落とし穴にはまった日から今日で早くも五日が経った。
足の怪我で部屋に籠もりがちになってからというもの、この場所に来てからのことを度々思い返しては思う。何度も何度も。
――どうして私だったのか。
私よりあの世界を退屈に思ってはありえないことをありえると願い続けてる子だっていたはずで。私より綺麗で可愛い子なんてそれこそ山のようにいたはずで。私より世渡り上手で立ち振る舞いが上手い人がいたはずで。私よりこの世界のことを知っていて好きだと思っている人だって……いた、はずで。
私のようなたかが一般の女子高校生が、家族と険悪ムードだとか、友達が一人もいないとか、誰かにいじめられているとか、毎日生きるのが精一杯の生活を送ってるとか、そんなことのない、一般的に見たら普通だったはずの私が。
(どうして)
この問いを何度繰り返したんだろう。
(ここにきた意味は)
神様がいるのならこれはなんだというのだろう。神の気まぐれなのか、それともこれが私の長い長い夢なのか。
(もしくは)
(運命、なのか)
そう考えて内心で嘲笑う。
運命という言葉は嫌いじゃない。でも、これが運命だから受け止めろ、だなんて無理に決まってる。確かにあの忍たまの世界なのかと疑うくらい顔が整っている人が多くて、そんな人たちに囲まれて少しは好かれたりするんじゃないかななんて期待をしていたのは事実だけど、簡単にそんなことができたなら本当に夢でしかない。夢でしか。
――私は生きてる。
そう思うから、運命だなんて残酷な言葉でこの現実を片付けたくはない。
***
怪我の治療と休養を兼ねた休みをもらってから五日が経った。この五日の間、私の行動範囲は今までより更に限定的なものになっていて一日のほとんどを一人、自室で過ごしていた。食堂には行っていない。私が何を言ったわけじゃないけれど、休んでいる間、食事は自室でとるといいとおばちゃんも土井先生も、それから校医の新野先生も言ってくれて私はそれに甘えることにしたのだ。
食堂に行かず、洗濯や薪割りも足に負担がかかるから出来ないとなると一人、時間を持て余すだけだった。新野先生には全治二週間の捻挫だと言われたけれど、腫れが引けば痛みはあるものの別に歩けない程じゃなかったし、掃除くらいなら出来そうだったからやると申し出たのにそれは新野先生だけでなく、土井先生にも却下されてしまった。
疲れが溜まっているのは自分でも分かっていたし、休みなさいと、大丈夫だからと先生たちの言葉は有り難いもののはずであったのに、ほんの少し悲しくなった。それと同時に焦りも感じた。だって、私はまだ全然この学園に受け入れられてなくて、衣食住を保障してもらえる代わりに私が差し出すことが出来たのが労働だったのに。何も差し出せずにしてどうして焦らずにいられるだろう。
そんな私の内心を知ってか知らずか、土井先生が「じゃあ、この辺りの客室一帯の掃除を軽くお願いするとしよう」と言ってくれたことが救いでもあった。何もせずに休むなんて怖かったから。
今まで食事時の手伝い、洗濯、掃除、薪割りとやっていれば終わっていた一日がやけに長く感じられたこの五日間だったけれど、その間に嬉しいことが幾つかあったなあと思い返す。
二日目の朝、朝食を運んできてくれた久々知くんと少しだけとはいえ話をすることが出来て、彼が私の話し相手になってもいいと言ってくれたこと。そしてその日の夕方頃、乱太郎、きり丸、しんべヱの一年は組トリオが部屋に来てくれて私の話を聞いてくれて、その上で私を信じると言ってくれたこと。三日目には、朝食を運んできてくれたのが土井先生で、私に新しい着物を与えてくれたこと。昼食時にはおばちゃんと新野先生が来てくれて包帯を換えてもらいながら他愛のない話を交わしたこと。四日目、昨日の夕食はわたしのことを信じると言ってくれた、彼ら一年は組トリオが持ってきてくれたこと。
そのままちょっと遅くまで話をしていたら土井先生がやって来て、
「雛ちゃん、よかったね」
なんて、あの三人をもう遅いからと寮へ戻らせて、それからそっと私の頭をまるで子供にするように撫でて優しくそう言ってくれた。様々な感情が入り交じってどうにも言葉にならなくて、小さな、ほんとに小さな声で一言紡ぐのがやっとだった。
――先生、ありがとう。
その言葉を先生が聞き取ったかはわからないけれど、先生は俯いたわたしの頭をぽんぽんと自身がいつの日か四年生のあの子にしたように軽くたたいてから去っていった。その行為にしばらくの間、何とも言えないむず痒さが消えなかったけれど、それは決して悪いものではなかった。むず痒さが消えたあとに残ったのは、まるで春の穏やかな日差しのようなほんわかとした柔らかな気持ちだった。
それにしても、捻挫というのはこんなに治るのが早いものだったろうか……。
***
がやがやと活気に溢れた町中。
「なあ、兵助。これとかどうよ?」
そう言って俺をみるハチこと竹谷八左ヱ門が持ち上げたのは、蜂蜜入りと書かれた札が貼ってあるよく分からないモノだった。……とても美味しそうにはみえない。しかも、その値段は簡単に俺たちが手を出せるような額じゃなかった。
「……お前それ食べたことあるのか?」
「いや? まあ、でも蜂蜜ってなかなか手に入らねえし珍しくていいんじゃねえ?」
「そうだけどさ……もう少し食べやすそうなの選ぶだろ、普通こういうときは」
「じゃあさ、兵助。やっぱりここは無難に果物でいいんじゃない?」
にっこりと笑った勘ちゃんこと尾浜勘右衛門の指差す先には、この時期に食べ頃を迎えた果物が数種類。南蛮菓子など珍しい品を置いている売り場からそちらの方に移動すると、自然と甘い香りが漂ってきた。
「だな。……ハチ、その瓶置いてきたら。俺は買わないし、落として割ったりなんかしたらお前金払わなきゃいけなくなるぞ」
名残惜しげに怪しげな瓶を元の場所へと戻す八左ヱ門に勘ちゃんと二人、苦笑する。虫を食べるハチにとっては興味深いものだったのかもしれないが、あんな高価な物は金持ちじゃないととてもじゃないが買えないだろう。
つい最近までは、あの人と呼んでいた彼女こと西園寺雛さんと話をしてから三日程経った授業が休みの今日。友人と町に出た帰りに彼女へ土産でも買っていこうかと思い、店を見て回っていた。共に来ているのは八左ヱ門と勘右衛門の二人だ。彼女に土産を買っていきたい、と告げたら自分たちも選ぶとかいうものだから、あれもこれもと当初の予定量よりも大分多くなってしまった。しかも、食べ物ばかり。……この量じゃ、とても彼女一人では食べきれないに違いない。後輩に分けるか。
「兵助、お前直接あの人んとこ行くのか?」
「ああ。そのつもりだけど」
彼女がいる部屋は忍たま長屋と少し距離があり、この足でそのまま向かってしまった方がお茶の時間として丁度いい頃合いになるだろう。彼女には先日、部屋を去る際、ぶっきらぼうにもほどがあるほどの言い方で、話し相手になってもいいと言ってきたのだ。自分の言葉に責任をもって行かねばならない。
(いや、行かなきゃじゃなくて)
(行きたいと思ったから)
「俺も行く」
「へ……?」
「だってさ、こないだ言っただろ? 俺も行きてぇんだけど、だめか?」
「俺も行きたいなあ! ね、いいよね?」
にんまりとした笑顔で八左ヱ門と勘右衛門の二人がそう告げてきた。瞬きをひとつ。彼女に会いたい、彼女と話したいという奴らが増えること、そういうのは彼女にとってすごくいいことだと思う。二人に勿論だと答え、彼女がこの手土産と友人たちに喜んでくれればいいと思った。それに俺にも。
***
「え、と……いいの?」
時計の針が午後三時を回った頃に彼らはこの部屋へとやってきた。土井先生が暇だろうからと持ってきてくれていた書物の一冊を丁度読み終えた頃だった。この世界、引いてはこの時代――戦国時代あたりだろうか――の文字を私が読み書きできるはずはないと思っていたのに、読むのも書くのも支障がなくて拍子抜けしたのは記憶に新しい。漢文だけのものは流石に読めなかったけれど、漢字と仮名文字の入り混じったものは読むことが出来たのだ。そして自身が書いた文字を土井先生に見せたところ、ちゃんと通じたのだから驚きだった。
寝癖も布団も綺麗にしておいて本当に良かったと目の前の人たちを見て思う。ほぼ初対面の人にあんなだらしない姿は見せられない。特に目の前の――イケメンと呼べるだろう人たちには。どぎまぎしつつも、入ってきて早々、久々知くんが差し出してきた果物と和菓子が入った籠に視線をやって、久々知くんに本当にコレを貰っていいのかと問うた。
「ん? あ、ああ、勿論。……にしても、お前たちも来たのか」
ぐるんと後ろを向いた久々知くんの後ろには狐色の髪をした人が二人。
「いいじゃないか、兵助。私と雷蔵だけ仲間外れは寂しいだろう?」
飄々といってのける一人とあはは、と苦笑を零した一人。
――被る仮面は同じ顔。
今現在、この部屋には久々知くんを始めとした五年生五人がいる。女が一人に美形な男の子が五人、なんて美味しい状況だろうと場違いなことを意識の傍らで思いつつ、この状況に当然ながら戸惑っている自分がいた。食堂で見掛けた時に感じていた怖いという感情は鳴りを潜めているもののどうしたらいいか分からず、彼らのやり取りを眺めていれば「あ、自己紹介してねーな」と誰かが零した声が聞こえた。
「俺は竹谷八左ヱ門。五年ろ組だ、よろしくな!」
「俺は尾浜勘右衛門といいまーす。兵助と同じ五年い組でーす」
にかっなんて効果音がつきそうな笑みを浮かべた少しごわごわとした髪の男の子と、緩やかに語尾を伸ばした少し髪に癖がある癒し系であろう男の子。二人の名前を頭の中で漢字に変換してみようとするも出来なかった。ただ何となく、昔っぽい名前だなあなんてことを考えて切なくも感じる。ここは、昔なんだって思い知らされるようだった。
「「僕は五年ろ組、不破雷蔵です」」
(…………う、ん?)
被った二つの声。
「ちょ、三郎!」
「僕は雷蔵だってば、三郎!」
「嘘つかないでよ、三郎っ!」
同じ顔が言い争う光景ってなんてシュールなんだろう。……シュール。
「ったく、三郎やめとけって」
「お前たち二人が揃うとこれだから面倒なんだよ」
「じゃれつくのは後でにしなよー」
同じ顔をした二人を見る三人は、口ではそう言いつつもその声音は柔らかくて微笑ましさが滲み出ていた。……きっと仲が良いんだろうな。微笑ましく思うけれど、それと同時に感じたのは、どうしようもない寂しさだった。
(私にはもう手が届かないみたい)
「私が鉢屋三郎、五年ろ組だ」
少々感傷にふけっていたらしく、近くで聞こえた声に驚いてばっと顔をあげる。と、そこには、
「ッ!?」
そこには、私の顔があった。
予想外の出来事に座ったままの身体が不自然に傾き咄嗟に床に手をついた。目の前の人たちがそんな私を見て一瞬間を空けたかと思うと次の瞬間ふっと笑ったのを見た。
「三郎は変装の名人なんだよ」
「で、こっちが本物の不破雷蔵ね。三郎の素顔は俺たちも含めて誰も知らないんだよー」
わけが分からず狼狽えているとそれを見かねた久々知くんとおはまくんが説明してくれた。へんそう。……変装。なるほど。思わずまじまじと見てみれば瞬きひとつの間に彼の顔が変わっていた。
「…………すごいね」
無意識の内に零れ落ちていた私の言葉に、目の前の変装の名人であるという人は目を微かに見開いた後で「当たり前だろう」なんて格好良い言葉をくれた。それが何だか少し、おかしかった。
(その輪に入れて)
(そう言えたら、いいのに)
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