ひとときの救い



 目覚めた私の頭上には見慣れない天井。さらにはそれをバックにこちらの顔を覗き込んでくる、胡散臭い笑みを貼りつけた男の顔があった。
「やあ。災難だったねぇ、囮として捨てられちゃうなんて。高専の連中、非術師の猿どもを救うためには術師をこき使うくせに仲間の術師は簡単に見捨てるとか、ほんっとうにわけがわからないよね。あんな連中のところにいたって使い潰されてポイ捨てされるだけ。さぞかしそれが身に沁みたことだろう」
 訊きもしないことをペラペラと喋るその男の顔に私は見覚えがあった。四人の特級術師の一人にして最悪の呪詛師として指名手配されている──
「──夏油、傑!」
「おや、私のことを知っている? これは説明する手間が省けて好都合だ」
 袈裟姿の特徴的なその男はにこりと笑みを深めて告げた。表向きは柔和な雰囲気を纏っているけれど、瞳が見えなくなるくらいに細めた瞳の奥でなにを考えているのかわからない。底知れない不気味さを感じ、私の全身の肌が粟立った。
 即座に自分の状況を確認する。殺風景な和室の布団に寝かされている私は、多少の打ち身や擦り傷以外の怪我はなさそうだ。拘束もされていなければなんらかの術がかけられている様子もない。しかし身体の自由を奪われていないのは、私くらいの術師なら簡単に制圧してしまうことができるという宣言なのかもしれない。なにしろ相手は特級術師で、部屋の外にも仲間と思われる術師の気配がいくつもある。
「そんなに警戒しないでくれよ。なにも誘拐して連れてきたわけじゃないのに。そもそもこっちは、君が呪霊に殺されそうになっていたところを助けて保護してあげたんだ。感謝してほしい──とは、言わないけどね。私は、呪術師同士が助け合う世界という私の理想のために行動したのだから」
「……」
 夏油傑の言うことは間違いばかりではない。確かに私はもう一人の術師と共に任務に赴いて、呪霊に殺されかけた。ただ、それは私の術式が呪霊に対して思うように効力を発揮できなかったからだ。囮にされたのではなく、相方の術師は命からがら逃げ出したのだし、私が死にかけたのは自分の未熟さのため。
 けれども、夏油傑に命を救われたことも事実。呪霊の攻撃で頭を打ち倒れた私が、意識を失う間際に目にしたものは確かにこの男が纏っている袈裟の裾だった。……そこに一体なんの狙いがあるのかは、慎重に見極める必要がありそうだけれど。
「助けたと言うのなら……私は解放してもらえるの?」
「おっと、それはできない」
 ほらやっぱり、裏がある。私はジトリと彼を睨みつけた。すると夏油傑はにっこりと渾身の笑みを浮かべてみせるのだった。
「君には私の家族になってもらいたい」
「………………は?」
 家族になる? なにそれ、プロポーズ? 最悪の呪詛師が?
 さっきまでの警戒も緊張も吹き飛んで猫が宇宙を背負ったような顔になってしまった私の前で、夏油傑は作り物めいた笑顔をいつまでも維持していた。

 夏油に保護、もとい捕縛されて数日過ごすうちに、彼と初対面したときの勘違いに私は気がついた。彼の言う「家族」とは「仲間」という意味であり、家族になってほしいという言葉にプロポーズとしてのニュアンスは一切含まれていない。要するに、私の術式を彼の目的のために使ってほしい……ということなのだろう。安心したような肩透かしをくらったような、おかしな気分だ。
 私は相変わらず拘束されることなく、夏油が許可した範囲での自由な生活を送ることができていた。見張りがいる扉の先には行けないけれど、屋内や中庭なら好きに歩き回れる。私室も与えられているし、食事も十分、入浴も毎日。着替えなども清潔なものを貸してくれるし、日用品など欲しいものがあれば夏油の秘書のような女性に頼むと快く用意してもらえる。彼らは本気で私を仲間として懐柔しようとしているらしい。しかし外には出られないし、スマホなど外部との連絡手段は没収されている。軟禁されているに等しい状態だ。これで絆されろというほうに無理がある。
 それに──どうしても夏油の言い分を受け入れられない、と感じる理由は他にもある。
「どう? そろそろ心を決めてくれたかな?」
 初対面の時から変わらない笑みを張りつけた夏油はたびたび私の前に姿を現して、こちらの心境の変化を探ってくる。
「皆とは会っているだろう? 私の自慢の家族達だ。高専の連中なんかのために献身するより、私たちと共に呪術師のための世界を目指すほうが素晴らしいことだと思わないか?」
 朗々と演説するような口調で言う夏油。私はそれが苦手だった。今日の夕食は口に合ったかとか、なにか必要なものはないかとか、普通の会話を交わすときの夏油はちゃんと私を見ているのに、理想を謳うときの彼は別のところに意識を向けているようだから。
「……その話なら聞きたくない。私を仲間に引き入れようなんて無駄だから、諦めて」
 ふいと背中を向けてしまえばそれ以上夏油が食い下がってくることはない。
 彼が言う通り、私のもとには毎日いろいろな人間が訪れる。彼らは夏油が束ねる組織の幹部であり、彼ら曰く家族なのだという。ひたすらに夏油様の素晴らしいところを語り続ける女子高生とか、熱心に勧誘してくる女性秘書のような人とか、組織そっちのけで美容の話をするのが好きなニューハーフっぽい人とか──個性豊かな彼ら全員が腕の立つ術師であることは一目瞭然だった。これだけの戦力が身近に控えているのなら私一人くらい平気で野放しにできるな、と納得してしまったほどだ。
 ある日のこと。女性秘書が私の部屋へやってきた。またいつもの勧誘かな……と思って彼女を部屋に通したところ、彼女が持ってきた話はそれではなかった。
「あなた、死んだことにされているわよ」
 手渡された書類は任務の報告書のコピーだった。一体なにをどうやったのか、高専の内部情報を入手したらしい。しかし今の問題はそこではない。報告書に書かれている任務は私が死にかけて夏油に拾われるきっかけとなった時のもので、私の名前の横にははっきりと「死亡」と記載されていた。
 サァ……っと血の気が引く音が聞こえたような気がした。
 生きているのに、死んだことにされている。死体も見つかっていないのに、まだ任務から十日ほどしか経っていないのに──
 寂しさなのか憤りなのかよくわからない感情を抱く自分と、仕方がないと納得しようとしている自分がいる。今回は共に任務にあたった術師による目撃証言があったはず。彼から見れば私が助かる余地などなかっただろう。特級術師の指名手配犯が呪霊を取り込んでしまうだなんて思いもしないのだから。
 死体が見つからないなんて術師ならそう珍しいことではない。私たちが歩んでいるのはそういう地獄。わかっていたはずだ。それなのにいざ自分が死んだことにされてしまうと、もう術師としての私は必要とされていないような……戦力外通告を言い渡されたような気がしてしまう。
「こんな扱いを受けてもまだ高専側に与するつもり? 夏油様の誘いを受けなさいな。悪いようにはしないわ」
 心の隙間に付け入るように、女性秘書が仲間になるよう誘ってくる。その口調はいつもより熱っぽく感じられた。うまい返し言葉が見つからずに言い淀んでいると、彼女は部屋の外に合図を送る。やってきたのは夏油だった。
「もうわかっただろう。呪術界にとっては君のような術師一人なんて捨て駒に過ぎない。弱者救済の綺麗事のために都合よく使い潰して、あとはポイだ。そんな奴らはこっちから捨ててしまえばいい。君は、私たちの家族になるべきだ」
 妙に芝居がかった調子で、大袈裟なほどの身振りを交えて告げる夏油。いつものことだと受け流すには、今の私には心の余裕が足りなかった。
「あなたの仲間になれば捨てられない、って?」
「もちろんだとも。家族なんだからね」
「信用できない」
「私たちがいかに固い絆で結ばれているかはもう知ってもらえているだろう?」
 確かに彼らの結束が固いことは感じられる。でも、夏油の言い分に違和感を覚えている私はその言葉を素直に受け止めることはできない。
 違和感の原因は夏油自身の言動にある。
「本当の家族だったら、私たちは家族だ、なんてわざわざ宣言しない」
 私の指摘に、夏油はピシリと表情を凍らせる。作り笑いを張りつけてばかりの彼にしては珍しい顔だ。
 痛いところを突かれた、という顔なのだろうか、これは。大切な家族だ、固い絆で結ばれているんだと、まるで自分に言い聞かせるように朗々と謳い上げる彼の言動。どうにも芝居がかって嘘っぽく見えるその振る舞いが私は苦手なのだ。
 私を諭そうとしているようで私を見ていないその目が、いったいどこを向いているのか、私には知るよしもないけれど。
「……君は本当に頑なだね。出直すよ。また話そう」
 今回は、ふいと背中を向けるのは夏油のほうだった。

 夏油たちがなぜ私を仲間にしようとしているのか。おおよその見当はついている。私の術式を使ってほしいのだろう。呪霊を祓うためよりも人間相手のほうが効果的な場面が多い術式だ。呪術界に反旗を翻して高専側と対立する呪詛師としては確保しておきたいと思うはず。
 だったら、望み通りに術式を使ってあげよう。
 ただし夏油本人に対して。
 高専で死亡扱いされていることを知ってから三日。しばらくの間考えた結果、私はここを出ていくことに決めた。誰かが助けに来てくれるかもしれないと思って、危害が加えられるまでは保身に徹しようとおとなしくしていたけれど、死亡したことにされているならば外からの救出は望めない。自力で逃げ出すしかない。
 脱出が成功したあとは高専には戻らない。もう呪術のことも呪霊のことも忘れて、誰も私のことを知る人のいないところで第二の人生を始めるつもりだ。
 私はもとから正義感や使命感が強くて呪術師になったわけでもないし、ただ成り行きで呪霊を祓い続けているだけだ。特別誰かに必要とされるくらいに強いわけでもない。夏油の言葉で言うなら捨て駒だ。呪術界は既に私をいないものとしている。だから退場してしまおう。地獄はもう懲り懲りだ。
 いつも通りに私の部屋を訪れて家族になろうと口説きにきた夏油。彼の目をじっと見つめて、私は術式を解き放った。
「──っ」
 夏油の細い目がこれでもかというほど見開かれ、瞳が揺れる。
 私の術式は対象者に幻覚を見せる。その内容は「術式対象者が最も望む景色を見せる」というもので、術者である私のことは「最も大切な人」に置き換えて認識する。対象者の認識に対して作用する術式なので、私自身がその大切な人のことを知らなくても問題ない。
 この術式を呪霊相手に使うにはまず対象となる呪霊に相応の知性が備わっていないと効果がない。そして呪霊が望む景色なんて死体の山とか焼野原とかが精々だから戦意を削ぐ効果は期待できず、大切な人なんて存在しない呪霊には私のことを死体と誤認させるくらいしかできない。
 攻撃的な使い道がなく、補助的な効果も呪霊の知性次第というあまり役に立つ場面がない術式だけれど、術式対象が人間であれば話が違ってくる。望む景色を持たない人間、大切なものを持たない人間なんて、そうそういない。少なくとも私は出会ったことがない。
 術式によって幻覚を見せて、戦意を喪失させるなり説得するなりして術式対象者を意のままに動かす。呪詛師が相手になる任務の時は大抵そうやって切り抜けてきた。
 今回も、術式にかかった夏油にとって大切な誰かの姿を借りて、この場所から出て行く──そのつもりでいた。
「……さとる」
 夏油の唇が小さく動いた。さとる。それが夏油にとって最も大切な人の名前だろうか。男の名前のように聞こえる。五条さんと同じ名前だ。
 大抵こういう時に出てくる名前は想い人や恋人らしき異性の名前なのだけれど、さとるというのは彼の家族か、もしくは親友か……余程近しい関係にあった人間なのだろう。
「こんにちは、夏油」
 術式が作用している状態なら私はどんな発言をしても問題ない。言い回しや呼び名は、相手の脳が勝手に誤認してくれる。今の私の言葉は「やあ、傑」に聞こえたかもしれないし「ハイ、ハニー」に聞こえたかもしれない。あまりにも認識とかけ離れた言動はカットされるから突拍子もないことを言っても大丈夫。要は、今の私は夏油になんでも言えるということだ。
「さとる……」
 夏油がまた名を呼んだ。随分ぼーっとしているように見える。術が深くかかった証拠だろう。
 ぼんやりしているばかりだった夏油が、突然、ぱぁっと満面の笑顔を浮かべた。なんだか少年のような屈託のない顔だ。普段、嘘っぽい貼り付けたような笑みばかり見ていたから、なおさら新鮮に見える。
 ……なんだ、この人、いい顔もできるんじゃないか。そんなことを思った。
「どこに行っていたんだい。任務の集合時間になっても来ないって夜蛾先生が怒っていたよ」
 笑いつつ、困ったように眉をハの字に曲げる夏油。おや、と、彼の発言に違和感を覚える。任務だなんて、まるで高専のようだ。夏油の一派がなにか仕事のことに言及するのに「任務」という言い回しをしているのは聞いたことがない。
 それに、夜蛾先生? 学長のこと? なんで学長が──と、考えたところで私はいつか聞いた話を思い出した。最悪の呪詛師、夏油傑はかつては夜蛾先生の教え子だったそうだ。
 もしかして、夏油の精神は高専時代に巻き戻っている? そうであるなら、少年のような印象の顔つきにも納得できる。幻覚を見せるのみならず、術式対象者の精神にも影響を及ぼしてしまうなんて、初めてのことだった。ここまで深く術がかかるなんて、夏油は余程満たされないなにかを抱えていて、過去の青春時代の景色に焦がれているのだろうか……
 それなら夏油の言う「さとる」はもしかして、五条さんのこと?
 学生時代は同級生だったと、噂には聞いたことがある。
「ごめん、少し用事があって」
 恐らく夏油には私のことが高専生時代の五条さんに見えている。少しだけ五条さんを意識して言い回しを変えてみた。実際にはどういう話し方をしていたのか私にはわからないけれど。「わりぃな」なんて口の悪い喋り方だったらどうしよう、イメージが崩れる。
「まだ用事があるから、すぐに行かなきゃならない」
 なにはともあれ、今の軟禁状態から抜け出す方向に話を持って行かなければならない。術式効果の切れないうちに、私は夏油の元から去る。
「外まで案内してくれる?」
 この建物にいる別の人たちには幻覚は見えていない。私の術式は同時に複数人を対象にすることはできない。夏油が自ら私を外に連れ出しているように見せかける必要がある。
 一番見たい景色の中にいる幸福感の中で言われた大切な人の頼み事なら、大抵の場合は頷くはずだ。今まで術式はそういうふうに使ってきた。
 けれども夏油は、私の──幻覚で見えている学生時代の五条さんの言葉を聞くやいなや、血相を変えて私の腕を掴んでくるのだった。
「──駄目だ」
「えっ」
「もうどこへも行くな……私を置いて行くなよ、悟……」
「い……っ」
 ぎりぎりと強い力で腕を掴み上げられる。思わず苦悶の呻きを上げるけれど、夏油の耳に私の声は届いていないようだ。彼の認識では五条悟はこれくらいで悲鳴を上げないから認識からカットされた、ということらしい。同感だ。私も五条悟なら掴まれたくらいで悲鳴は上げないと思う。
 しかし幻覚の中ならともかく実際に掴まれているのは私の腕だ。痛い。腕が潰れてしまいそうだ。
「は、離して……」
「駄目だ。君にはわからないんだろう。置いて行かれた私がどれほど……」
「っ、あ……」
 語気と共に腕を掴む力も強められて、もう駄目だった。集中力が切れて術式が解除されてしまう。
 正気を取り戻した夏油は二、三度まばたきを繰り返して、すぐに私の腕を解放した。
「……っ、すまない、私はなにを……」
 幻覚を見ている間の記憶は、術式が解けたあとには残らない。どんな景色を誰と見ていたのかは夏油本人にもわからない。
 恐らくは学生時代の、同級生の五条さんと過ごした日の幻を見ていたのだろうけれど……それが夏油にとって最も見たい景色と大切な人だということには不思議と胸が締め付けられる思いがした。
 大切な家族だ、理想だと、まるで自分に言い聞かせるように高らかに謳っていたこの人は、学生時代になにを失って、なにを置いてきてしまったんだろう。
「……今、術式を使ったのかい?」
「どうしてそう思うの」
「意識が途切れていたような感覚がするからだよ」
「……私の術式のこと、そこまで知っているのね」
 私は肩を竦めた。それが肯定の合図だった。術式を用いて脱出するのは失敗。隠しても無意味だ。
「君が術式を使って逃げることも想定していなかったわけじゃない。外にいる家族には術式を破る手段がある。どのみち君は逃げられなかったわけだけど……そもそもここから出ようとすらしていないのは妙だね。幻覚を使ったなら、なぜ私に言うことを聞かせて脱出していない?」
「そうよ。そうするつもりだった。……でも、幻覚を見たあなたが、私のことを離してくれなかった」
「……ああ、そうか……そういう……」
 視線を落として自分に向かって呟きながら、夏油はゆっくりと頭を振った。彼の表情はどこかぼんやりとしていて、毒気が抜かれたような──呪詛師、教祖としての仮面や鎧が剥がれ落ちて素の夏油傑が覗いているような印象がある。幻覚を見ている間の記憶は残らないとはいえ、その時の感覚をまだ引きずっているのだろうか。他に例を見ないくらいに深く幻覚に囚われていたようだから。
 「最も望む景色」の幻にそこまで深く入り込んでしまうなんて。夏油はもしかしたら、一介の呪術師に過ぎない私なんかには及びもつかないような地獄を歩んでいるのかもしれない。──だからこそ、特級呪術師として活躍を期待されていながら最悪の呪詛師へと転身してしまったのだろうか。
 いったい彼の身になにがあったのか、私には想像もつかないけれど……
「……夏油」
「うん? ……っ、く……」
 顔を上げた夏油と目を合わせた瞬間、私は術式を再び使った。
 精神への干渉に一瞬だけ抵抗を見せた夏油は、しかしすぐにぼんやりと虚脱したような顔になった。術にかかったのだ。通常、私の術式は連続して使えば効果が出にくくなる。特級呪術師である夏油の力量を考えれば、術をはねのけてしまうこともできるだろうに、彼は術を受けた。
 きっと自ら幻覚を望んで受け入れたのだ。「最も望む景色」の幻はそれだけ彼にとって甘美な──救いなのだろう。
「……夏油」
「ああ……悟」
 ふにゃり、と夏油の顔が柔らかく緩む。鎧も仮面もない、青春時代に逆行した夏油少年の、穏やかな笑みだ。何度も私に「家族になってほしい」と迫ってきていた時に浮かべていた貼り付けたような笑顔より、今の顔のほうが何十倍もいい顔だ。
 私の術式は呪霊を祓うためにはさほどの役に立たない。人間相手に術式を使う機会なんてそうそうない。呪術師としての私が救うことができる人間はごく僅かで、既にいないものとされてしまった今、もう誰かを助けるために地獄を生きるのはやめてしまおうと思っていた。
 けれども、今私の目の前にいる男は、私の術式によって救われている。私の幻覚でいっときでも彼の地獄は薄らいで、屈託のない笑顔を浮かべることができている。
 私も最初は、人を救うために呪術師を志したものだ。その初志が胸の中に染み渡るのは、必然だった。
「……どこにも行かない。ここにいるよ」
 なにも、誰も、救えないよりは、目の前の男一人だけでも救えるほうがいいかもしれない。
 夏油のあどけない笑顔は私にそんな心変わりをもたらした。
「うん、そうだよ、悟」
 幻覚に囚われている男は大きく頷いたあと、にっこりと笑みを深める。
「私たちは二人で最強なんだ。……ずっと、一緒だ」
 私の力で見る幻の中でくらい彼の地獄が和らぐのだとしたら、私はきっと私の生き方に満足できる。常に幻覚を展開するほどの力は私にはないけれど、疲弊した彼に心地よい夢を見させてあげるような術式の使い方は、戦うためよりも余程私の性に合っている気がした。目の前の男たった一人をほんのひとときだけでも救い続ける日々……それは、第二の人生として悪くない生き方であるように思える。


2024/1/25

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