(tov)





窓枠から鳩が飛び込んできた。背もたれの長い椅子に座って船をこぎ始めていた私は、翼がパタパタとなるその音で途端はっと意識を取り戻した。虚ろであったまぶたを瞬きによってはっきりさせ、その居所を探す。窓ガラスからの暖かな光を浴びた白は、室内のなかで 柔らかな光沢を帯びていた。


依頼書
内容:護衛
要望:人数をひとりにすること
帝都 平民街の噴水前にて待つ。



「どう思います」

不可解に眉間をひそめて、目の前に座る男を見る。私が所属しているギルドの首領である その男は、短く書かれた文が乗せられた紙を見つめて、私と同じ顔をした。

「変だと思いません?」
「ああ、変だ。…けど」
「けど?」
「断る訳にもいかない」

男の手にあった紙が、酒と適当に頼んだのだろう数品の料理が並わんだテーブルに置かれる。うまく溜飲を成せない答えに眉を潜めると、男はやけに透き通った強いる瞳をこちらに向けて「わかってるだろう」と促した。ギルドは信用と信頼関係が大事だと、暗にそう言いたいのだろう。もう何度聞かされたことか。けれど、変な要望がくっついているものは、どうにも嫌がらせ類のものが多いのだ。特に、ひとりだけ という条件のものは。

「一応、心当たりがあるから 確認をとってみる」
「心当たり?」
「それが当たっていたら、お前 行ってくれるか?」

私の疑問は宙へ浮いて、その目によって除け者とされる。 こんな顔をするのだから、きっとそこらに転がっている依頼じゃないのだろう。 多少の引っかかりを感じながらその目から瞳を反らさずに頷いた。


*


「来ていただけたんですね」

噴水前に待っていた依頼人は、平民の格好をした青年だった。金髪の目立つ髪色をして、やけに白い肌がそれを美しく映えさせている。彼はやけに嬉しそうに笑って感謝を述べたものだから、私はまたやけに驚いて暫く反応を固まらせてしまった。なんだこの人は。首領の心当たりは当たっていたらしいが、それにしてもあんな短い文で命令するように依頼してきたのだ。どんなに嫌な奴だろうと警戒していたのに、とんだ杞憂だとばかりのこの容貌。思わず息をつきたくなる。瞬きを繰り返して一応首を傾げる。「あなたがこれを依頼した人?」指と指で鳩に括られていた依頼書を挟む。彼は惑うこともなく頷いて、それからやけに整った眉毛を不安そうに八の字にさせた。

「不躾な依頼書を送ってしまって、すいません」
「いや、いいの。見たところ嫌がらせとかじゃなさそうだし」

ほっと息をついて灰汁がないように微笑んでみる。彼も緩やかに口元をほころばせた。同じように笑ってくれるあたり、やはり 悪い性格はしていないのだろう。一丁前なのは容姿だけ、というパターンは無さそうだ。
「護衛ということだけど」上機嫌を保ったまま、私は再びなんでもないような疑問を渡す。「荷物とかはないの?」護衛と言えば大事な荷物の運搬。彼には当てはまらないけれど、要人の警護。もしかしたら、馬車かもしれない。これまでにあったことを回顧しながら、彼の返答を待つ。

「ありませんよ」

実にきょとんとした 間抜けな仕草で彼は答えた。「え?」思わず 意識するより前に喉から声がもれる。ありませんよ。ありませんよ。ありませんよ。と、数回頭のなかでその返答を繰り返す。「どういうこと?」どうにも肯定として飲み込めずに再び疑問を傾ける。ほんの少し、お腹のなかで ひんやりとした汗が怯えるように佇んでいた。

「旅をしたいので、護衛をしてほしいんです」



重要な荷物はなし。どこかの要人であるわけもない。 ただ旅がしたい。それだけ。
私はしばし黙った後、彼をまっすぐ見たまま「は?」と呟いてしまった。それを聞き取ったのか、彼が不安そうに眉の形をへこませたとき、私の記憶は とっさに首領の厳しい顔と言葉を思い出した。「絶対に断るな。最後までこなせ」ギルドの居所から出立する前に、首領はまた珍しく張りつめた表情をしてそう言ったのだ。どうしたの?と冗談めかしてやろうかとも思ったけれど、やけに変な依頼書に頭を捻らせていたから、それはできなかった。今更になって思い出すと、あの言葉は、はたして単なる信頼性の問題云々というものではない気がするのだ。もっと大きな、例えば、ギルドの存続に関わるような。

「駄目でしょうか?」

表情にぴったりと合った声音で、彼は聞く。思案を抱えたまま、答えの出せない私はただ頷くしかなかった。

「大丈夫」


*


「海、苦手なの?」

遠く、水平線まで伸びる視界を持つ彼に向かって首を傾げる。唇が必死に堪えているように引き結ばれ、その瞳は故意にまっすぐとしていた。彼の要望通り、「なるべく帝都から離れる」ための港を確認した後。隣に座って ふと視線を落として、初めて分かったことだけれど 膝に置いた手も些かだが震えている。「いいえ」頭を振ることなく答えた その顔色は、あんまりに青白い。目を伏せて、鼻でため息をひとつ。それでも彼はこちらを向かない。

「うそつきね。病人みたいな顔してる」
「すこし疲れただけです」
「船に乗ったから、でしょう」
「…」

彼は、それまで青色ばかりを映していた瞳をふいに落とす。図星だと、黙して語っている仕草だ。

「陸路で行ってもよかったのに」
「それでは駄目なんです」

落とされていた目が、再び持ち上がる。今度は、その奥にきちんとした光を取り込んでいる。彼はこんな目もするのか。私は心中でひそやかに驚嘆しながら「そうなの?」と、半ば生返事の曖昧な返事をした。境界線を見つめたまま、彼は「ええ」と、いっそ力強いほどに頷く。
手持無沙汰になった口を閉じる。それから、ほんの出来心で 真似をするためにと水平線へ目を向ける。空と海のほとんど同じ色が混じって、そこに太陽が助け舟を出したように境界線は曖昧だ。それでいて、時折つやつやとうつくしく光る。私は思わず、目を細めた。
しばらくしたのか、どうなのか。「船は」自然の音に傾けられていた聴覚に、ぽつりと彼の声がこだまする「船は、嫌いではありません」

「苦手なんです」
「同じようなものじゃない」
「すこし、訳が違うんです」
「訳?」
「ええ。トラウマ…というか、そういうものです」
「ふうん」

一羽の海鳥が、柔らかな鳴き声で掻き分けながら 水平線へ進んでいく。地の果てと思ってしまう その青と青の線は、太陽の白い光で包まれている。
境界線。そこに向かった鳥が海に沈んだのか、飛んだままなのか、私にはよくわからない。


*


私たちがヘリオードに着いたころ。久々の4本足が付いたベッドにはしゃぐこともせず、ぼんやりとした様子で窓から外を眺めていた彼が、ふと唐突に聞いてきた。

「私たちは今、どこに向かっているんですか」

旅の荷を少しばかりほど解いていた私は、その手を止めてぱちぱちと瞬きをした。素直に驚いたのだ。声も出さない、ただ私のなかだけの吃驚。 。それは幾度かの反芻によって体中に行き渡り、それからやっとのことで その理由を判明できた。思えば、旅の間。彼は一度も行先を訪ねてこなかった。

「今更?」
「すいません。近頃やっと知りたいと思い始めて」
「そう。いいことかもね」

口元だけで嬉しく笑いながら、一度そこで口を閉じる。それから目も向けずに、また荷解きを再開した。腕に付いて重たさを感じさせる魔導具を外す。ためしにちょっと目を上げてみたとき、彼がこちらを見続けていたことが見えて、それが催促を現していることにも気づいた。少し悪戯をしたのだ。

「ダングレスト」

私が知るなかで、もっとも美しい街の名前。

「そこに行くのよ」と、顔を上げて驚いた。彼もまた、同じように大きくまるめた目で私を見ていた。

「ダングレスト、ですか」
「ええ」

なるだけ帝都から離れている土地。そこに行きたいと彼は言った。ダングレストは、距離の意味でも 街の意味でも、人の意味でも、帝都とは遠い場所だ。彼は俯いて、夕日を背中に抱え込んだように目を伏せる。いつも伸ばされていた背が、いまは少し曲がっているようだった。

「嫌だった?」

そう聞いてみたものの、頷かれても、私は彼を無理やり引っ張っていくつもりだ。私のなかで行先は既にそこへと定まってしまっているし、なにより 剣を持つことのない彼に、海に怯える男に、あの夕暮れをみせてあげたいと思う。瞼を閉じれば思い出せる。あの、落日を孕んだ太陽への渇望を、彼は感じることができるだろうか。あたたかい故郷の空気は、帝都とは全く違う味がするのだ。

試すように見つめていると、彼はゆっくり顔を上げて ただひと言。「いいえ」と、静かに言った。

「ただ、すこし驚いただけなんです」
「そう。ならよかった」
「少々不安ですが」
「どうして?」
「帝都の者が行って大丈夫なものかと」
「平気よ。最近は仲も良くなってきたし、なにかあっても守ってあげるから」
「頼もしいですね」
彼がくすくすと 忍んだ声で嬉々と笑みを零す。
「まかせといて」
私がわざとらしく力こぶを作ってみせると、彼はますますその口元を濃くした。


*


この日もダングレストは絶好の夕暮れ日和である。懐かしい石畳を踏みしめて大きく息をすると、荒くれ者の匂いが微かに混じる あたたかな空気が胸に近い肺を満たした。ヘリオードにあった青空がここにはない。代わり 朱色と赤色の混じった、美しい夕空がある。後ろを振り向いてみると、彼は空のほうへ顔を上げたまま、街に入ったばかりのままで足を止めてしまっていた。

「ね、ね、きれいでしょう?」

駆け寄って、ぷらりと垂れていた両手を握る。とたん、うすく 細胞のきめ細やかな掌に 私の指が食い込むように沈んで、ふと実感させられた。確かに、これは守られる手だ。
彼はぱちぱちと瞬きをしながら、その目を私に差し出す「ええ」勿忘草の色をした瞳が、夕焼けを取り込んで煌めいている。「とても」
その肯定にまた嬉しくなって、私は笑う。

「もっときれいに見えるところがあるの」
「そうなんですか」
「行きたい?」
「ええ、是非」

そうと決まれば。と、手を取ったまま、そわそわとせかしそうになる心を抑え、なるべくそろりと歩きだす。石の道は足を取られやすい。彼が転ぶといけないから、なるだけ慎重に。かつ迅速に。
お店が軒並みに立つ通りを抜けて 広間へと向かう。依頼を完遂させた者、これから向かう者、はたまた 依頼を探している者。そんなギルドの人間が行き交うなかを通り過ぎ、ひとつの酒屋に辿り付く。扉を開けると、まだ満杯ではない賑わいと音楽が耳に付いた。
カウンターに駆け寄る。秘密の鍵を持つマスターが、ワイングラスを白い布巾でぴかぴかに磨いていた。

「マスター」

机に体を前のめりにして、弾んだ声をかける。ぱっと顔を上げたマスターは、手を動かすのをやめて 穏やかに驚嘆していた。最後に来たのは、いつだったろう。

「屋上にいきたいの」
「それを聞くの、いつぶりかな」
「そんなに空いた?」
「ああ。おねだりがなくて清々してたんだがね」

机の上にグラスを置くと、マスターは肩をすくめて片目をつむる。「ひどい」とくすくす笑いながら答えた。
同じように笑ったマスターは、ふいに私の後ろを見る。目を細めて、口の端がきゅうっと悪戯に持ち上がった。「その間に、可愛い男作っちゃって。まあ」
その声を、視線を受け取ったとたん、目が自然とまるく、小さくなるのがわかった。瞬きをする。男?誰が。後ろを向いて、顔を見合わせる。ざわめきのなか、彼も同じように、間抜けた顔をしていた。
 

周りの建物より少しだけ背の高い酒屋の屋上は 美しい夕焼けを映している。軒並みの間で見上げるのとは違い、ここへの光の旅路は遮られるものがなく、それは前に連なる屋根という屋根を渡って、私たちの目に届く。瞳の奥の奥まで届くように強く、それでいてどこか脆く優しい。昨日にはあった朧雲は、もう遠く遠くのところに留まっていた。

けれど、それを遮る人間が、ひとり。

「なんであんた、ここにいるの」

とっさに彼を背に隠して、前に立つ。夕焼けの 煌々とした光を一身に受ける男に、とびきりの睥睨を投げてやると、そいつは振り返って、心底可笑しそうに片方の頬だけをくいっと上げた。

「そりゃこっちの台詞だ」

背後に夕焼けを背負った男は、やはり よく見知った顔だった。溜まり場としている酒場が同じということがあって 最近それなりに仲を保っている新米ギルドのひとりに、この男はいた。どういうわけか、「天を射る矢」と交流があったり、次期副皇帝や天才魔導師が訪ねてきたりと 注目と噂の絶えないギルドである。仲良くしといて損はない、という首領の見解で交流を持っているものの、酒場での相席、協力依頼、ついそこの道端、この男は会うたびにからかいを掛けてくるのだ。後ずさって、眉を顰める。男の顔色は変わらない。

「随分いなかったな。旅行か?」
「そんなところよ」
「気楽なこって」

目角をたてて、腕を胸の前で組んで見せても 男は楽しそうに笑ったまま。揶揄をするように同じような仕草で腕を組む。私とこの男。鏡で見れば、私が背伸びをする子供のように見えるのだろう。苛立たしさがぐつぐつとお腹を蝕むのを感じる。背中に隠す彼の存在に焦燥も混じって、なんだか気持ち悪い。
ちらり、と、後ろを見やる。酒場へ続く階段を潜めた扉が佇んでいた。
「明日、また来るってことじゃだめ?」首筋に顎を付けるようにして後ろを向いて、小さな声で彼に問いかける。雨が降る兆候もないし、誰かがいたんじゃ台無しの気分だ。
彼はきょとんとまるめた目を瞬かせて「いいですよ」と頷いた。

「夕日、見ねえのか?」
「あなたがいたんじゃ最悪の気分」
「嫌われたもんだな」

男は さしても気にしていない仕草で、腰位まであった塀から離れた。そうして、ずんずんと私たちの方へ歩いてくる。出るのだろうか。扉のドアノブを掴んだままの私は訝しげにその足取りを見守っていた。男が私たちの真横、扉の目の前に来る。

「そんで」

とたん。男が私の後ろに手を伸ばして、なにかを掴む。驚いて、それを目で追って、心臓が飛び上がった。少々乱暴に見える手は、彼の細い腕をつかんでいたのだ。ちょっと。そう叫びかけた私を遮るように、まっすぐ彼の目を見て 男は言った。

「次期皇帝さまがこんなところでなにしてんだ」


*


青い晴天の下。視界が大木と 踊る花びらに包まれていく。

「待ち合わせはここなのね」

視線を戻してそう尋ねると、彼もまた、私のほうへ視線を戻して「ええ」と小さく微笑んだ。騎士団長との待ち合わせ場所らしい、ハルルの木の下。先ほどまで平民の格好をしていたのに、今ではすっかり 皇帝宛らの衣服へと早変わりを果たしている。なるほど、通りで気品の滲む笑い方が似合うわけだ。頬についた花びらを掌で拭いながら、ひとりで納得する。思えば、最初から 可笑しかったのだ。平民が送ったにしては、あの鳩は毛並みもその色も整いすぎていた。首領の様子もおかしかった。街を巡り歩いたとき、彼の瞳はあんまりに無知だった。どうして気づかなかったのだろう。

「恨んでいますか」

彼が、おもむろにそう呟く。呟くような声量だったのだ。摘まんだ花びらに向いていた顔を すこし上げて、彼に会わせる。いつの間に持ち上がっていた私の頬が、ゆっくりと降りていく。

「どうして」
「騙していたでしょう。ずっと」
「そうね。本当に平民だとばっかり思ってた」
「…すいません」
「謝らないでよ。こっちが気まずくなる」

口を拗ねらせて不満を垂れると、彼は俯いて、薄く開いたその唇がなにも言えないままにされた。私は目を見開いてぴったり固まる。海に居る時でさえ、彼のこんな顔は見れなかった。なのに、今はどうだ。こんなにも容易く見れてしまう。

「騙さなきゃいけなかったんでしょう」

慌てて言った筈の言葉は、存外にも落ち着きを払って、艾艾を吹き飛ばした。それでも彼は顔を上げない。
困ったな。頭を悩ませて、私ははっと 思い出した。旅の途中でも、宿のなかでも、野宿の準備をしていたときでも、なにより私が気になって、聞きたかったこと。

「ね、家出旅、楽しかった?」
「家出?」
「家出でしょう。脱走してきたんだから」
「ああ、そういえば…そうですね、そうとも言えますね」

納得した口ぶりの後、ふと頭をあげた目と私の瞳がかち合う。ぱっちりと開いた彼の目が、ぱちぱちと瞬きをした後 ふっと吹き出すように笑って、ほそまった。

「とても、楽しかったですよ」
「また行きたい?」
「ええ、できるなら」
「そう!なら、また行きましょう」
「ええ?」

冗談だと思っているのか、彼はくすくす笑うまま、首を小さく傾げる。けれど、私は大真面目だ。彼が行きたいと思ってくれるなら、また行きたい。ノードポリカの壮大な花火。海の見えるエミフドの丘。光に恵まれたシャイコス遺跡。彼が正体を現してくれたダングレストのあの場所からの景色も、またふたりで見たいのだ。今度は、隠し事など挟まずに。

「そのときは、また連れて行ってくれますか?」
「もちろん!私でよければ、だけど」
「あなたがいいんです」
「そうなの?」
「あなたが見せてくれる世界は美しいから」

はた、と、私のはしゃぎようが止まる。何故だか、とてもすごいことを言われた気がするのだ。綺麗なガラス瓶にたったひとつ なによりきれいな星だけを入れて渡されたような。(私はその価値をわかっていないけど)(彼は充分に解って、それでも渡してくれたような) 彼のその柔らかい笑みが、やけに大人びて見える。
思えば、彼は私と出会う前 どんな思いをしてきたのだろう。ふとそう思った。

「約束しましょう。また連れていく約束」
「指切り、ですか?」
「うん、そう。したことある?」

楽しそうに笑う彼が、また冗談だと思っているんじゃないだろうか。私は不安になって、俯くより前に重ね合わせた小指をすこし強く握ってみた。
後ろの坂道から、がしゃがしゃと煩い足音が上がってくる。

「針千本なんて飲めませんよ」
「いいよ、飲まなくて」
「いいんですか?」
「その代わり、浚いに行ったときは きちんと浚われてね」
「いいですよ」

 

(120504)

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サンタモニカで待ってるね
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