私は。
(ああもう……ッ!)
なんで私みたいな人間がトリップなんてしたんだろう。私、そんなに非日常を望んでいたかな。そんなに日常に飽き飽きしていたかな。もう、帰してほしい。そうは思っても、幾ら今を嘆いたところで今すぐ帰る方法など誰も知りはしない。これが夢で、ただ長い長い悪夢であることを祈るばかりだ。夢であるならば、いつかは醒める。この箱庭のような世界からいつか抜け出せる日がきっとくる。
(…………だけど)
これが夢なのかも分からないから、私にはただ帰りたいと願うことしかできやしないのだ。ひとつ息を零して片腕を額の上へとのせる。そうしてしばらく、不意に聞こえた声に酷く胸が詰まった。
***
「…………ッ雛、さん」
「……く、くちくん」
障子戸を挟んだ一枚越しに彼女の名前を呼べば、返ってきた自身の名にほっと安堵した。
「あのさ、その……ッ」
大丈夫か? なんて尋ねるまでもない。そんなの大丈夫なわけがない。でも、きっと。大丈夫か? とそう聞いたら、きっと、彼女は大丈夫だと言うのだろう。まだ彼女と交わした言葉は少ないけれど、彼女と接した時間は短いけれど、彼女は優しい人だと思うからきっとそう言うと思うんだ。
「…………よかった」
どんな言葉を言うべきか考えあぐね、悶々としていたときにぽつりと彼女が零した言葉に瞬きを零す。
「よかった……?」
「……うん、よかった。もう……」
そこから先の言葉は聞こえなかった。彼女が言っていたとしてそれが小さすぎて聞こえなかったのか、彼女が言葉にしなかったのか、俺には分からない。
「雛さん、入っても――……」
「入ってこないで」
「……雛さん」
即座に拒絶の言葉を返してきたその声は震えていて、彼女と俺の間に存在する一枚の隔たりを開けようとして伸ばしかけた手を引っ込めた。でもここで彼女から距離を置いてしまったら、もう二度と話すことができないような気がした。それは嫌だと、どうしてか思う。
言いたい言葉を胸の中で何度も消してはおそるおそる言葉を生みだす。彼女に嘘はつかないように、でも、これ以上彼女を傷つけることがないように。
「俺、もさ……、これでも一応忍者の端くれだから、貴方を簡単に信用できないってのは……分かってほしい。だけど」
――彼女はきっと嘘なんて。
「話すことくらいはできるし、その、だから……さ。ッ俺の、話し相手になってほしい、んだけど」
結局言いたい言葉なんてものは、ただ俺は彼女を信じたいということだけだったけれど、それを今言うのは違う気がした。きっと彼女が欲しい言葉は信じたいなんていうあやふやな言葉じゃなくて、信じるって言いきれるそんな確かなものを秘めた言葉だろうから。だから、少しでも彼女に近づけるようにと思って口にした言葉は先日彼女に告げたものと同じようで違う言葉。
訪れた沈黙が恥ずかしくなって彼女の許可なしにほんの少し戸を開けて彼女の様子を盗み見た。
「ッ雛さん?!」
顔を掛け布団に埋めた彼女に、女人の部屋であることを忘れて戸を開け放ち慌ただしく彼女の元へ駆けよれば、雛さんは首を縦に振った。その返答に安堵した後に、自身の失態に気付いた。女の人の部屋に無断で入るとか、何をしているんだ俺は……!
「……っい、いの?」
「へ?」
「わ、わたし……く、くちくんと話しても、いい……?」
彼女の口から発せられた言葉に瞬きを数度繰り返し、咀嚼した後に今の俺の出せる限りの優しさを込めて彼女に告げた。
「俺が話したいんだ。……雛さんと」
「ッ…………あ、りがと」
布団に顔を埋めつつ震える声で返事をした彼女を見て、小さく微笑んだ。
「「ああああああっ!!!」」
突如として響いた声に二人して身体をびくりと跳ねさせた。見れば、四年の平滝夜叉丸と田村三木ヱ門じゃないか。
(…………げ)
誤解されそうだ、間違いなく。
***
「なぜお前まで来る!? 私一人で十分だ、この武器オタク!」
「いーや! 僕一人で十分だから! お前こそ邪魔だ! この自惚れ馬鹿!」
「は、何を言う! 僻みか、それは!? 私が美しすぎる故の罪なのか、これも!」
「うざ、お前うざ! 僕の方が綺麗だから! 僕がアイドルだから! わかってんの!?」
「それならば、アイドルはアイドルらしくどこかの町娘にでも媚びてくるがよかろう!? 雛さんを信じてもいないくせに来るな、このボケ!」
「はあ!? 嫌だよ、なんで町娘に媚びなきゃいけないんだよ! てか、僕も信じてるから!」
驚いた。三木ヱ門の言葉にふっと笑う。
「……ふん、先に信じたのはこの眉目秀麗な平滝夜叉丸だということを忘れるな! 行くぞ!」
「ええ、なにその態度の変わりよう!? むかつくんだけど! ってちょ、おい、待てってば!!!」
だだだっと合同授業が終わってすぐに駆け出した私に続き、後を追うように駆け出してきた三木ヱ門が鬱陶しいが彼女を信じているのであれば仕方あるまい。百歩譲って今日だけは共に彼女の元へ行くことを許してやろう。
「ん?! 彼女の部屋の障子戸が……」
「誰かいんじゃないのー?」
先生だといけないと思い、部屋に近づくにつれ気配を押し殺しつつ進んだ。そうして二人で部屋を覗けば案の定、ダレカこと五年生の久々知先輩と布団に顔を埋めた雛さんの姿があった。
「「ああああああっ!!!」」
***
突如として聞こえた大声に思わず身構えれば、見知った紫色の忍装束が二つ。
「五年生の久々知兵助先輩! 何をしてらっしゃるんですか!?」
「泣かせたんですか!? サイテー!!」
「っお前ら落ち着け! 話を聞け!」
「久々知先輩は優しいとのお噂でしたのに、女人を泣かせるなんて……! ッ先輩、見損ないました!」
「大丈夫ですか、雛さん!」
まさしく怒涛の嵐。止まることない久々知くんを非難する声と私を案じてくれる声。あはは、と口を挟む隙間もなくて苦笑いしか出てこない。誤解ではないかもしれないが、私を泣かせたと誤解をされているらしい久々知くんは滝夜叉丸くんに襟首を掴まれてがくがくしていた。
「久々知先輩、雛さんに何をしたんですか!」
「まさか寝込みでも襲ったんですか!」
「久々知先輩ともあろう方が!」
「信じられません!」
「あのなあッお前っら……ちょ、くび、離せッ……って!」
あまりにも久々知くんが、がくがくがくがくとなっていたために久々知くんの襟首を掴むその手の主の名前を遠慮がちに呼んでみた。
「滝夜叉丸くん……あの……」
「雛さん! 何も遠慮することはありません! この私にお任せください!」
「や、遠慮じゃなくて……」
(ごめん、久々知くん……)
あまりの勢いに私にはどうすることもできそうにない。
「滝夜叉丸くん! 三木ヱ門くん!」
そこへ突如として増えた声。その声の主はタカ丸くんで、今の現状を見て顔を少し歪めた後に頭を抱えた。
「もうっ二人とも何やってんの! 久々知くん苦しそうだよ、離したげて!」
「「だって、タカ丸さん!」」
「はは、助かった……」
滝夜叉丸くんを久々知くんから引き離し、タカ丸くんがほっと一息ついたのが分かる。十五歳ということもあってか、見た目に反してなかなか頼もしく力はあるらしい。
「だからさ、お前ら……俺は何もしてないんだって」
「本当ですか?(先輩はアレだな)」
「怪しい(久々知先輩はきっとアレだ)」
「「(絶対、むっつりだ……)」」
「お前ら、ぼそぼそと聞こえてるから! 関係ないだろ、今それは! っ雛さんもなんか言ってくれ……ほんともう、こいつらやだ……。どうしてこういう時だけ息が合うんだよ……」
四年生の勢いにすっかりまいってるらしい久々知くんだったけれど、その顔は穏やかなものだった。
「久々知くん……ありがとう」
私なりの誠意を込めて彼を見据えて放った言の葉。なんだか、とても気恥ずかしい。彼もそうだったのだろうか、頬を掻いて、ん、と軽く頷いてから久々知くんは静かに立ちあがった。
「……こんなに人数いても邪魔だしさ、俺帰るから。雛さん、食事はちゃんと摂りなよ」
そうして去り際までじとーと彼を凝視する四年生ズに「雛さんに迷惑かけるなよ」とそう残して久々知くんは行ってしまった。その背が遠のいていくのを眺めて想う。もしかしたら、久々知くんには、
――もう会えないかもしれない。
私なりに考えた。足が治るまでここに居させてもらえたらいいななんておこがましいことを思ったばかりだけれど、出ていくのは早いに越したことはないんだと。松葉杖ももらった。だから、そんなに早く歩けはしないかもしれないけれど歩けないことはないのだから。
「雛さん」
そんなことを思いながら声のした方へ視線を向ければ、こちらを見据えた滝夜叉丸くんがいた。
「……滝夜叉丸くん」
「私は、雛さんのこと信じてますから。……だから、もう二度と貴方に危害がないよう、私が貴方を守ります」
ドラマや小説のなかではありふれた守りたい、守るという言葉。それは、自分が言われることになるなんて思ってもみなかった私をどぎまぎさせるのには十分なものだった。
「貴方に怪我を負わせてしまった……! 私というものがありながら!」
ナルシストとしての一言を付け忘れない彼はきっとどこまでもマイペースなのだろう。
「僕も、信じてるよお」
二人の腕を掴んだままのタカ丸くんが、柔らかな笑みを浮かべていた。
「ッ僕だって……僕だって信じてますよ! 滝夜叉丸が守る前に僕が守ります! ッだから! 安心し――……」
「何を言う、この馬鹿ヱ門! 彼女を守るのはこの、私だ!」
「ッはあ!? 僕だから! てか、話してんの邪魔すんなよ!」
「お前の言葉なんぞ雛さんには要らん! 用が済んだならさっさと帰れ!」
「そんなのお前もだろ!? お前こそ帰れよ!」
「ちょ、二人とも……! もう……!」
せっかくいいことを言うのにあっという間にそういった空気をぶち壊すのが彼らなのだろう。そしてきっとそれを苦笑しつつも二人の仲を取り持とうとするタカ丸くんと、どうでもよさげに眺めている綾部くんがいて、この子たちは釣り合っているのだろうと思う。
彼らの言葉を頭のなかで噛み砕いてようやく理解しきったところで込み上げてくるなにか。瞼を閉じて流すまいと耐えるけれど、胸の中だけじゃこの感情は消化しきれなくて外に溢れ出していく。そのまま重力に従ってぼたぼたと散った涙。先ほどと同じように掛け布団に顔をうずめた。私の様子に彼らの喧騒もぴたりと止んで、次の瞬間に飛んできたのは優しいことば。
「どうしたんですか!?」
「どこか痛いんですか!?」
「雛ちゃん泣かないでえ……!」
あまりにも焦ったようにわたわたと狼狽えるものだから首をただ、ただふるふると横に振った。どうしようか。この感情をどうしようか。ねえ、嬉しいよ。嬉しくて嬉しくて、全部消化しきるにはまだまだ時間がかかりそう。
「……っあ、り、がと……う」
一瞬の空白の後にふっと空気が柔らかくなったのを、わたしは確かに感じた。
(だれを、なにを)
(いつ、どうやって)
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