慈愛の分岐点



 宿儺との死闘のあと瓦礫の下から救出された鹿紫雲は全身がボロボロの状態で意識を失っており、脈があるのが不思議なほどの満身創痍だった。
 家入先生に反転術式と外科手術での治療を施してもらい、本人の肉体の頑丈さもあってどうにか一命を取り留めたものの、去年のクリスマスの決戦から三ヶ月経った今でも彼は病室のベッドで昏睡したままだ。チューブに繋がれてどうにか延命している彼の姿を目にするたびにいたたまれない気持ちになるけれど、私は毎日欠かさず鹿紫雲のお見舞いに訪れて、話しかけたり痩せた頬をつついてみたりしながら彼が目を覚ますのを待っている。
「今日はすごいあったかいよ、上着いらなかったもん」
 反応のない相手に話しかけるのもすっかり慣れたものだ。悲しいことに。
「来週には桜が満開になるかもって。……見に行けるといいねえ」
 私はベッドの横に置いたスツールに座って、ぴくりとも動かない鹿紫雲の顔を覗き込む。
「お花見は高専の中でもできるからいいよね。都内の桜の名所って壊れちゃったところも多いから……」
 あの戦いが残した傷跡は深く、いまだ色濃く残っている。世の中にも、人の心にも。
「でも意外と東京から離れると無事なんだよね。夏になったら海水浴とか……って、鹿紫雲は海だめかあ。じゃあ山かな。キャンプとか楽しそう」
 時代錯誤なうえに物騒な鹿紫雲のことだから、こんなの野宿となにが違うんだ、なんて仏頂面になりそうだけれど。
「秋になったらおいしいものいっぱい食べたいよね。すごいおいしいモンブランのお店教えてあげる。去年は結界の中でもそのあとも、全然そんな雰囲気にならなかったし」
 東京第二結界で鹿紫雲と出会って、うっかりキスなんかしちゃって、恋人同士になって……そんな日々からまだ半年? もう半年? 時間の感覚も、それが長いのか短いのかもよくわからない。いろいろなことがありすぎて。
「冬にはスキーだよね。鹿紫雲はスノボが似合うかなあ。なにやっても上手そう。上級者コースで置いていったりしないでよね。それからまた春になったらお花見して……その頃になったらいろんな場所が復興してるのかな……」
 ベッドのシーツの上でぎゅっと手を握る。からっぽの手の中。そこに、ありきたりな日常が掴めるまでには、あとどのくらいかかるのだろう。
 家入先生の診察では、身体の状態は問題ないということだった。戦いの傷はもう全快して、寝たきりになって筋力が落ちていること以外は以前と同じなのだそうだ。脳にも損傷はない。医学的には問題がないのに鹿紫雲が目を覚まさないままでいる理由は、なにか呪術的な要因が作用しているか、もしくは彼の精神が既に死を受け入れてしまっているかだと伝えられた。
「……早く、起きてよ…………バカ…………」
 そんなの、到底受け入れられない。
 鹿紫雲はきっと目を覚ますはず。
 だって、鹿紫雲と一緒にできていないことはまだたくさんあるのに。
「鹿紫雲のバカ……ばかぁっ……」
 込み上げてきた涙を堪えようと両手で顔を覆う。けれども堰を切ったようにあふれる涙は止まらない。
 もっと話したり、笑い合ったりしたい。もっと一緒にいたい。もっと……キス、したい。
 かわいいキスも大人のキスも、鹿紫雲とのキスは全部好き。それに、それ以上のことも……
 戦いを理由にして抱くつもりはないと言ってなにもしてこなかった鹿紫雲は、高専に来てからも態度を変えなかった。周りにいつもみんながいて、そういう雰囲気になりにくかったからというのもあるけれど……なろうと思えば部屋で二人きりにだってなれたのに。
 きっと鹿紫雲にとってはまだ戦いの中なんだ。死滅回游の結界から出て気が緩んでしまった私とは違って、鹿紫雲は高専にいるのも結界の中のホテルで休むのも変わりなくて、彼の戦いは宿儺と会うまで終わらないんだ。そう思っていた。鹿紫雲はずっと私に優しくしてくれたから、彼の心変わりを疑うことはなかった。新宿での決戦を生き残れば鹿紫雲とちゃんと恋人らしいことができるのだと信じていた。
 ──今なら、戦いはもう終わっているのに。なにも物騒なことを考えず、エッチなことだってすればいいのに。私との恋人らしい時間を楽しんでくれたらいいのに。
「なんで……っ、起きないのよ……バカ……バカシモ……う、ぅっ……」
 私まだ、鹿紫雲のこと、名前で呼んだこともないのに。
「……うっ、は……はじ、め……はじめ……っ! 起きてよ、はじめの、ばかぁっ!」
「うるせぇな……」
「……っ!?」
 幻聴かと思った。
 都合のいい私の妄想にしては、細く、弱々しく、掠れた不機嫌そうなその声は──
「いつもいつも……騒々しい奴だ……寝られやしねぇ……」
 泣き喚いて顔がぐしゃぐしゃになっていることも忘れて、私はがばりと顔を上げた。
 涙で滲む視界でもはっきりとわかる、南国の海のような爽やかな色。ずっとまぶたの帳に隠されていた二つのターコイズの瞳が、やっと……やっと、開かれている。
「っ……、は、はじめ……っ!」
 彼が起きたらまずなんて言おうか、ずいぶん前から決めてあった。それなのにいざその瞬間がきてみれば、涙があふれるばかりでなにも言えない。私はぼろぼろと泣きながら、勢いに任せてベッドの上の一に覆い被さるように抱きついた。
「……重いんだよ、馬鹿」
 文句を言いながらも一はぎこちなく手を持ち上げて、ポンポンと私の頭を撫でてくれる。弱々しいその手つきがとても尊いものであるように感じられて、私の涙はしばらく収まる兆しがなかった。

◆◆◆

 寝たきりの期間が長かった一は失った筋力を取り戻すためのリハビリをさっそく始めることになった。チューブから栄養を取っていたために消化機能も衰えているので食事にも制限があり、「粥みてぇなもんしか食ってないのに無意味に歩き回らされるとはな」なんて文句を言いながらも、家入先生の指示に従って高専の敷地内を歩いている。私は任務のない日はなるべく一のリハビリに付き添うようにしていた。
 桜は満開。高専のハリボテの寺社仏閣の合間を敷き詰めるようにたくさんの桜が咲き誇って、ひとたび風が吹けば花びらが舞って桜吹雪となり、地面には散った桜がじゅうたんのように敷き詰められている。
 一とお花見に行きたいと願っていた。寝たきりの彼を前にしていた時にはきっとそんなことできないんだろうなと半ば諦めの気持ちもあった。けれど今、私は一と一緒に桜の舞う石燈籠の並ぶ道を歩いている。こんな奇跡のようなことがあっていいのだろうか。
「……ふう、少し休む」
 一の体力と筋力の衰えは相当に深刻なようだ。反転術式で急速に肉体を繋ぎ合わせたあと、まったく動かさずに寝たままになっていたから、すっかり筋肉が動かしにくくなってしまったらしい。十数分の散歩でもう彼の額には汗が滲んでいる。
 それでも、家入先生によれば、先週意識が回復したばかりなのにもう松葉杖なしで出歩けるようになったことは驚異的な回復なのだそうだ。このぶんなら数か月以内に術師として復帰し、呪霊を祓う任務につけるようになる、とのこと。
 宿儺との戦いが終わっても、呪霊を祓う戦いがなくなったわけではない。私を含めて生き残った呪術師たちはみんな、また任務に従って呪霊を祓う生活に戻っている。宿儺との戦い以前に比べれば呪霊は弱体化しているので、高専の術師たちの力は削がれているけれど今のところ対処に問題はない。
 一が回復したら術師として高専に身を置くというのは本人の希望でのことだった。あくまで戦いの中で生きていきたい……ということなのだろうか。あんな、死の縁を彷徨って三か月も寝たきりになるなんて目に遭っても、一はまだ……
「なんだよ、人の顔をじろじろ見て」
 縁石に腰を下ろして汗を拭う一をぼんやり見つめながら考え事をしていたら睨まれてしまった。私は意識して柔らかい微笑を作りゆっくりと首を横に振る。
「んーん、リハビリ大変そうだなあって」
「……まあそうだな。こんなに身体が鈍っちまってるとは思わなかった」
「今の一なら私にも倒せそうだね」
「ああ!? 随分と吹くじゃねぇか」
 一は額に青筋を立てて睨み上げてくる。ほんの冗談のつもりが、思った以上に彼のプライドを刺激してしまったらしい。
「なによ、こっちは昨日も呪霊祓ってきたところなの。現役でバリバリやってるんだから舐めないでよね」
 なんだか楽しくなってきてしまって挑発で返す。また一とこんなふうに言い合えるなんて、夢みたいだ。
「上等だ。かかってきやがれ」
「そっちこそ、怪我が増えても知らないんだから」
 腰を上げた一は道の横の短い下草の生えた地面に移動して、軽く腰を落とし格闘の構えを取る。私もじりじりと一との距離を測りながら慎重に間合いを詰めた。
 地を蹴って私は跳び出す。まずは軽く、捻りもフェイントもない左のジャブ。正面きっての格闘戦に小細工もなにもない。一ならこれは軽々と避けるだろうから、カウンターに備えてどの方向にでも跳べるように体勢を整え、て──?
「へっ?」
 かわされるだろうとおもった左拳がぽこんと一の胸板に命中する。呪力もなにも込めていない非力な私のただの打撃だ。そこまでの威力なんてあるはずがないのに一はたたらを踏む。
 おまけに、避けられる前提で突っ込んでいった私は勢いを殺しきれずに一の身体へと盛大に正面衝突した。顔面からの私のタックルを胸板でもろに受けた一はがくりと膝を折って、その身体は傾き──
「わ、わ、わーーーっ!」
 慌てて彼を支えようとしたけれど時すでに遅し。一は真後ろに倒れ込んで短い下草の上にどすんと大の字に転がってしまった。助けようとした私も彼の身体に引っ張られるかたちで倒れ、一の上に覆いかぶさる体勢になってしまう。これではまるで私が一を押し倒したようで……って、まるでもなにも、実際に私が一を押し倒したのだけれど、そういうことじゃなくて……!
「は、はじめっ! 大丈夫!? 痛くない!?」
「……クックック……こんなにも身体が動かねぇとはな。本当にオマエに倒されるとは俺もヤキが回ったか」
 一は大の字に倒れたままで肩を震わせている。発言だけは悔しそうだけれど、彼の声は愉快そうに弾んでいた。頭の打ちどころが悪かったのかと心配になってしまうほどだ。
「……わっ!?」
 しかし次の瞬間、私の後頭部に手を添えてぐいっと引き寄せてきた一の、強引だけれどこちらへの気遣いも感じられる手付きがいかにも彼らしかったので、よかった正気だったと安堵する。
「はじめ?」
 一の胸板に押しつけられた顔の角度をそっと変えて彼の顔を見上げる。ベッドで寝たきりになっていた時から比べればふっくらして血色のよくなった頬が見える。
「──オマエの声で起きる前、長い夢を見ていたような気がする」
 遠い昔の思い出を語るような声音で、ぽつりぽつりと一は語り出した。
「長いこと一人で丘にいた。あれは生前に見た景色だったかな……覚えてるわけじゃねぇが、少なくとも現代にあるようなでかいビルや建物なんかはなにもなかった。……そこに、宿儺がいた」
 不意に飛び出した呪いの王の名に、私はこくりと唾を飲む。
「どう他者を慈しむのか問うた俺に、宿儺は戦い殺すこと自体が慈愛だと語った」
 ゾワ、と悪寒が走る。なんだ、そのとんでもない考え方は。殺すことが愛だなんて歪んでいるとしか思えない。
 呪いの王ならそんな物騒極まりない考え方をしていても仕方がないのかもしれないけれど……一は?
 宿儺との死闘を経てなんとか命を拾って、また高専に所属する術師としての新しい戦いに臨もうとしている一はもしかして、宿儺の言う戦って殺すことという愛を求めて……?
「それがどういうことかって散々考えた。宿儺の言うように生きられたら、四百年前からの俺の生き方は肯定されるのかもしれねぇ。俺が孤独だと思ってたものは孤独じゃなかったのかもしれねぇ、と。だが……それはオマエを否定することになると思った」
 一が私の後ろ髪を手で梳く。ゆっくりと、繰り返し。私に触れていることを噛みしめるように。
「殺し殺されるのも一つの慈愛の形なのかもしれねぇが、宿儺がそう生きてきたのだとしても、それは俺のもんじゃない。俺が欲しいもんはオマエんとこにある……馬鹿がやかましく呼ぶのが聞こえたんでそれがはっきりして、夢から醒めた。だから、まあ……俺がここにいるのはオマエのおかげだ。倒されても文句は言えねぇわな」
「はじめ……」
 病室で流し尽くしたはずの涙がまたあふれてきそうになって、私は声を震わせた。
 一はこっち側を選んでくれたんだ。宿儺のような破壊と殺戮の狂った愛ではなくて、人間としての温かな慈愛を、自分の生きる道として決めたんだ。
 私が身体の下に敷いた一の胸からドクンドクンと確かな鼓動と温もりが伝わってくる。一がちゃんとここにいて、生きている。そのことを実感するとまた泣きそうになる。
 こんな時どんな顔をすればいいんだろう。一は? どういう表情でこんな話をしているの?
 身体を起こして一の顔を伺おうと思ったのに、私の後頭部に添えられた彼の手の力が思ったより強くて、顔を胸板に押しつけられたまま動けない。
「ちょ、ちょっと、はじめ……」
「……なんだよ」
「顔、見たい。手どかしてよ」
「断る」
「なんでっ!」
「今の顔なんざ見せられるかよ……」
「……っ! なにそれ! 見たい! 余計見たい!」
「このやろ、暴れんな……!」
 ぐぐぐ……と首に力を目一杯いれて押せば、なんとか一の手を押し退けて顔を起こせそう。今の弱っている一なら、力比べだって私に勝算があるはず……! なんとしても一の顔を、希少すぎるに違いない表情を見なければならない……!
「チッ!」
「わっ!?」
 大きく舌打ちした一が急に私の身体を彼の顔に近づけさせてきた。突然、今まで反発していたのとは別方向の力を加えられて、私はあっさりと一にされるがまま彼に顔を寄せる。
 表情もよくわからないほど急激に顔が近づいて──キス、された。
「…………」
 唇を触れ合わせたまま、じんわりと温もりを伝え合うキス。今までもっとすごいキスもしてきたのに、今はこんなかわいらしいキスひとつでふわふわした夢心地になって、なにも考えられなくなってしまう。
 一がここにいる。私のそばにいて、私に愛を伝えようとしてくれる。だったらもう、それだけでいい。十分すぎるほどに幸せだ。そんなふうに、心が穏やかに凪いでいく。
 そっと唇を離した一はもういつも通りの澄ました顔をしていた。彼の珍しい表情を見逃したことは私の中では過ぎたことになっていて、特に惜しむ気持ちにもならない。
「……はじめ」
 呼びかけた自分の声は聞いたこともないくらい、穏やかで柔らかい。一が優しいから、私も彼に影響されて別人のように優しくなれるのかもしれない。
「おかえり」
 なんとなく言いたくなった一言を告げると、一は少しだけ目を見開いたあと、ふわりと表情を和らげる。彼が戦い殺すことでしか人を愛せない男なら絶対にしないであろう、満ち足りた柔らかな微笑だった。
「ああ……ただいま」
 一が大きな手のひらでそっと私の頬を撫でる。カサついた手の温もりを感じ、堪らない心地になる。
 私たちが寄り添い合って過ごすこれからの日々はきっと、この穏やかな温もりに満ちている。そんな幸福な予感を胸に、私と一はもう一度、キスを交わした。


2023/12/19
web版完結です。ありがとうございました!
スタート同じのルートが違うみたいな同人誌も1/28のイベで出します。
いろんな鹿紫雲が見たくてこうなりました。
ぜひチェックしてみてください。

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