バレンタインの幻獣琥珀



 ぐぱり、と開いた鋭利な牙の奥、肉厚の舌の上へと一口サイズに割ったクッキーを置く。ギロチンを思わせる凶暴さで顎が閉まると、私が手作りしたお菓子をもぐもぐと味わった一は三つの目を満足そうに細めた。
「美味い」
「……よかった」
「もう一つ寄越せ」
「え〜? 自分で食べなよ〜」
「食いにくいからオマエに頼んでるんだろ」
「ほんとかなあ」
「いいから、ほら。食わせろ」
 もう一度、一が大きく口を開ける。術式効果によって人の姿から離れてしまった彼と「あーん」をやると、まるで恐竜に餌付けをしているような気になってくる。一本人はそれを当然の権利だと思っているようで、狂暴な口の中に私がクッキーを放り込むと信じて疑わず口を開けて待っていた。見た目は恐竜だけれどやっていることは鳥の雛だ。私はしょうがないなあと肩を竦めて、二口目のクッキーを一の舌の上に置いた。一はその素朴で、しかもちょっと失敗して硬くなってしまったクッキーを大切そうに食べている。
 バレンタインデー、なんていう浮ついた行事を大々的に楽しめるほど、まだ世間も呪術界も回復していない。未曽有の呪術テロ、そして新宿での宿儺との決戦がもたらした傷はあまりにも深い。都内の有名デパートはほとんど営業再開のメドが立っていないし、サロンデュショコラは今年は死滅回游の結界が張られていた地域を避けて開催される。
 とはいえ、まったくなんの楽しみもない、なんてのは味気ない。特に私と一にとっては初めてのバレンタイン。有名店のチョコレートが買えなくたって、ありふれた製菓材料ならちょっとスーパーまで足を伸ばせば手に入れられる。素朴な手作りお菓子でバレンタインを楽しむぶんにはなにも弊害はなかった。私のお菓子作りの経験値以外には。
 ネットでレシピを検索したのはチョコチップを混ぜ込んだ素朴なクッキーだ。初心者でも作りやすそう……というイメージと、食べやすさを重視した。小さなトリュフチョコレートだと一の大きな爪と一体化した手では持ちにくい。クッキーなら爪の先で摘まんで食べられるだろうと思ったのだ。
 ところが私の気遣いを知ってか知らずか、プレゼントの手作りクッキーを受け取った一は「持ちにくいから食わせろ」だなんて要求してきた。持ってみようと試すこともなく、だ。習うより慣れろ、習ってなくてもとにかく慣れろ、というタイプの一らしくない。これはつまり「食べさせてほしい」ということなのでは? 予期せぬところで甘えられてしまって、心臓をギュンッと鷲掴みされるくらいには私も一に対して惚れた弱みのようなものがあって……一口サイズに割ったクッキーを彼の舌の上に置くという作業を気恥ずかしく思いながらも続けている。
「硬くない?」
「別に」
「それならいいんだけど……」
 次のクッキーを口の中に運ぼうと思っていたら、ふと、一の口元にチョコチップの塊がくっついて汚れているのが目についた。どこからどこまでが顎で牙なのかいまひとつ判別しにくい一の口元を指で軽く拭う。
「チョコついてたよー……っ、わ!?」
「んっ」
 口元のチョコを拭い取った指がかぷりと咥えられてしまった。力は加減してくれているので痛くはないけれど尖った牙の先端が皮膚に当たるのを感じてドキッと肩が跳ねる。そのうえ、一の舌が指先をべろんと舐めあげてきた。
「ちょ、ちょっと……一……」
 最初は遊ぶようなニュアンスで私の指をからかってきた一の舌は、次第に動きが細かく、焦らすようなものに変わってくる。一の三つの目が至近距離から挑発的に見つめてくるせいもあって、ソワソワ、ムズムズして落ち着かない。一と触れ合うことで身体の芯が甘痒くなるようなこの感覚がどういうものか知っているばっかりに、無視できなくなってくる。
「一……っ、ほんとに、も……」
「食っていいんじゃねぇの?」
「ちが……!」
「俺の口に指入れてきたのはオマエだろ」
「それは、チョコついてたから……!」
「バレンタインだから、チョコの味の美味いもんを食う。なにもおかしくなんかねぇよな?」
 楽しそうに縦に並んだ三つの目を細め、一はべろんと私の指先を舐める。もうそこについたチョコチップの塊なんてとっくに舐め取ってしまっているくせに、屁理屈だ。
 でもそんな言い分すらもかわいいと思ってしまうから、一に対して私が勝てることはもはやないのかもしれない。一が楽しそうに私の横で笑ってくれる、それだけで胸がいっぱいになりそうなのだ。ちょっとした甘えもわがままも気まぐれも、全部が好きだなあ……と思ってしまう。
「しょうがないなあ……」
 私は白旗を上げて、クッキーを机の上に置き一に抱きついて身体を彼に預ける。狂暴な爪がそっと私の背中に回り、硬い顎がごりごりと頬擦りしてくる感触が愛おしくて堪らなくて、自分から一の鋭い牙にキスをした。


2024/2/14
平定後人外生存ifのバレンタインでした。
鹿紫雲…生き延びたらかわいい日々を送ってほしい

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