竈に火を入れる



 火だ。火を起こさないと。火が無ければ死んでしまう。
 私は必死で両手の手のひらで挟み込んで持った木の棒と板を擦り合わせる。しかし父が同じことをすればあっという間におがくずから煙があがるのに、私がやっても一向になんの変化も訪れない。慣れない作業であることに加えて、もう何日も木の皮しか食べていないから手に力が入らないのだ。寒さと空腹で惨めに震える手を叱咤して火を起こそうとしても、非情な現実がつきつけられるのみだ。
 火がなければものが食べられない。庭の畑は雪に埋もれて作物なんて残っていない。木の皮はだめだ。唾液でふやかしてなんとか噛んで食べたようなつもりになってもまったくお腹は膨れないし、食べようとする顎の力でむしろ体力を消耗する。やはり火を起こして、米を炊かなければ。肉を焼いて食べなければ。
 父も母もこの冬が訪れる前に死んだ。人里離れた山の中で暮らす私は自分の力で冬を乗り越えなければならない。近隣の村に下りていくのは嫌だったのだ。母は他人にはない不思議な力を持っていて、そのせいで村の連中に気持ち悪がられて里を追われたと聞いている。母を迫害した連中に頼るなんて御免だ。
「……っ、はあ……はあ……」
 でも、そんな意地ももうすぐに張れなくなるかもしれない。いよいよ手に力が入らなくなって、火おこしの道具が手の中から滑り落ちる。暗く寒い小屋の中でお腹を空かして、一人ぼっちで私は死ぬのだろうか。ああ、でも、両親のもとへ行けるならそれも悪くない──
「……!」
 がらり、と扉が開く。この家を訪ねてくる者なんているわけがない。いるとしたら仏様の遣いだろうか。それにしては荒々しい扉の開け方だったけれど。
 おそるおそる振り向けば小屋の入口には、阿修羅様が立っていた。
「ハ……なんだ、こんなところで人の肉にありつけるとは珍しいと思ったが……小娘たった一人か」
 ぴしゃりと戸を閉めて我が物顔で家の中に入ってくるその人は、よく見たら阿修羅様ではなかった。三面六臂には顔と腕が足りない。異形の顔と、二対の腕。それでも、この寒さの中でも堂々と晒したその筋骨隆々とした身体は神々しく、私は圧倒されていた。
 私の目の前にしゃがみ込んだその人はむんずと私の頬を挟んで持ち、人の形と異形が半々ずつの目でまじまじと顔を覗き込んでくる。
「痩せこけている。これでは食いでが無いな」
「……え……あ……」
 わけがわからず呻く私からふいと視線を逸らし、彼は手元の火起こし道具を見て目を細めた。
「ククッ。手を赤くするほど必死になって──これが欲しかったのか?」
 彼が合わせた手のひらをゆっくりと開く。──火だ。手のひらの中に生まれ、そして広げられる炎。生きるためになにより必要だった、火。
「あ……ああ……」
 私は無意識に火に向かって手を伸ばした。あんなに頑張っても起こせなかった火を、彼がどうやっていとも容易く起こしてみせたのか、不思議ではあったけれど気にしている余裕はなかった。火だ。火があれば生きられる。木を擦り過ぎて痛いほど赤くなった手を火に伸ばして……近づきすぎて指先が燃えるほどに熱くなり、慌てて手を引っ込める。男は皮肉げにケヒッと笑い声を上げた。
 口角を上げた彼が手を翻すと、火はひとりでに泳ぐように竈の中へ飛び込んでいった。今まで湿気を吸い込むばかりだった薪が赤々と燃え上がり、穀物と水を入れた鍋を熱し始める。生命の灯たる赤い光と熱に、私はしばらく見惚れてぼんやりと呆けていた。
「おい、鍋の世話をしろ」
「えっ、あ、はっ、はい」
 地鳴りのような彼の声で我に返った私は慌てて火加減の調整をするために竈の前へとしゃがみ込んだ。後ろからまたクククッと笑い声が聞こえる。
 ぴしゃんと戸が閉まる音がした。振り向けば彼がいなくなっている。あまりにも呆気なくいなくなってしまったので、今のはお腹がすきすぎた私の幻覚だったのではないかと思った。けれども竈の火は勢いよく燃えている。いきなり家に入ってきて、瞬く間に火を灯していった異形の大きな人は、確かにいたのだ。
 鍋の中身の粥ができあがった頃、再び勢いよく扉が開いてまたあの大きな人が入ってきた。彼は広い肩に事切れた鹿を背負っている。
「この時期の鹿なぞ痩せてつまらんが、それでも飢えた小娘よりは肉がついている。さて貴様、獣は捌けるか?」
 目をぱちぱちさせて、そして首を横に振る私に、彼は露骨に顔を歪めて舌打ちをする。
「使えん」
 長い溜め息と共に鹿を土間に下ろした彼は指先で宙を薙ぐ仕草をする。すると五体満足だったはずの鹿の身体は次の瞬間には細かく切り刻まれて赤々とした肉の断片へと変わり果ててしまった。運んでくる前に血抜きは済ませてあったらしく、鹿の肉片や毛皮が散乱した土間は血だらけにはならずに済んでいる。
 一度ならず二度までも不思議な現象を起こしてみせたこの大きな人は、もしかすると母と同じく、他人には成せない特別なことができる力を持っているのかもしれない。
 彼は続いて土間の隅に置いてあった予備の薪を手に取る。彼の手の中で薪はバラリと縦に割れて何本もの細い串になった。
「それで適当に焼け」
「は、はい……」
 切り刻まれたばかりの肉を同じく作られたばかりの串に刺し、竈の火にかける。脂が溶け、肉が焼ける匂いを嗅いでいるとますますお腹がすいてきた。まだ父が元気だった頃はよく狩りに行って獣を獲ってきてくれて、それを焼いて家族揃って食べたものだった。そんな、もう失われた家族とのひとときの思い出も、火は私にもたらしてくれる。
 できた粥と焼けた肉を、板の間でごろりと横になっていた大きな人のところに持って行く。最初は父が食べていたのと同じくらいの量を運んだのだけれど「ふざけているのか」と凄まれたのが恐ろしくて、作った食事のほとんどすべてを彼に献上することになってしまった。
 恩人に食べ物を差し出すというよりもっと厳かな、神仏に供え物を持って行くような心地だった。彼は近寄りがたくて、共に食卓を囲うだなんてことは恐れ多くて、私は土間で隠れるように鍋の底の焦げた粥と肉の小片を口にした。あまりにも空腹で、椀に粥を盛りつけた時には足りないと思ったけれど、結果的には痩せ細った胃には少なめの食事がちょうどよかった。
 やがて満足したらしい彼はおもむろに立ち上がると戸口へ向かい、外へ出て行った。私のほうには見向きもしない。一人の人間というより背景のように扱われることへ、不思議と不満は覚えない。彼ほどの神々しいほどの威圧感を纏った人とちっぽけな小娘の私とでは格が違いすぎて、それも仕方のないことのように思えるからだ。
 鹿を獲ってきた時のように、彼はまた戻ってくるのだろうか。私は落ち着かない心地で鍋や椀を洗い、土間に散乱した獣の残骸を片付けた。お腹に食べ物が入ったおかげで力がみなぎり、仕事をこなすのに苦は感じない。
 けれども、日が落ちる時分になっても、彼が戻ってくることはなかった。次の日も、その次の日も、家の扉は開かない。もう彼が私の前に姿を現すことはないのだと悟った。
 彼はほんの一時の気まぐれに、食事のために私の前を通りかかったに過ぎなかった。それでもあの恐ろしく厳めしい不思議な人が私の命の恩人であったことには変わりなく、私は彼に灯してもらった竈の火を絶やさないように大切に守りながら日々を生き抜いていく。
 やがて冬は終わり、春が訪れる。雪は溶け、鳥は歌い、山は生命の伊吹に包まれる。
 竈の火はいまだ健在だ。命を繋ぐための火をもたらしてくれた、あの厳かな大きい人は、私にとってはなによりもありがたい神様のような存在になっていた。


2024/4/29

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