おやすみとおはよう



 ゆらゆら揺れる小さな火の明かりを頼りにして手元の布に針を通していく。もう外は真っ暗になったというのに私が針仕事をしているのは喧嘩っ早い同居人のせいだ。一くんが無茶をしてきたせいで彼の着物には穴が空いてしまっている。こんな有り様の着物を着せて外を歩かせては、ボロしか着られない貧乏人だと思われてしまう。一くん自身はそんなこと気にしなさそうだけれど、同居人をそんな目で見られるのは私が嫌なのだ。
 同居人……というのは私と一くんが正式な祝言を上げることのないままずるずると一緒に暮らしていることに対する皮肉として言い始めた呼称なのだけれど、当の一くんにこの皮肉がまったく響かないので単なる私たちの関係の呼び名として定着してしまっている。同じ家に暮らして日頃から寝食を共にし、男女としての交わりも持つ私たちは恋仲というより夫婦のほうが近いと思う。そうであってほしい。けれども一くんには祝言をあげる気はないし、たまにふらりと数日いなくなってしまうこともあるしで、ちゃんとした夫婦にはなれずいつまでも『同居人』のままだ。
「なあ、まだ終わんねぇのかよ」
 その一くんは敷いた布団にごろごろと寝そべったまま唇をへの字に曲げて私を睨みつけている。
「もうちょっとだよ」
「さっきからずっとそれ言ってるじゃねぇか」
「ほんとにちょっとだってば。待てなかったら先に寝ててよ」
「オマエは?」
「終わったらすぐ寝るから」
 言葉を交わしながらも着物の穴を塞ぐために針を通していく。数日いなくなったと思ったら着物をボロボロにして帰ってくることの多い一くんのせいで、決して元から器用だったわけではなかった私の裁縫の腕はめきめきと上達してしまった。今では穴を塞ぐくらい寝る前のほんのひと手間で片付く針仕事だ。
 けれど、一くんはそんなちょっとした作業も待ちきれなかったようで。
「そんなの明日でいいから寝ろっつってんだよ」
「わっ」
 急に肩から背中にかけてずしっと重みがのしかかってくる。一くんが後ろから覆いかぶさってきたのだ。彼が喋るたびに硬い顎が私の頭にぶつかってごりごりする。
「痛い痛い……っ、もう、急になにするの」
「オマエがいくら呼んでもこっち来ないからだろ」
「だって着物繕ってるんだってば……、痛っ! あー……指刺しちゃった……」
 指先に走った鋭い痛みに私は顔を歪める。見れば、小さな傷口から血が滲み出てぷくりと赤い珠を形作っていた。針仕事の最中に急にのしかかられたはずみで針を指に刺してしまったのだ。
「なんだ?」
「も、重いってば……」
 一くんがさらに身を乗り出して私の手元を覗き込んでくる。分厚い身体に押し潰されそうになって、私は着物も裁縫道具も手放し、バンバンと床を叩いて抗議した。まったく一くんは、自分の身体の大きさだとか人並外れた力の強さだとかをちゃんと理解していないのだから困ったものだ。
「針で刺したぐらいで血が出るなんて脆すぎるだろ」
「これが普通なんだってば……」
 ほらやっぱり。私が一くんと同じくらい頑丈だなんて思わないでほしい。
「手当てしてくるから、一くん、ちょっとどいて……っ!?」
 一くんの下から抜け出そうともがいていたら、いきなり怪我したほうの手を掴まれ後ろに引っ張られた。針を刺してしまった指をぱくりと口に咥える一くん。熱い舌が傷口の上をぬるぬると往復し、その度に痛みと、それだけではないゾワゾワした感覚が生じる。
「〜〜〜っ!」
 声なき悲鳴を上げる私は一気に身体の熱が高まるのを感じていた。このまま心臓が暴れすぎて爆発したらどうしよう……なんて思っている間に、一くんは私の手を解放した。
「こんなの舐めときゃ治るだろ」
 呆れたように言う一くんの言葉の通り、指の傷の血はもう止まっていた。もとから傷が浅かったのか、それとも一くんの舌になにか不思議な力でもあるというのだろうか。
「は……え……あ、わっ」
「じゃあもう寝るぞ」
 一くんはようやく私の上からどいたかと思えば背中と膝裏に手を回し私を抱えあげてしまった。彼の邪魔のせいで数針ぶん残った繕いものは床に放り出されたままだ。
 灯台で揺れる小さな火に一くんがふっと息を吹きかけて消す。一気に部屋の中は暗闇に包まれるけれど、一くんは夜目が利くから暗い室内をものともせずに私を抱えたまま布団を敷いてあるところまで歩いていった。
 布団に寝かされ、その横に一くんが滑り込んでくるまでの一部始終、さっきの余韻でドキドキと心臓を高鳴らせていた私は、顔を真っ赤にしてされるがままになっていた。寝るって……どっちの意味で……? もしかしてしつこく私が布団に行くのを待っていたのはそういう……?
 一くんが私の身体を抱き寄せる。身体の熱がいっそう高まる。彼は何度か身じろぎしたり腕や脚の位置を調整したりして、私を抱きしめるのにちょうどいい場所を見つけたのだろう、感慨深げに長く息をついた。
「あったけぇ……やっぱりオマエがいねぇとなあ」
「……………………」
 湯たんぽ代わりということだろうか。どうやらそういう意味ではなかったらしい。安堵するべきか落胆するべきかよくわからない心地で、私は一くんの逞しい胸板にぐりぐりと額を押しつけた。
「はぁ……おやすみ、一くん」
「ん、おやすみ」
 ぽんぽん、と頭を軽く撫でられる。それが心地よくて一気に眠気がやってくる。まだ縫い物の途中だけれど、続きはもう明日でいいかな……いいよね……寝ちゃおう……。私がウトウトしている間にもう一くんは寝息を立てていた。規則正しく上下する温かな彼の胸に頬を寄せ、私も目を閉じる。

◆◆◆

 窓から差し込んでくる朝の光で目を覚ましてすぐ、身体の横がすうすうしているのに気がついた。寝る前には目の前にあったはずの厚い胸板がそこからなくなっている。夢うつつのままごそごそと手足で布団の中を探ってみてもなにも見つからない。
 その時点ですっかり私は意気消沈してしまって起きる気が失せていたのだけれど、二度寝をしようにも日差しが瞼の裏にまで主張してくるものだからとても眠れそうになかった。仕方なく、ぱちぱちと瞬きを繰り返したあとに薄く目を開ける。
 ……やっぱり。布団はもぬけの殻だった。
「あーあ」
 こんなふうに私が起きる前にいなくなるのは大抵、何日も行方がわからなくなる時だ。朝餉を食べてからいなくなる時は近所で釣りかなにかをして夕方には帰ってくるけれど、朝からいなくなってしまうと何日も会えなくなる。
 一くんはどこへ行ったのだろう。この頃大きな戦が続いているという西の方だろうか。一くんは私になにも言わないけれど、私は彼が戦いを求めてさまよっていることは知っている。一くんが姿を消すのはいつだって大きな戦のウワサが流れる前後なのだから。私が気づかないとでも思っているのだろうか。皮肉が通じない一くんとは違って私は察しが良いのだ。
 また戦いに行ってしまったんだろうな。穴がちゃんと塞がっていない着物を着て。こんなことなら昨日の夜、やっぱりちゃんと針仕事を終わらせてから寝ればよかった。どうせ戦いに行ったらまた着物に穴を空けて帰ってくるのだろうけれど、だからといって家を出てすぐ合戦場というわけではないし、旅の道中では変な目で見られてしまいそうだ。嫌だなあ。せめて新しい着物に買い替えてくれればいいのに、一くんは出で立ちなんて気にしないタチだし……それに、着物を買うくらいなら一銭でも多くオマエのところに持って帰りたい、だなんて言いそうだ。彼はそういう男気の塊みたいな人だから。
 一くんがいないのに起きてご飯を作らなきゃいけないなんて面倒だなあと、私はせっかく目を開けたのにしばらく布団の上でごろごろと転がっていた。すると、台所からガタンと大きな音が聞こえてくる。
 なんだろう。風の音? それにしては大きいような……と不思議に思っているとまた、ガタン。音は明らかに私の家の中から聞こえてきている。
 なんで? 家の中に誰かがいる? 誰が?
 さっきまでの怠惰な朝の空気は消え失せてしまっていた。ゾワリと悪寒がして、心臓の音がいやに大きくなっていく。確かめなきゃ……でも、確かめたとして、泥棒かなにかがいたとしたらどうする? 今は私一人しかいないのに。それにもっとタチの悪い……落武者だとか熊だとかだったら──
「あっちぃ!」
「……え?」
 私の恐怖心は、台所から響いてきた声によって瞬く間に吹き飛んでいた。
 今のは間違いなく一くんの声だった。彼にしては珍しい、悲鳴のような声。だとするとさっきの物音も一くんが? というより、そもそも、家にいたの?
「あ? なんだよ、起きてたのか」
 どかどかと足音を立てて一くんが私のところまでやってくる。昨夜寝るときに着ていた着物のままで、袖をたすき掛けでまとめている。
「えっと……うん……一くんは……早起きだね……?」
 寝起き早々に訪れたパニックが予期せぬ同居人の登場で終息したという事実をいまだ飲み込みきれていない。私はなにやら間抜けな発言をしてしまっているのではないだろうか。実際、家にいるときの一くんは朝寝坊の常習者で、私が朝餉の支度を終えて起こしに行くまで布団で寝息を立てていることが常だ。早起きだという指摘は決して的外れではないのだけれど、他にもっと言うことがあるような……
「まあな……朝餉、こさえてた」
 一くんはガシガシと頭をきながら決まり悪そうに視線を逸らす。その頬はほんのり染まって見える。なんだかとても珍しいものを見ているような気がする。
「朝餉って……え? 私たちの?」
「他に誰がいるんだよ」
「だって一くん、料理できるの?」
「知るか。できるかできないかは食って判断しろ」
 言い捨てて、一くんは台所に戻って作った食事を椀によそい始めたようだった。一緒に暮らし初めてから料理なんてしたことないはずの一くんが朝餉をこさえただなんて、狐につままれたような気分になりながら私も朝の身支度を整え、一くんが用意してくれた食卓につく。
 椀の中でほかほかと湯気を立てているのは少量の米に雑穀と野菜を混ぜて煮た粥で、いつも私が作っているものに似ている。
「いただきまぁす」
 ドキドキしながら箸を手に取る。粥を一口掬って、ふうふうと息を吹きかけてから食べてみると──
「ん……」
 もちゃっ、としたなんともいえない食感がする。米や芋の表面は煮崩れてどろどろしていて、しかしそれらの中心部や雑穀などは硬く、硬いところを芯にして柔らかいものがまとわりついている──その総体のような粥だ。野菜の大きさもまちまちで、溶け崩れた葉物もあれば妙にごろんとした根菜もあり、まあ端的に言ってお世辞にも上手いとはいえない出来だった。
 しかし出来はともかく、私には一くんが作ってくれたという事実が嬉しい。私は渾身の笑顔を一くんに向けた。
「一くんが頑張ってくれた味がする」
「……チッ。やっぱり出来は悪いか」
「そ、そういうことじゃなくて」
「取り繕わなくていい。薄々わかってた」
 一くんは人相を悪くしてガリガリと硬い芋を噛み砕いている。
「伸び代があるって思おうよ」
「今できてねぇことには変わりねぇ」
「も〜……」
 強情な一くんには結局、白旗を上げざるを得ないのだ。不覚にも『出来が悪い』という看板を背負わせてしまった粥をしばらく黙々と食べ進める。
「ねえ、なんで急に料理しようって思ったの?」
「あー……」
 今更だなあと思いながら尋ねてみると、一くんは軽く視線を泳がせたあと、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「オマエには……いつもなんにもしてやれねぇからな。たまには俺からなんか返してやりたかった」
「一くん……」
 彼の温かな言葉に感極まったようになり、誤魔化すように椀の中身を口にかきこむ一くんを見つめる目が熱っぽくなる。
「一くんが……私にそんなふうに……」
「上手くはいかなかったけどな」
「そんなことないよ! 嬉しいよ!」
「不味い飯で喜ぶのか? おかしな奴だな」
「もー! そうじゃないって!」
「ハハ」
 私の気持ちが伝わっているのか伝わっていないのか、薄い乾いた笑いが返ってくる。
「あ、そういえば」
「ん?」
 大事なことを言い忘れていた。私は居ずまいを正して一くんに向き直る。そして「大好き」の想いを込めてこう告げた。
「おはよう、一くん」
「……ああ。おはよ」
 一くんの微笑みは、朝風のように爽やかだった。
 

20240425

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