「…………文次郎」
「……なんだよ」
未だ頑なに握りしめられている文次郎の片手にそっと触れる。振り払われることはなかった。
「こうも白くなるまで握るくらいなら、やめておけばよかったろう」
「……うるせえ」
「お前の悪い癖だ」
こうして自分の行いを悔いる度、こうも白くなるくらい、時には血が出るくらいまで片手を握りしめるのは、
「お前の悪い癖だろう?」
そう言えば返す言葉もないようで舌打ちが返ってくる。それと共に柔く手を開かせるように解いていけば抵抗することなくゆっくりと開かれていく手。
「……私は別にあの女がどうなろうと構わん。だがな……」
お前が傷つくのは少しばかり困るのだと、眉を寄せた。
「お前が傷つく必要がどこにある。お前はあの女を信じてなどいないのだろう」
「それは……ッそうなんだが」
眉を寄せて再び手を握りしめようとする文次郎の手を掴んで無理矢理目を合わせる。
「……ッ仙蔵」
「馬鹿者。お前は別に間違ったことをしてなどいない。ただ、感情のまま行動しすぎだ戯け。もう少し冷静になれ」
そう言えば気まずそうに目を逸らすものだからそのまま言葉を続ける。
「別に殴ったことは咎めん。あの女は怪しいに違いないし私とて信じきったわけではない。だが、ああも感情のまま行動して自分が傷ついてどうする。あの女とて傷ついたのはわかりきったこと。傷つけた側のお前まで傷ついてどうする。傷つくくらいなら初めからやるな。無意味なことで己を穢すな」
「…………すまん」
「それに、……私も悪かったのだ」
泣き叫んだ女の顔が言葉が声が、頭から離れない。こうなることが分かっていたなら、最初から手を差し出さなければよかった。……学園に連れてきた私が悪い。
***
突然聞こえた彼女の叫びに三木ヱ門と顔を見合わせた後、走るに走った。近くのグラウンドで授業を行っていたために彼女の声はよく聞こえ、その内容に胸が痛んだ。ばっと彼女がいると思われるところへ辿り着けば彼女は見るからにぼろぼろだった。
(雛さん……)
隣の三木ヱ門も声も出ないようでただ呆然と彼女を見つめていた。彼女に対峙するは六年生の先輩方で何があったかなんて聞かずとも大体予想がついた。
だからこそ。
予想がつくからこそ胸がざわついた。
帰りたいと零す彼女が嘘をついていないことなんてきっと分かっていらっしゃるはずなのに、先輩方は微動だにしない。かくいう自分も、どうにか彼女の名前を呟いて近づいて彼女の意識を遮断しただけで先輩方に抗議することも出来ず、彼女が土井先生に抱え上げられていくのを見ていることしかできなかった。
でも内心、彼女を傷つけたであろう先輩方に我らが体育委員会委員長である七松小平太先輩がいなくてほっとしたのも事実だった。
***
潮江文次郎先輩があの女の人を殴ったらしい。あの女の人……名前は覚えてない。彼女には別にそこまで興味もなかったし先輩たちが変に警戒していたから、自分から関わる必要はないと思っていた。
グラウンドで四年生の手裏剣の授業を手本にしながら手裏剣の授業をしていたおれたち一年は組も、いきなり聞こえた声に驚いて、あっという間に走っていく先輩の後を皆で追った。先輩たちはやっぱり足もはやくて、おれたち一年は組が同じ場所に着いた頃にはなんだかよくわからないことになっていた。
(潮江先輩……?)
おれが所属する会計委員会の委員長、潮江文次郎先輩が表情を歪めたまま固まっていて、土井先生があの女の人を運んでいくのを見た。何があったかなんて分からなくて乱太郎やきり丸たちとこそこそと会話をするもあまりの空気の重さに皆押し黙ってしまった。
「お前たち、授業に戻るぞ」
そうしているうちに山田先生に声をかけられてなんだか妙な空気のまま元きた道を戻っていく。
……一体何だったんだろう。
ふと後ろを振り返れば赤いモノが見えて、立ち止まってみれば潮江先輩が歪んだ表情をしていたから。どうやら手を上げてしまったようだと推測できた。
(せんぱい……)
歪んだ表情の中に、痛みが見えた気がした。
***
彼女を捜していた。
彼女が文次郎や留三郎に見つかってはまずいと思い焦って探していたのはいい。だが、これも不運委員長と呼ばれる自分の性なのだろうか。
(蛸壺にははまるし)
(学園中に仕掛けられた罠を避けようとして違う罠にひっかかるし)
(途中で怪我人にはでくわすし)
捜したいのに捜せずにいた。そんな中で突如として聞こえた声に自分の不運をひどく疎ましいと思ったのがつい先程のこと。
ようやく見つけた彼女の姿に顔を歪めずにはいられなかった。おそらく文次郎か留三郎が殴ったのであろうが、あたりどころが悪かったようで頬の皮膚が切れそこから血が流れ出ていた。それに加えて涙を流すものだから、
――まさしく血の涙。
捲れた袖からみえた手首も異常なほどに赤い。早急に手当てをしなければならないはずなのに彼女の醸し出す雰囲気に呑まれ動けないまま、涙する彼女がひどくか弱く思えて、僕はそっと目を伏せることしかできなかった。
***
僕たちは動けなかった。
ただ風に乗って聞こえてきた彼女の声に尋常ではないとは思ったけれど、足が地面に縫い付けられたように誰一人動くことはなかった。
「わたしだって帰りたい」
「好きでこんなところにきたんじゃない」
なんて悲しい響きをするんだろう。
それは心からの叫びのようで、その言葉たちは僕の心に重く刻まれた。
「……三郎」
不意に絡みついてきた指先に視線を横に移せば俯いた親友の姿。何も言わないけれど指先に込められた力で三郎が何を思っているかなんてある程度は分かる。だから僕もそっと手に想いを込める。三郎の心が少しでも軽くなるように。
「雛さん……ッ」
そう小さく呟いた兵助を見れば頭を抱えてしゃがみこんでいた。優しい優しい兵助のことだから彼女が心配なのだとは思う。その兵助までもがなぜ動かないかと言えば、それはきっと昨日のことが原因だろう。僕は三郎を追ってすぐに出てきてしまったからあれからのことは聞いてないしわからないけれど、兵助にも彼女に顔を合わせにくい何かがあったのは想像するに容易い。
(ごめん……ごめんね)
謝っても意味がないから唇を噛みしめてみるけど、何だか無性に悲しくなった。他の二人、ハチと勘右衛門も言いようのない顔をしていてとても授業なんかしていられない。
彼女を信じたわけじゃない。
(でも……)
***
聞こえてきた声に駆け付ければ、ボロボロと血と涙を零す彼女がいて、平が意識を断たせた後にすぐに抱え上げ歩き出した。前に抱き上げたときよりも軽く感じたのは気のせいじゃないだろう。走らないように、でも出来る限りの速足で新野先生のところに転がりこめば新野先生の処置は素早く的確で、あっという間に彼女の身体のあちこちに包帯が巻かれていった。
「土井先生」
「……はい」
「先生は彼女が嘘をついているとお思いですか?」
「……いいえ」
「そうですか……」
「………………っ」
「忍者にとって他人を信じることは難しいですし、人を欺き騙す術を教える側である我々がどうこう言えるわけもありませんが、これではあまりにも……彼女が可哀想でなりませんね」
忍術学園の教師としては彼女を疑うことを誉めるべきなのかもしれないが、どうにもこれはいただけない。かといって私が、おそらくは忍者としては正しいことをしている生徒たちに何かを言う資格もなく。
こうしてただ事の成り行きを見つめているだけの自分の無力さに胸が痛い。
「雛ちゃん……」
どうかこの子がこの場所に受け入れられますように。
(傷つくは皆、)
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