バッツがいずれかの戦いでカオス側にいたらというif話






記憶のなかで、臆病者と呼ばれる彼女がいた。

それは記憶と言っていいのかわからないもので、ただ夢のなかに出てくるのだから記憶なのだろうか と決めかねている、すり減った妄言みたいなものだった。夢のなかに現れる彼女は、たしかに臆病者と呼ばれるのにふさわしい人間だった。ちょっとしたことにも怖がり、大きなことには殊更縮み上がる。しりごみをする。物事の踏ん切りが上手くつけられない。決断することができない。そのことに対して、不安がある。人を気遣っているふりをしている。そのくせ、本当は自分のことを望んでいる。自分の望みをかなえたがっている。隠し切れずに、それが表に出ている。そこだけが、すこうしだけ色が違うように。まるで、わざと斑を残したように。言い出さないのは、嫌われることをおそれているからだ。腰抜け。意気地なし。よわむし。どれもこれもがひとつになって、それは呼ばれる。臆病者。それは、彼女によく似合う呼称だった。


Let's tell an old story.



「コンパスににているね、あれ」
人差し指が、星がぽっつり浮かぶ黒を差していた。うつらうつらになっていた意識を、一時だけはっとさせて、こちらに目を向けたであろう彼女に顔を向ける。案の定、楽しそうな 子供が遊びをしている最中のような顔を、無意識に浮かべる笑みを、彼女はもっていた。「ああ」と、てきとうに返事をして、またうつらと瞼に舟をこがせる。ゆったり。ゆったり。彼女は笑い声をあげた。困った顔をしているのだろうと すぐにわかる声だった。彼女は わかりやすい。彼女自身が解ってほしいと思っているのか、無意識なのか、どちらにしろ、どこかしらに本音が出ている。口の緩み。唇を噛み締めているとき。下瞼がひきつるとき。声がからからと乾いているとき。手が、震えているとき。捉え方を変えればたちが悪いが、この上ない というほどではない。中途半端な距離。曖昧な距離。気まぐれに首を曲げて夜を見上げる。彼女の指がかぶさる星の屈折は、たしかに いつだったか教えてくれたコンパスとやらに見えなくもなかった。
あくびをする。顎が大きく広げられて、口のなかに 酸素を取り込もうとする。あくびとは ねむたいとき、足りなくなった酸素を取り込もうとして行う行為らしい。なら、俺はまだ寝たくはないのだろうか。ふかふかとしたあの布が恋しいか といわれれば、即答で二文字に頷きをつけて返す。いまは そんなものはない。硬い地面と、灯りにならない星と、かたい目を持った彼女がいるだけだ。
「バッツ眠たいの?」
「ねむい」
「そっか」
「うん」
「…ねる?」
「まだいる」
「そっか」
ふたつめの「そっか」という声が、すこし高くなっていたことに 彼女は気づいているのだろうか。そう考えて、問いかけようとして、やめた。彼女は再び首を曲げて 俺のほうを見ていなかったからだ。目をぴんと張っている横顔がやけにあかるく見える。いま口を動かせば、頬がやわらかく動いて、舌もやわらかく するすると やわらかい言葉を紡ぐんだろう。機嫌が良い。そういう顔だ。後ろに背中をたおして 同じように空を見ようとも思ったが、やっぱり やめた。硬い地面で背中を痛めるより、なにもせずにいたほうが よっぽどいい。退屈になったら、ここで寝てしまえばいい。彼女のことなんか放って、夢のなかに旅立てばいい。眠たくないから 寝転がらないのと同じように、退屈だから彼女といる。俺のなかでの彼女は そんなものだ。もちろん、彼女にとっての俺は そんなものではないのだが。


To become happy, you are always alive in this talk.



皇帝の格好はよく目に付く。例えば、人ごみのなかを 高台に上って見下ろせば すぐに見つけられる。それは人気の少ないところでも同じことで、だから それはすぐに見つかった。皇帝。と頭が呟いたすぐ後に、「あ」と気づく。
彼女だ。
「自分がなにをしているのか、わかっていないわけではないだろう」
「…」
「それは、肯定か?それとも言い訳でも考えているのか?」
「…」
「…またこんなことをすれば、そのときは…わかっているな」
「……はい」
今にも舌打ちをしそうなくらい顔を潜めて、皇帝はどこかへ歩いていく。しなかったのは、元々変な品がついている頭があるからだろう。かつかつと、これまた目立つ靴音は 遠ざかることを明々に告げていた。こわいこわい と 内心肩をすくめながら、彼女の元へいく。コスモスの気配はないし、なにより暇だから。
「また怒られたのか?」
さもいま来たような声かけをすると、彼女はゆうるり顔をあげた。「バッ ツ」彼女はひどい顔色をしていた。右手で左手の親指以外をつよく握り締めて、赤く はれたようになっていた。彼女はしばらく、どうして、なんて思っているようにぼんやり、だけどしっかり俺を見て 再びうつむいた。それらが一連の作業のように見えて、いつもの流れだな とぼんやりおもう。震えた声。垂れる髪の毛が表情を覆って、口が引き結ばれている。悔しそうに。かなしそうに。圧迫に耐えているように。
「逃がしちゃったの」
「うん」
「コスモスのひと」
「みたいだな」
「おこらない?」
「責めて欲しいのか?」
「…」
すこしだけあげた顔が、また下げられる。それと同じに、うすく開いていた口が また結ばれて、髪の隙間から見える目が 辛そうな色をしている。首を立てにふって 頷く、 二文字を声にする、うつむいて 黙りこむ。彼女の肯定は 大体このみっつに定められていた。そして 彼女は大体の肯定を黙ることで済ませていた。時折り空気だけが通ったような、掠れるような声が聞こえて、そのときはうつむいていることが多かった。彼女はほとんどのカオスの軍勢に呆れられていた。ある者は苛々すると顔を潜め、ある者は慰めるように叱咤をしてその髪をなでた。俺はどちらでもなかった。彼女がコスモスの人間を逃がそうとどうでもいいし、どのみちこの戦いだってこちらが勝つのだ。すこしくらいイレギュラーがあってもいいだろう。それは無関心に近かった。だからこそ、彼女は俺に近づいたのかもしれないが。それはすがることによく似ている。
「大体、コスモス側は敵なんだから ばったり会ったらさっさと殺しちゃえばいいんだよ」
「だって、人間じゃない」
「誰が?」
「コスモスの人たちも、みんな」
「そうだな」
「わかっていて 殺してるの?」
「ああ」
それまで伏せていた彼女の目は信じられないとでも言うように大きく開かれた。俺はカオスで、普通にコスモスの奴らを殺すし、それが人間だということもよくよく理解していた。突き刺したときに出る血は例外なく赤かったし、力なくもたれかかった体は死体の重さを明瞭に表していることなどを幾度も経験していた。彼女はむしろ、カオス軍のなかでは珍しい 異質な人間だった。カオス同士で戦うこともある。カオスの奴らは全員仲間意識など持っていないし、持とうともしなかった。常識とは逸脱している。思えば、戦いが始まり それを知ったときの彼女の顔は丁度いまのようなものだ。自分が当たり前だと思っていたことを根本から否定されたような、そんな顔。表情。
「だからなんだ。自分の敵だから殺すんだ。邪魔だから。当たり前なんだよ、それが」
「当たり前じゃないよ、そんなの」
「俺のなかでは当たり前だよ」
口端を吊り上げる。彼女は怯えるような、懇願するような、そんな目をしている。顔色をどんどん悪くさせて 今にも後ずさりをしようとするように両手はお互いを握り締めている。お前のその顔、結構好きだよ。そういったらどうなるのだろうと考えると、さらに頬が持ち上がった。目は細くならずに、ただじっと彼女を捕らえる。こわいだろう、おそろしいだろう、なあこれからどうしようか?考えれば考えるだけ、頭はけらけらと笑った。前に一度、彼女の手首を思いっきり掴んだことがあった。白皙のそれには、縄で絞められたときよりも痛々しい跡がついた。それでも彼女は俺についてくる。きっと俺以外のところにいくのが怖いのだ。そういう面で、彼女の臆病なところは嫌いではなかった。


Calm nostalgic day



どんなことを言っても、ひとつの夜を抜けてしまうと 彼女は俺の元へ駆け寄った。廃虚と化した神殿を歩く途中、月がよく見える峡谷のなか。あるときは敵と遭遇した後に、あるときはただなんとなく歩いていたときに、「バッツ」と、彼女は弾んだ声で俺を呼ぶのだ。振り返ると、やけに楽しそうな、さながら恋人に会った女のように顔をほころばせている 彼女。「あれ、見ない?一緒に」あれ、とは 大抵夜を縁取った空を指していた。正確に言うなら、そのなかにある星を 彼女は一等好いていた。そして、俺は大抵「ああ」と頷いた。
「怖くないのか?」
星がよく見えるのは月の峡谷で、それに連なるように 彼女はそこを好んでいた。なぜ、と聞けば「だってきれいだもの」と、彼女は微笑んで答えた。そのきれいは何に向けているのか。星か、この場所か。眠たかったのか、なんなのか、聞いたとき、そこまでは問い詰めなかったことを悔いるように覚えている。
「こわい?」彼女は首をひねる。見当もつかない と表すように、言葉そのものを理解していないというように。「俺が、」怖くないのか。彼女は瞳を目の縁から浮かせてまるくした。それは彼女が心底驚いたときの顔だった。「どうして?」言わずともそう言っているということが解る言葉を口にして、彼女は俺をみる。まっすぐ、というには真摯以外に感情がある。じっと というにはなにか違う。まるで その両目に俺を収めようとするように。「どうしてそんなことを聞くの?」肯定のような、否定のような、そんな言葉だった。どちらの意味を持っているのか、俺にはわからなかった。ついでに、自分がどうしてそんなことを聞いたのかも あまり理解していなかった。
数秒の間、唸るように考えて、口にする。「言われたんだよ、お前はおかしいって」「おかしい?」彼女はぴくりと眉を潜ませて首を傾げる。悩んでいるときに見せる表情にしては珍しい、怒りが混じるような顔。俺は以前、クジャに言われたときのことを思い出した。「きみはわからない奴だよね」あいつは最初にそう言ったんだ。「思い込んだら一直線。自分が理不尽だと思ったことには黙っていられない。それから、どんな苦境に放り込まれても楽しんでいる」「それってとても危ういことだと思うんだ」危うい?「そう、危うい」あいつはそう言って、結局なにが危ういのかは言わなかった。ただ、それはおかしいことだと  は言った。「あやうい?」声が聞こえて、思い出すために宙に向かっていた目をそれに向ける。彼女はきょとんと目をひらき、口が半開きにもなりそうな顔をして俺を見ていた。ちょっとした不意をつかれた表情だった。「バッツが?」彼女の顔は、重厚に積み重なった定義を幼稚な考えによって砕かれたと知らされたような、そんな声を、目を、口をしていた。「ああ」とうなずくと「なにが危ういの?」と、首を傾げる。それは俺もわからないことだった。「わからない」ただ。ひとつだけ 確信したように思ったことがある。
「ただ?」
「お前のほうがよっぽど危うく見える」