A very pure invader ended my calm.



彼女の武器は剣だった。それが鞘から抜かれることはあったし、その柄は力を込めて握る彼女の手の形にあとがついていた。ただ、その刀身はさほど血に濡れてはいなかった。特に、死んだ者の血は。
「おい」
「…」
「おいってば」
「…」
「なあ、返事しろよ」
べっこりと輪郭が浮き出ているように見える肩を掴み、体をゆする。彼女の顔はところどころ割れ目がある城の床をへ向いていて、髪はそこへと重力を傾けていた。右手はからんと置かれる剣の柄を握り、左手はその刀身を押さえつけるようにして床へ張り付いている。握るといっても そこに力はなく、押さえつけるといっても その手のひらは刀身についた血で汚れていた。
「聞いてる?」いいながら、柄を握る右手を持ち上げる。だらんと肘が曲がって、すこしだけ持ち上がった剣が からん と落ちるころ、うすい空気を吸う音。「ころした」 彼女は そう呟く。この世の終わりみたいに。死ぬ直前の人みたいに。肯定しかできない言葉をはく。
「ころしたの」
「ああ」
「人を」
「コスモスの戦士を?」
「人を、」
人をころしたの。頑固というにはあまりにも弱弱しい声で、彼女は言う。俺がなんと「コスモスの戦士だ」と言っても、彼女は人だと言うのだろう。彼女が持つ剣や、その服に掛かる赤を見れば、それは明白なことだった。そして、それはカオスの戦士にとっても、コスモスの戦士にとっても、それは当たり前のことだ。戦って、どちらかが消えるまで戦う。それ以外に戦いを終わらせる方法はなく、もしかしたらそれでも終わらない。しかし、この世界は戦うために作り上げられていた。その息を止めたからといって、肉体が残るわけではない。どういう仕組みなのかは知らないが、体は溶けるように空気へ消えて、なくなる。光となってなくなるのはコスモス。闇となって消えるのはカオス。消える際に空気へと還元するそれは違うが、体がなくなることは同じだった。精神的には、死体が転がるより辛くはない。なのに、彼女はそれと同じようになっていた。落ち込んだのではない。彼女の様子は、そんな言葉で片付けられるようなものではなかった。
「血がひどい はやく着替えろ。くさいから」
「…」
「傷も治せよ」
「いや」
「死にたいのか?」
「もういやだ」
「なあ、聞けよ」
「戦いなんてしたくない。もういやだ。いや。いやなの。いや」
駄々を捏ねる子供によく似る姿だ。ため息をついて、頭にまるごと掴むように手を置く。スリプルの呪文を唱えると、体が前へ倒れこむ前に支える。彼女には死体のような重さがあった。力が入っていないからだろう。面倒だ そう思いながら、膝の裏に腕を通す。肩も同じように持ってやれば、幾分か軽いとさえ思えた。ここに放置してもいいが、後々文句を言われるのは彼女とよく行動をしている俺だ。
「おやぁ?こぉんなところでどうしたんですかぁ?」
女が媚を売るような声が聞こえて、足を止める。振り向くと、そこには背景へは溶け込めない派手な姿があった。にんまりと 自然と笑うように描かれた紫のペイントは更にゆがみ、真白な白地の肌に載る明るめのペイントは気味悪さを増幅させていた。なんだ、うざいケフカか。
「相変わらず失礼な奴ですねえあなたは」
「嘘をついても仕方ないしな」
「あなたよりはましだと思うんですけどねえ」
「はは、そっか。で、用件はそれだけか?」
さっさと切り上げて、彼女を着替えさせなきゃならない。血の匂いも嫌いではないが、服について取れなくなるのはごめんだった。いつでも足を進めるよう、なるべく顔だけを後ろに向けるようにしてケフカをみる。相変わらず殴りたくなる顔だと思った。魔法のバリエーションは豊富でものまねには退屈しないが、この男の言うことにはろくなことがない。例えばいまみたいな 心底楽しそうな笑顔のときは特にそうだ。
「その女の子の記憶、消してあげればいいのに」
「記憶を?俺にそんな力はないって」
「まったまたぁ!見え透いた嘘ついちゃって!」
「嘘って決め付けるのはよくないと思うぞ」
「だって君でしょう?戦いが終わる度そのこから戦いの記憶を消してあげてるの」
無意識に喉がつまった。声がぐうっと息詰まって、口を結ぶ。変わりに、冷えた目を投げてやった。もちろん、それくらいで黙るような奴ではない。剣を作り出したかったが、できなかった。両手は彼女でうまっていた。
「やさしいなあ、いっつもいっつもその女の子に構ってあげて。好きなんだねえホントに」
「お前、妄想壁でもあるのか?俺が好きになるわけないだろ、こんな女」
「とか言っちゃって、僕ちんしってるんだよ?君がそのこの先回りして敵を蹴散らしてること」
「本当に減らず口だなあ、きってやろっか?」
彼女をすぐそばの床に放り投げ、剣を作り出すと ケフカは「やだあ!こわぁい」と思っても居ないことをやけに肩をすくめ、大仰に笑うようにいって見せた。不快だった。例えば、皇帝は自分勝手で面倒なところもあるが こいつに比べたらまだましだろうと俺は思っていた。気分によって行動をし、飄々よりもひどい態度を貼り付ける。怒るとさらに面倒で、しつこくしつこく 粘着質に追いかけ回し、むごいやり方で事を終わらせる。実力が伴っているから、また厄介。ケフカは そういう奴だった。混じり合うことがない、ただの他人。あるときには敵にもなる、同じ陣営の人間だった。
「でもさぁ、いいの?ここで戦ったら、そのこにも絶対被害がいくと思うんだけど」
「そんなの関係ないだろ」
「あ!もしかして、魔法壁でも張ってるとか?やっさしいねえ本当に!反吐がでちゃいそう!」
「うるさい」
握っていた剣を思い切り投げる。コスモスの陣営にいた奴の剣だ。名前は知らないが、武器をたくさん持っていたはずだと思い出す。ケフカはひょいと軽く首を傾けて剣をよけていた。「そんなバッツくんにいーぃこと、教えてあげる」紫の唇がぐにゃりといびつに頬を曲げる。喜んでいるのではない。怒りと言えばいいのか。しかしそう言っても、ただそこに怒りという言葉があるからそこに当てはめているだけに思える表情だった。
「その子さぁ、消されると思うよ?そろそろ」
ケフカの予測の言葉はわかりきっていることだった。俺にとっても、そして他のカオスの奴らにとっても、それは安易に考えられることだった。彼女はコスモスを助けていることになるのだから、カオスがそのことを黙認するはずがないのだ。しかし、「こいつはひとり、やったじゃないか。今日」彼女がひとり、コスモスの戦士を消したことは明確だった。それは彼女が着用している衣服からも、彼女の様子からもわかることだった。「解ってないなあ」ケフカは言った。口端の変形を上にある頬ではなく、下にある顎へ向けながら。「どの戦いでもいちいち戸惑ってる駒を、カオスが置いとく理由がないって話だよ」「おわかり?」息を吸おうとした。それより前に、腕が宙を切っていた。手にあった剣はケフカの真横を通り過ぎた。よけられたのだ。「まぁ?前みたいなことをしなかったら 今回も生き延びれるんじゃないの?」「…」「キミが頑張ったところでさぁ、意味無いんだって。わかってるでしょ?」「うるさい」声を出す。目の前で爆発が起こる。手からは ぱちぱちと魔力の残りがはじけている感触がした。煙がはれると、そこは爆発による床のへこみがあるだけで 残骸や衣服の切れ端などは全くなかった。後ろに気を張っても、前を凝視しても、左右に眼を向けても、神殿に溶け込めないあの派手な恰好はなかった。逃げられたのだ。そう気付く頃には、すでに口は舌をうっていて、その音は響きもせずに消えた。


It was to have been repeated.



「ああ、丁度いいところにきたねバッツ。手伝ってくれ」
ひとり取り逃がしてしまったんだ。クジャはそう言って 土埃や擦れた傷の付いた頬を手の甲で拭う。服はところどころ破れ、垣間見える肌には傷が付いているところもあった。「手間取ったのか」「ああ」「珍しい」率直な意見を言うと、くしゃりと嬉しそうには見えない醜い笑みを浮かべながら「そんなに褒めないでくれ」といった。皮肉を言うことは、クジャの癖のようなものだ。よく彼女にも言って、彼女はそれを冗談に取らずに顔を伏せたものだった。そのときのクジャの顔は 彼女と同じくらい辛そうにしていたのだが、目を伏せている彼女がそのことを知る由もない。「ひとり、取り逃がしてしまってね」クジャは辛いというよりも悔しいという感情を表に出していた。「ターバンを巻いている男だ。色んな武器を持ち合わせていて、それで 逃げた」逃げたんだよ。クジャは強調するようにその言葉を繰り返した。自分を正当化するように、言い訳をするように。俺はそのことについて責めるなんてことをするなど考えもしなかったが、そう言われると責めたくなった。しかし、その前にクジャがこちらを向き、目を合わせてきた。「僕はこっち側を見るから、きみはあっち側を見てきてくれ」「わかった」「逃がすなよ」「わかってるさ」あいつじゃないんだから。歪んでいた口元でこの場にいない彼女に皮肉を飛ばす。「嫌なやつだね」クジャはそう言って、右に差した自分の指の通りに消えた。すぐに行ってしまったから どんな顔をしていたのかは見えなかったが、それがなんとなく予想ができて、俺は口端を釣り上げる。やさしい奴め。
ターバンを巻いている男。色々な武器を持っているコスモスの駒。少ないと文句を言われていいかもしれないそのふたつの特徴で、俺はなんとなくその全体図を描き出していた。単純に、それが前に逃がしてやった奴だからだ。歩きながら、鋭く強い、堅実とした意思が目にありありと映っている男だったことを思い出す。逃げたのを追わなかったのは ただの気まぐれだった。ただあんまりにその強い目で睨んでくるものだから、ひどい吐き気に見舞われて、そのまま帰ってやっただけだ。(それはまるで侵食されるように)(どうしようもなく惹かれるように)
まさか、また会うなんてなあ。楽しくなった拍子に頬を持ち上げて、自分は今 相当悪い人相をしているんだろうと予想する。会ったら、「また会ったな」とでも言ってやろうか。今度こそは逃がしはしない。ケフカの真似事をして 辺りをいっぺんに爆発させてやろうか。それともあいつが使っているひとつの武器を使って腹を突き刺してやろうか。指を弾いて音を鳴らすように剣を作り出し、すぐに変えていく。剣、ブーメラン、弓矢、ナイフ、杖。どれもこれもが相応しいものと思い違う気分だ。鼻歌でも口ずさもうかと思ったが、流れるのは闇の呪文としか考えられなかった。
怯えるのだろうか、と考えたとき ふ、と 頭のなかで彼女が思い出された。怯えた目。引き結んだ口元。あんまりに悪い顔色。死んだように眠ったあの彼女の姿をしばらく見ていないことに気づいた。いつもは駆け寄ってくる足音も 星を見ようとせがむ微笑みも 恐怖を我慢している表情も あの日以来見ていない。ゴルベーザが言うに 彼女はあの日からずっと部屋に閉じこもっているらしい。食事もとらず、無理やりこじ開けようとすれば魔法で作られた防御壁が力を弾き飛ばす。ゴルベーザは無理強いをするほどの厳しさを持ち合わせず、周りの人間は彼女にそこまでの時間を割きはしなかった。
これが終わったら、久々に部屋へ行ってみようか。彼女の掛ける防御壁はすこし力を入れれば壊れるだろうし、なによりどんな顔をするのか興味が沸く。考えるほど、足取りは自然と速くなっていく。彼女の顔、目、口、仕草、感情。しばらく見ていないそれらを 輪郭をなぞるように思い出していたときだった。壁にぶつかって遮られているかすかな声が耳に入った。
「一緒に行こう」
それは近くにある岩陰からこぼれていた。近寄りながら聞こえた男の声は、さながらどこかのキザな恋人劇場のようだった。真摯を大いに含んだ言葉は聞いている者の胸に苦しさをくすぐったさを育み、俺は笑い声を抑えるのに必死でいた。それは探している人物の声とぴったり一致していたから、ということも理由としてあげられる。首をのぞかせてみると、その確信は確実な正解に変わった。それでも口端は頬を持ち上げず、胸の裏側もぴっしりと硬直し、目は瞬きを許さなくなった。あ。という声も出せず、ただ見つめることしかできなくなったように、目はそれを映す。白い肌。ぱっちりと開かれている瞳。皮膚に隠れた瞼。吃驚とは別に 怯えをわずかに孕んでいるその顔は、何度認識を改めても彼女でしかなかった。
「私はカオスの駒だよ」
「コスモスのところに行けば大丈夫さ、きっと変えてくれる」
「コスモスの人たちに反発される」
「お前のことはみんな知ってる」
いつもとどめを刺さないカオス。いい奴だって言ってる仲間もいる。だから。
男は彼女の手を握り締めてまっすぐに彼女を見つめた。それは彼女が戦いのなか 誰にもされたことのないものだった。彼女はひどく狼狽し、その眼が今にも涙をこぼしてしまいそうな様子を、俺は驚くほど冷静な感情を持って見ていた。提案は、恐らく彼女にとって最善のものでしかなく、断る理由もない。殺すことをためらい、カオスというただの大きな権力者に見放されかけている彼女にとって、それはあんまりにも幸運な誘いだ。コスモスは戦うことを促しても、殺すようなことを強要したりはしないだろう。あれも同じように、神などではなく ただ大きな権力を持っているものとしか思えなかったが、いつかの戦いに見た調和の象徴は儚く、やさしいな存在をしていた。駒を戦士と呼び、仲睦まじく話し、娘や息子に接するようにしていた。彼女にお似合いの場所だ。もしも彼女が自分の意思でカオスに来たのだったら、なぜそこにいかなかったのかと首をかしげて問うくらいはすんなりとできてしまう。男が言うように、彼女はここにいるにはあまりに優しく、弱かった。仲間を持ちたいとも言っていた。うってつけだろう。本来なら裏切り者は始末をしなければならないのだが、これ以上記憶を消したりする面倒を考えると ここはすんなり見送ったほうがいいと頭は考え、俺は動くのをやめていた。ただじっと息を肺に押し込め、体を動かさず、岩陰で行われているふたりの言動を見ていた。
「駄目よ」
彼女は首を横にふった。拒否を示す行為だった。「 どうして、」男は目を見開き、俺の頭のなかでも反響した言葉を茫然とした様子で口にしていた。はくはくと男の口が言葉を出そうとしているのを見ながら、自分の目が大きく開かれているのを、俺は自覚していた。「どうして」ここにいたって、お前は死ぬだけだろう。なのにどうして。
今にも迫っている自分の終わりのことに、彼女は微笑んだ。すこしばかり血色の悪い肌を持つ頬はするすると持ち上げられ、決して主張を押し切ろうとするようではない、優麗なそれは なにかを慈しむものだった。「だって バッツがいないもの」「バッツ?」素っ頓狂な声がこそこそと話していた空間を叩く。男は驚いていた。それは俺も同じだった。俺?
「あいつはひどい奴じゃないか」彼女の手が強く握られる。それは彼女がつけている手袋の皺でわかるが、どんなに彼女の目を見ても彼女の真意はわからない。その目が俺に向いていないからとか、そういう理由ではないだろう。「うん、ひどいひとだよ」強い力を加えられているはずなのに、彼女は痛がるようなそぶりを見せない。ぱっちりと開いている目はまっすぐと、スポットライトに当てられているように映えている。その心は、きっとその目を真正面から見詰めても、いまの俺にはわからないものだ。

「あの人はとてもひどい人だけど、本当はとてもやさしくて、純真で 危うい人なの。わたし、あの人が愛しいのよ。とても」


Damaged eyes were extremely feared.



手が皮膚に食い込む。出っ張った喉の筋がひくりと動き、薄く開いた彼女の口がなにかを紡ごうとする。「   」バッツ。彼女の唇がそう動くのを俺は見ていた。頭の思考はひんやりと凍った部分と はやくと急かす部分でくっきりと分かれている。彼女の顔は赤くなっているのかはよく見て取れたが、その言葉の続きがどんなものなのか うまく考えられない。無闇に込めた手の力は彼女の気管を閉じ、酸素を取り込むことに苦労を強いているのは明らかだ。その証拠のように薄くしか開かない目は霞み、赤をべっとりと付けた俺の腕を持つ手の力は弱弱しい。反対に、俺の赤い手はあんまりに強く、目はぎらぎらという具合に大きく開かれているんだろう。頭が沸いているようなあつさを持つ。「いとしい?」それはなんだ。目や 腕や 顔がばらばらになっても言えるのか。声が他人のものとなってもそう言えるのか。頭が誰かと入れ替わったらどうなんだ。なあ。なんでそんなこと思ったんだよ
「バッ ツ」
彼女が声を出す。うすく開いた口がうごく。なにかを紡ごうとする。予想が目から脳に伝わったとたん、心臓は心底嫌だと訴えた。彼女の声を止めなければ。気持ちが急いて、また力を入れて、指が爪もまとめて皮膚に食い込んでいる。ぶつり、と 爪の一部が彼女の皮膚をすこしばかり切ったのを感じたが、彼女の血がどれなのか見分けがつかなかった。「うらぎりもの」口が一言ひとことを丁寧に、冷徹につなぐ。彼女の目が大きく開かれ、めいいっぱい俺を映している。臆病者、お前は裏切ったんだ。
彼女の腕がゆったりと動きだす。それは俺のほうに向かってくるようだった。予想の範囲外の行動は、思考から冷静を抉って 熱い息とともに持ち出す。なにも構わない力が、折るように彼女の首をへこませる。しゃっくりをあげるように喉がうごいた。俺をおさめている目がゆうるりとぶれていき、それは彼女の限界を映しているとも思えた。
来るなと願った彼女の手は俺の顔の真横で止まって、瞬きだけ俺の頬に触れて、力を失う。ゆっくりと 指を離す。大きく開いていた目は、いつのまにか 諦めたように閉じられていた。




I did to you it cruel.





「バッツ」
ぱっと瞼が開かれた瞬間は、乗せられていた顎が手からすりおちたときに酷似している。ぱちっと瞼が上がっていった目を声が聞こえた隣に向けると、そこには首をかしげた彼女がいた。彼女の目はころころと大きく開き、そこには眠気など一切ないように思える。反対に、俺の体は頭からどんどんと倦怠感の命令が送られて 怠惰を促していた。体は重く、どこもかしこも夢を結びたいと訴えていたが、心臓と頭の端だけは否定をしている。胸の裏側はうるさかった。妙に興奮しているように波をうち、だんだんと体の覚醒を促していく。ながい夢を見た気がする。それもあまりよくない、不幸な夢を。しかし、そういう時に限って記憶力は働かない。大抵がそうであるように例外なく、今回もなにを見ていたかはすっかり忘れていた。頭の隅にはそのわだかまりがしこりのように残り、必死になんだったかを思い出そうとして、やめている。あんまりによくないことだから、思い出さない方がいいよ。そう誰かが言っているようだ。
「眠たいの?」
「んー…、だいじょうぶ」
「ほんとうに?」
そうは見えないけどなあ。くすくすと笑う彼女の肩に寄りかかりながら、気だるさを残した声で同じように笑う。しばらく閉じられていたからか、口のなかはやけにあたたかい気がする。夜風に当てられた彼女の肩は冷たい。ガウンでも持ってくればよかったかなあ。でもそんなことをすれば俺はこってり寝てしまうだろうから、持ってこなくて正解かもしれない。それに、くっ付いていれば暖かくなるだろうから。
「私の話、きいてた?」
「もちろん」
「では、あの星はなんという名前でしょう」
「コンパス」
「ペガサスだよ」
「あれ、」
おかしいな。そう言うような具合に首をわざとらしく横に倒してみせる。ころころとくすぐったそうに声を出した彼女の口は、そのまますらすらと 何年も親しんだ子供の名前を言うかのように言葉をつないだ。「あれは孔雀、ずっと上にあるのがオリオン。おとめ座、牛座、やぎ座。あれはコンパスに似てるね、って」「そう話したんだよ」肘と人差し指をまっすぐ伸ばした手の付いた腕を持ち上げ、彼女は微笑む。思えば、そんなことを話していた気がする。そう思うと、どうしてか すこし前にそのことを思い出していたような気さえしてくるものだから 不思議なものだ。「そういえば、そうだったな」頷くと、それは疑問など関係なく真実として思考のなかに取り込まれる。それからすぐに 開いたままの唇が言葉をひとつ紡いだ。「ごめん」頭の隅がなにかを思い出す。それと同時に 記憶する暇もなく消えていく。「ごめんな」ただひどく、理由も思い出せないのに後悔していることは確かだ。
「どうしたの、バッツ」
「なにが?」
「だってバッツ 泣いてるよ」
星の光を集めるように指していた彼女の指が頬に持っていかれる。なにかあったの?いやなこと?彼女が聞いてくれるのを不思議に思うと、俺はようやく彼女の指があついこと、自分の頬が冷たいことに気がついた。泣いているのだ。あわてて拭おうとしても、どんなに目をこすっても、それは止まらない。むしろそうすることによって涙腺を壊していっているみたいに流れ続ける。
「私 怒ってないよ」彼女の声が頭の上で聞こえる。抱きしめられている。「だからそんなに気負わないで」「もういいんだよ」気づいたときには、もう目からあふれる水を止まらせようとすることは諦めていた。どうして泣いているのか、よくわからなかった。
「   」聞こえるかもわからない声で彼女の名前を口にする。「なあに」と、俺をやさしく抱きしめる彼女は答えた。
「俺、なんで泣いてるかわからない」
「うん」
「ただ、」
「ただ?」
「いますごく幸せなんだ」



(1100610)

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