ゆっくりと浮上してくる意識。
開けた視界。この瞳が映した世界。
変わらない、終わらない、夢のような今にもう一度目を瞑る。あの時と変わらない。わたしがここで初めて瞳を開けた時と同じ。身じろぎひとつせずに、自分の身に何が起きたのか頭の中で整理する。整理し終えたところで、先ほどから感じていたすぐ傍にある人の気配に、そっと目を開けて首から上だけを右に動かした。濃い緑を纏う男の子が私の立てた微かな音に気付いたのか、視線が交差する。
「…………、……」
「ッあ! き、気付いた? 西園寺さん…」
「………………ッ」
「えーとッえーと……その、……ごめんね」
ごめんはもう要らないのに。
「あー……その、僕は保健委員長の善法寺伊作といいます。新野先生が今ちょっと出ているものですから、その、うん、まあ……」
「……西園寺雛です」
自己紹介をされたら私もしなくてはと思い、そう掠れた声で呟けば善法寺くんが柔らかく笑うものだからどきりとした。
「学園にある中で一番良い傷薬を塗ったので頬の傷は化膿することはないと思います。足と手首は怪我の具合が酷いので治るのには時間がかかると思いますが……他に痛いところはありますか?」
その問いに首を軽く左右に振ればよかった、と返ってきた一言。
(よかった……?)
そっと自分の手を頬にあててみればガーゼらしきものが貼ってあって、手首には包帯が巻かれていた。手首は力を入れない限りは痛みも感じないようで折れていなかったことにほっとする。礼を言えば「絶対完治させないと。女の人に傷は似合いませんから」なんて、彼はそんな言葉を笑って言うものだから、もしかしたら彼は濃い緑を纏っていても、私を傷つけない私にとって安全な人なのかもしれないと淡くて昏い期待が静かに生まれた。
「……ちょっと待っててください」
ふと立ち上がった彼の行く先を見つめていれば、彼は部屋の片隅に置いてあった水桶と手ぬぐいをもってきてくれた。
「どうぞ」
包帯の巻かれていない方の腕を支えに上体を起こして、差し出された濡れた手ぬぐいを受け取り顔を少々ふかせてもらう。
「他に、何か欲しいものありますか?」
「……じゃあ、あの……みずを、飲む方の」
私の応えに分かりました、汲んできますと言って彼はこの部屋から出て行った。
***
「…………はぁ」
あれからどのくらい経ったのか、分からない。分からないけれど、言いようのない罪悪感が何故か沸いてくる。実際に被害を受けたのは私なのに。それでも、勝手に学園内を一人でうろいたらああなるなんて想像するに容易かったのにうろついたのは私だし、もっと上手く受け身をとっていたら手首も捻挫なんてしなかっただろう。
確かにとても痛かったし怖かった。
まともにグーで殴られるのなんてそれこそ初めてだったし、言葉だって容赦なかった。でも、なんでだろう。
(……罪悪感がわく)
苦しかった。苦しかったけど。彼の気持ちだってわからなくないの。私だって人並みに自分の好きなことだとか大事な友人だとかに執着心やら独占欲やらある人間で、わたしだって、彼らの立場にいたのなら正直もっと酷いことさえしたかもしれない。きっと学園は大事な彼らの居場所で、友人は彼らの仲間なのだから。誰かを誑かしたつもりは毛頭ないけれど。
(……かえりたい、か)
帰れるものならとっくに帰ってるってば。帰りたくても帰れないんだよ、もう。そう音にはせず口の中で咀嚼した現実に胸が痛んだ。
「西園寺さん、水です。どうぞ」
はっとして顔をあげれば水を持った善法寺くんがいて、お礼を言ってその水を受け取った。
――これからどうしよう。
気まずいのは目に見えてる。
***
固く握りしめた手はいつものように開けば白くなっていた。仙蔵にも指摘された、俺の悪い癖。別に後悔なんかしてないんだ、してないんだが、癖なんだからしかたねぇだろ。
(俺は忍者に、)
(一流の忍者になってみせる)
その俺が一々人を傷付ける度に後悔なんぞするわけないだろ。六年にもなりゃ実習も本格的なものに変わり、忍務を任されるだけでなく戦に駆り出されることだってある。その中で人を傷付けることなんて当たり前になっていって、今じゃ別に何とも思いやしねえ。子供だろうが、女だろうが、必要があれば傷付けてきたんだ。誰かを殺したことだって、ある。
そんな中で、こうして手を固く……それこそ血が出るほどまで握りしめるようになったのはいつからだったか。……そんなの覚えちゃいやしねえ。覚えちゃいねえが、この手の痛みだけが俺を戒める。
俺の同期も先生も、後輩だって人を傷付けることに何も言やしねえんだ。これが忍として生きるということだから。人を傷付けて感情に左右されるくらいならば忍なんざ務まるわけがねえ。
――だから。
誰も何も言いやしない。
優しいはずの伊作でさえ何も言わない、ただ与えられた仕事を無表情でこなすだけ。
(……後悔なんかしねえんだよ、俺は)
だから、女を殴ったあとに走ったやるせなさも、女が泣き叫んだあとに走ったなにかも、全部、後悔なんかじゃない。全部、後悔なんかじゃねえんだ。
人を殴って人を傷付けて人を殺めていく度に冷え切っていく己の心。それはきっと皆だ。俺だけじゃなく仙蔵も長次も小平太も伊作も留三郎も、皆。それを分かっているから、仙蔵は事あるごとに俺に言う。無意味なことで己を穢すなと。
――人を傷付けるは己を傷付けるのと同じこと。
「未来」から来たとあの女は言ったらしい。今思えば仙蔵から話を聞いただけであの女とまともに会話したこともなければ、あの女がどんな人物なのかも分かっていなかった。理解したくなかった、というのもあるが。
浅はかな己の失態に舌打つ。
信じるか否かは自分で判断することだ、と仙蔵が言っていたのにもかかわらず仙蔵の話を聞いただけで嘘だと決めつけてしまった。後輩がそうしていたように、一度でいいからあの女と接してみればよかったのかもしれない。忍務帰りで疲れが溜まっていたとはいえ、冷静さを欠いて感情のまま女を殴ってしまったのはいただけなかった。
泣き叫んだ女が演技をしていたとも考えられる、でも、心のどこかで否定した。あの女は演技であそこまで悲痛な声を出せるほど、器用じゃねえだろ。軽く投げ出しただけなのに手首を痛めるだなんてくノ一やら間者やらでありえたら相当のマヌケだ。
女が医務室に運ばれてから一日が経過したが、あの女が目を覚ましたかどうかは知らない。
――俺が会っても傷付けるだけ。
***
「せんせ、い」
土井先生の姿を見とめた時、彼女はようやく安堵したかのように強張った頬を少しだけ緩和させた。室内に入って来て彼女の傍らに膝をついた土井先生は雛ちゃん、と零すと同時に優しく彼女の頭を撫でたのを見ていた。
彼女が気付いていたかは知らないけれど、僕の姿を見て一瞬びくりと怯えた目をしたのを覚えている。余程あの出来事に恐怖を抱いたのだろう。
僕がそうして二人を見ている間にも、西園寺さんは先生にあれからどれくらい経ったのだとか今の時間だとかを聞いていた。
「善法寺、彼女に食事をもってきてくれないか」
彼女が意識を失ってから一日が経っていて、今は夕方に近い。彼女が目覚めたら薬膳料理を食べさせてあげようと考えていた僕はその言葉に頷いて部屋を出た。食堂を借りて午前中に作っておいた薬膳料理をもって戻ってくれば、室内から聞こえてきた頼りない声。
「……出て行こう、と……思います……」
彼女の言葉は聞こえていないふりをして、コトリとわざと音を出してから障子を開けて部屋に入る。
「僕が作ったものですが、どうぞ」
すっとさし出せば、ありがとうございます、と少し強張った声ながらも丁寧な返事が返ってきた。やはり、彼女は育ちが良いのだろう。
そんな彼女は、薬膳料理を見つめたまま動きを止めた。
***
「……雛ちゃん? どうした? ……どこか痛むのか!?」
「だ、大丈夫です……! その……」
非常に困った。
差し出された料理と思われる品を見て、思わず眉間に皺を寄せてしまった。
(え、なに、これ料理?)
(……ただの草じゃなくて?)
土井先生も善法寺くんも心配したようにこちらを見ているのは分かっているけれど食べるに食べれない。いや、食べなければ失礼なのも分かってるんだけど、分かってるんだけれども……正直食べたくない。そうしているうちに恥ずかしいことにもお腹が鳴ってますます困ってしまう。
「……食べたくない?」
「…………や、その」
せっかく作ってきてくれた物を、作った本人がいる前で食べたくないなんて言うこともできずにあはは、と苦笑で誤魔化してみたものの状況が変わることはなかった。
「雛ちゃん、食べないと倒れるよ?」
君、食堂のおばちゃんの料理でさえ少なめによそってばかりで一日二食程度も食べてないらしいじゃないか、と続けられた土井先生の言葉に身を縮める。疲れ過ぎると食欲は失せてしまうのだから仕方ない。
「え、そうなんですか?」
「ああ。手首が痛いのなら食べさせてあげるから、食べる!」
今にもあーんなんて恥ずかしいことをされそうになった私に、選択肢はひとつしかなかった。
「……ッその、これって食べられるんですか?」
空気がぴしり、と鳴った気がした。
「……これはね、薬膳料理といって身体に非常に良い料理なんだ。だから、食べられないなんてことはない。それに、保健委員長の善法寺が作ったんだ、まずくはないさ」
「や、薬膳料理………?」
「知らなかったんだ……」
「何なら私が毒味してみようか?」
「や……だ、大丈夫です。その、草が多かったので……」
もごもごと最後の方は言い淀んで、おそるおそる薬膳料理という名の品を口に運んでみる。…………あ。
「……おいしい」
「ほんと!? よかったぁ……!」
見た目はアレなのに味がよかった、すごく。おばちゃんの料理にひけを取らないんじゃないかと思うくらいの美味しさ。思わずそのまま素直に感じた感想を述べれば私の横に座っていた善法寺くんが花咲くように笑ったものだからむず痒さも感じつつ、もぐもぐと口を動かしては消費していく。
(料理のできる男の子……)
格好良い上に料理もできちゃうなんて、それだけで人生得だと思う。現代にそんな人がいたらさぞかしモテるに違いないだろうな。……ここではどうか分からない。彼らにとって料理が出来ることはもしかしたら当たり前のことかもしれないから。
(なにが、正しくて)
(なにが、間違いなのか)
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