二度目の人生



 四百年ぶりにまぶたを開ける。
 呪物化して、長い年月を朦朧とした意識だけの状態で漂ってきた。自らの肉体で世界の光を感じるのは随分と久しぶり。なるほど、サナギの殻を破って出てきた蝶はこういう感覚なのかもしれないと思う。
 自らの肉体──などと言ってしまって良いものか。
 私は自分の両手を緩やかに握ったり開いたりを繰り返してみた。羽化したばかりの蝶の羽はとても脆いが、私の身体は十全であるようだ。動きも反応も申し分なく、必要があれば今すぐにでも呪力をみなぎらせ戦場に馳せ参じることができる。
 ただし羂索が私のような呪物化した術師を招いた死滅回游という戦場は、昔のように大将首を獲れば勝利というような単純なものではなさそうだ。行動するなら慎重になったほうがいい。私は静かに硬い平らな岩のような地面に踏み出す。
 土の匂いはなく、草木はまばらで、固くて四角い大きな墓石のような建物が立ち並ぶ街並み。馴染みのない景色に慣れる日はいつか来るのだろうか。羂索の言葉に乗って呪物化し時を越えることを決めた時、私の運命は大きくしなり、本来辿り着くはずのなかった四百年後の世界へ行き着いてしまった。
 馴染める瞬間を想像できないくらい違和感ばかりが募るこの時代。現世と私の魂との間にある四百年というひずみが解消された時、あるいはこの肉体の持ち主の痕跡は完全にこの世から消えるのかもしれない。
 頭の中に意識を向けると、私が目覚める瞬間までこの時代に地に足をつけて別の人間として生きていた肉体の記憶が流れ込んでくる。
 いるはずのない人間に存在を上書きされてしまった哀れな少女。気の毒だとは思うけれど申し訳ないとは感じない。奪い奪われることは世の常だ。財であれ命であれ──名前であれ。
「よお! 俺はコガネ! この結界の中では──」
 死滅回游の窓口となるらしき珍妙な使い魔は、私を私ではなくこの肉体の名前で泳者として登録した。肉体の持つ名前が優先されるというのが死滅回游における取り決めらしい。借り物の肉体で現世に立っているのだということを思い知らされて居心地が悪くなる。
 海の見える道を歩いていると、不意に肌がチリチリと刺されるような変わった呪力を感じた。私のよく知った呪力だ。運がよければ時を越えた先でまた会おうと挨拶をして共に呪物化して──こうして再び巡り合えたことは僥倖だ。私は呪力を感知した場所へと駆け足で近付いていき、橋の手すりの上に座って長い棒を肩にもたれさせている彼へ呼び掛ける。
 生前、慣れ親しんでいた彼の名で。
「──■■!」
 呪物化する直前に最後に見た彼の姿よりも髪色は鮮やかな浅葱色で、肌は張りがあって艶がよく、若々しい生気が満ちあふれている。若返っているのは私も同じことで、声を掛けてしまってから私が私であることに気付いてくれるだろうかと不安になった。しかし、ゆっくりと振り向いた彼の顔は凪いでいたのでその心配は杞憂だったのだとわかった。間合いに入るやいなや拳が飛んでこなくてほっとする。
 近付いてみれば、彼からは血と、焼け焦げたような匂いがした。
「よぉ、オマエか。久しいな」
「そうだね、久しぶり──ねえ、もう殺してきたの? 目覚めたばかりでしょ?」
「いつやり合おうが俺の勝手だろ。たかが五人ほどだ。大したことじゃない」
「そういうとこ、ほんと昔から変わらない」
「オマエの小言もな」
 ひょい、と小さく飛んで橋の手すりから彼が降りてくる。昔の──それも、出会ったばかりの若い頃と同じ顔で見下ろされているのはなんだかむず痒い。お互いにしわくちゃに年を取った姿を知っているのに、今向かい合っている私と彼はすっかりいい歳の男女なのだった。
「■■、これからどうす──」
 再び彼に昔の名で呼びかけると、彼は眉間に皺を寄せつつ手を振って私の言葉を遮った。
「その名はやめろ。今は鹿紫雲だ」
「──それ、肉体の名前?」
「ああ。鹿紫雲一。悪くねぇ響きだろ」
「そうかなあ」
 馴染みの無い音で彼を呼ぶのは私にとっては違和感が強すぎる。
 唇を尖らせる私をよそに、鹿紫雲と名乗った男は無造作に棒を肩に担ぎ上げる。そして彼はぶらぶらと遊ばせた足で地を蹴り、空を見上げた。
「死滅回游にはこっちの名前で登録されてる。ってことは、こいつが今生での俺の名前ってことだろうよ」
「未練は無いの? 自分の名だよ?」
「別に、名なんて自分と他とを見分けられりゃなんだっていい」
 平然と言ってのけるこの男は、生前の自分と今の自分を別の存在として分けて識別したいと考えているのだろうか。
「そりゃ確かに私たちは、戦で手柄を立てて名を上げて──みたいな真っ当な生き方のできなかった日陰者だけどさあ」
 私は自分の手のひらに視線を落とした。自分の形をしているのに、これが自分の手だと言い切ることには抵抗を感じる。白くしなやかで、血に染まったことも誰かの首に手をかけたことも無さそうな、綺麗な手。
 既に存在を上書きされた誰かの手と名前を使って、私は新しい時代の戦いに身を投じ、たくさんの命を屠るのだろう。鹿紫雲と名乗る男と共に。
「不服そうだな。今からでもお天道様の下を歩きたいってんなら俺は止めねぇよ」
「冗談。そんな中途半端なつもりでアンタについてきたわけじゃないもの」
「──ハッ。そうだな。オマエはそういう女だ」
 鹿紫雲はそう言って不敵な笑みを浮かべた。名前や肉体が変わってもその勝気な表情は生前と変わらない。恐れを知らない、越えられない壁があるなんてことを思ってもみないような、活力に満ちた顔つきだ。
 新しい名前を堂々と自分のものとして背負って生きる。それが彼なりの真心なのだろう。彼は鹿紫雲一として人生を再始動しようとしている。一度目の人生では満たされなかったものを今度こそ満たすために──彼が求めるものが何なのかは、生涯共に戦っていた私にもわからなかったけれど、この二度目の人生でそれが見つかればいいと心から思う。その瞬間まで彼の隣で戦い、彼の満足を見届ける──それが私の、今生に懸ける願いだ。


2023/10/30
#ju夢ワンドロワンライin恋呪百花参加作品
お題:二度目の人生【しなる/世界の光/真心】

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