あなたが見ている夏の空



 雨が降ると決まって雨宿りにやってくる鹿紫雲さん。お侍さんではないけれど戦に行ってばかり……と言うと乱暴者のようだし、物腰からも荒っぽい印象を受けるけれど、彼本人は優しくて細かいことを気にしなくて……自分のことには自分で責任を持つ、器の大きな人だ。彼のことはわからないことばかりだけれど、信用できる人だということはわかる。
 鹿紫雲さんと話すのは楽しいし、彼が来てくれると弟や妹たちも喜ぶ。最近の私は雨が降るのを心待ちにしてしまっているようなところがある。

 夕方になって急に空に分厚い雲が立ち込めて、それから大雨が降り出した。この暑い季節にはよくあることだ。私は弟や妹たちと一緒に家の中で過ごしながら、家の扉が叩かれるのを待っていた。夕餉の、雑穀と野菜でかさ増しした粥は、家族のぶんよりも多めに作ってある。
 やがて──雨粒が家の壁を打ち付ける音に混ざって、力強く戸を叩く音が響いた。私が足早にそちらへ向かって戸を引くと、待ち焦がれていた人が全身びしょ濡れで立っている。
「鹿紫雲さん……」
「よぉ。また邪魔していいか?」
「もちろんです。どうぞ」
 ペタリと垂れた髪の先からポタポタと水を滴らせる鹿紫雲さんは、土間で髪や着物を硬く絞ってから板の間に上がった。私は奥から手拭いや着替えを持ってきて彼に手渡す。随分と前に戦に巻き込まれて死んでしまった私の兄が使っていた着物は、今ではすっかり鹿紫雲さん用だ。
 鹿紫雲さんは着替えを受け取りながら、控えめに頭を下げた。
「わりぃ。急に降ってきたんで土産が用意できなかった。明日なにか獲ってくる」
「そんな、いつもたくさんもらってるんですから……気にしなくていいのに……」
「タダで宿と飯だけ頼むってわけにはいかねぇだろ」
 毅然とそう言って、鹿紫雲さんは勝手知ったる足取りで奥の小部屋へ向かっていく。足元に弟たちが群がろうとするのを、着替えてくるからちょっと待ってろ、と慣れた様子でいなして。
 気づけば不思議と長い付き合いになっているのに、あくまで対価と引き替えに雨宿りをするだけの客人という立場を崩そうとしない鹿紫雲さんの振る舞いには、彼のまっすぐな人間性が表れているのだと思う。そんなところが私は好きで……ますます惹かれていってしまう。
 私は頬が緩みそうになるのを抑えながら、いつもより一人分多い夕餉を用意するために炊事場へ向かうのだった。

 ◆◆◆

 夏の太陽は早くに昇る。まだ弟、妹たちがぐっすり眠っている早朝、私は朝日に誘われて目を覚ました。せっかく早起きしたので朝餉の支度を始めようと、早々に炊事場へ向かう。
 冬場は囲炉裏の火を種火として竈に火を入れるから火起こしの手間はかからないけれど、夏場だとそういうわけにもいかない。私は火起こしの道具を持ってきた。火皿に乗せた燃えさしに、垂直に棒を突き立てて、その棒と紐で繋がっている取っ手の木材を回し続けるとやがて火がつくのだ。
 手元だけの作業とはいえ何度も繰り返すのは骨が折れる。早朝とはいえ暑いし、湿気も多いので火はつきにくい。私は頬を伝い顎から滴る汗を手の甲で拭いながら無心に作業を続けていた。
「なにやってんだ?」
 突然背中から声を掛けられて、びくっと肩が跳ねる。振り返らなくても声の主は鹿紫雲さんだとわかっていた。彼は珍しい青緑色の髪をざっくりと一つに結わえて、着物の合わせに片腕を突っ込みながら、板の間の縁に立って私を見下ろしていた。
「あ……おはようございます」
「はよ」
「今、火を起こしてるところで……これからご飯を作るので」
「ふうん。大変そうだな」
 草鞋を履いて、鹿紫雲さんが炊事場の土間に下りてくる。
「どいてろ」
 言われるがままに鹿紫雲さんに竈の前を明け渡す。手伝ってくれるのだろうか。お客さんである鹿紫雲さんにお願いするのは申し訳ないような気がするけれど、彼はなんでも器用にこなすようなところがあるから、火起こしも私より上手そうだし頼ってもいいかな……と思う気持ちもあった。
 しかし鹿紫雲さんは火起こし器を脇へどかしてしまった。火皿に置いてあった燃えさしだけを掴み取って手の中で揉むように擦り合わせたあと、それを竈にくべていた木材の上に乗せる。
 火を起こしたいのに……彼はなにをしているのだろう? 私が小首を傾げたその時、パリッと軽い音がして鹿紫雲さんの指の先から竈の燃えさしに向かい、素早く光が走った。
 ボッ、と燃えさしに一瞬にして火がつく。そして瞬く間に木材にも火が燃え移って、粥を作るのに十分な勢いで燃え始めたのだった。
「えっ……な、なにをしたんですか? 今……」
 なにが起きたのかまったくわからなかった。私には目を丸く見開くことしかできない。
「見せたのは初めてだったか。これが俺の持ってる、呪力っていう力だ」
「じゅりょく……」
 鹿紫雲さんはなんでもないことのようにさらりと言うけれど、それが普通の人にはできないことだということはさすがの私にもわかる。不思議な人だと思っていた鹿紫雲さんの、不思議がまた一つ増えてしまった。
 鹿紫雲さんは立ち上がって伸びをして、それから後ろに下がって板の間に腰を下ろす。
「戦場では武器になるし、今みたいに火が欲しい時にも使える。あとは魚を獲るのにも便利だ」
「お魚……いつもたくさん持ってきてくれますよね」
 粥に入れる野菜を刻みながら、以前に鹿紫雲さんが籠いっぱいのお魚を持ってきてくれたことを思い出す。あれも不思議だった。鹿紫雲さんは釣り竿も網も持って行かなかった様子なのに、道具を使うよりも大量のお魚をあっという間に捕まえてくるのだ。
 呪力を使う、と説明されても……今、竈に火をつけるのに使った力でどうやって魚を獲るのかまったく想像がつかない。
「昨日なにも持って来なかったぶん、今から魚を獲りに行こうと思ったんだが──」
 意味深に言葉を切る鹿紫雲さん。包丁を握る手を一旦止めて彼のほうへ振り向けば、ニヤリと勝ち誇ったように笑う彼と目が合った。
「どうやってるか気になってる、って顔だな。一緒に行くか?」
「……! はい、ぜひ」
 すっかり見透かされていたのにはびっくりしてしまったけれど、わからないことばかりの鹿紫雲さんのことをまた一つ知ることができるのが嬉しくて、私はすぐに頷いた。
 できた粥を皆で食べたあと、さっそく弟たちに留守番を頼んで鹿紫雲さんと出掛けることになった。川で魚を獲るには、なるべく洗濯などをしに来る人がいない朝早くのほうがいいのだそうだ。

 ◆◆◆

 雨上がりの朝の空気には土と草の匂いがふんだんに溶けていて、畑のあぜ道を歩いているだけなのに深い森の中にいるようだ。しかし森の中と違って遮るものはないので日差しは燦々と照りつけてくるし、そのうえ湿気の多い空気が肌にまとわりついてくる。これが畑仕事の最中であればうんざりしてしまうような夏の暑さだ。
 それでも、鹿紫雲さんと並んで歩いていると不快感が吹き飛んでしまう。いつもは家でおもてなしをするばかりだったから、外で二人きりになれて、私は少し浮ついているのだと思う。魚を捕まえるための籠を持って川を目指して歩く鹿紫雲さんはほとんど喋らないけれど、静かに歩いているだけでも楽しかった。
 やがて目的の川が見えてくる。間違って他の村人を気絶させないように、村からしばらく歩いて離れた場所で魚を獲るのだと鹿紫雲さんは言っていた。気絶ってどういうことだろう……とは思いながら、鹿紫雲さんに続いて川辺を歩く。
「この辺でいいだろ」
 と、鹿紫雲さんは足を止めて振り返った。彼は真剣な顔をして私をじっと見つめる。
「いいな、俺が魚を獲ってる間、川の中は危険になる。いいと言うまで絶対に近づくなよ」
「は、はい……」
 鹿紫雲さんがあまりにも緊迫しているので圧倒されつつ頷くと、彼は満足げに笑うのだった。
「ならいい。そこで見てろ」
 言って鹿紫雲さんは籠を持って川に向かい、着物が濡れるのも構わずざぶざぶと水の中に入っていく。彼はちょうど川の真ん中あたりで立ち止まった。水深は鹿紫雲さんの太ももが半分浸かるくらいまである。
 なにが起きるのだろうとドキドキしていると……鹿紫雲さんの身体が一瞬だけ光ったように見えた。その光は川の水にまで伝わって、上流側にも下流側にも瞬く間に広がっていく。大きな音が鳴ったわけでも、派手な水しぶきが上がったわけでもない。光が一瞬広がっただけだし、それもよく目を凝らしていなければ見逃してしまうようなものだった。
 竈での火起こしで鹿紫雲さんの特別な力を見た時と同じで、なにが起きたのか私にはまるでわからなかった。一瞬のうちに川の水面にはぷかぷかと腹を上にして魚が浮かんでくる。
「もういいぞ。あとは流れてくる魚を捕まえるだけだ」
 鹿紫雲さんは私に声を掛けたあと、右に左に籠を振って流れてくる魚を次々と捕らえていく。私は川のすぐ縁まで足を進めて、鹿紫雲さんの持つ籠があっという間に魚で満たされているのをぽかんと口を開けて眺めていた。
 魚がひとりでに川を流れてくるのを捕まえるだけなんて……! こんな魚の捕まえ方を見てしまったら、地道に釣り竿から糸を垂らして獲物がかかるのを待つのなんて退屈だと思ってしまう。弟が鹿紫雲さんの真似をしたいと言い出さないように、この光景を見せるわけにはいかないな……なんてことを考えた。
 ふと、川の上流から川岸すれすれのところを一匹の魚が流れてくるのが目についた。鹿紫雲さんの籠はここまでは届かなさそうだけれど、私が腕を伸ばせば捕まえられそう。魚獲りに一応貢献しておきたいと思って、私は袖をまくって川辺にしゃがみこんだ。
 川に手を浸すと、冷たい水の流れが心地いい。魚が流れてくる道筋を見ながら、このあたりかな……もうちょっと奥かな……とちょうど捕まえられそうな位置に手を伸ばしていく。
 私の手が届く間際で思っていたより岸から離れてしまった魚を、なんとか両手で掴んだ──と思ったら、
「──あっ」
 魚を掴んだ弾みでずるりと足が滑ってしまった。両手で魚を掴んでいるので川辺の背の高い草に掴まることもできず、前のめりになっていた私の身体は吸い込まれるように水面に倒れ込んで──
「おい!」
 鹿紫雲さんの鋭い声が飛ぶ。私の身体が着水した直後、ぐいっと上半身を力強く引っ張られた。顔がなにか濡れたものにぶつかって、けれども勢いは止まらずそのまま倒れ込む。
 ──ばしゃああああんっ! 激しい水しぶきが飛び散った。
「……!?」
 転んだ私は、助けようとしてくれた鹿紫雲さんのお腹のあたりに顔を押しつけるようになり、そのまま彼を巻き込んで一緒に川に落ちてしまったのだった。鹿紫雲さんが引っ張ってくれなかったら顔から川に突っ込んで、もしかしたら溺れていたかもしれない。
「なにやってんだよ」
「……ご、ごめんなさい。お魚、捕まえようとして」
 声につられて顔を上げたら、鹿紫雲さんの顔がすぐそこにあったのでびっくりした。慌てて身体を起こそうとして、転びながら捕まえた魚から手を離してしまった。
「あっ」
「ハハッ、逃げられちまったな」
 私を助けるために川底に尻もちをついてしまって、胸から下がびっしょりと濡れてしまった鹿紫雲さんは、気を悪くした様子もなく快活に笑い声を上げた。彼にもたれかかるようになっていた私の身体を起こし、支えて立ち上がらせてくれる。川の流れの中で体勢を直すのは案外難しくてふらつきそうになったけれど、鹿紫雲さんが支えてくれたのでなんとか立つことができた。
 鹿紫雲さんは私を川から上がらせて、そのあと引き返して川底に沈んでいた籠を拾い上げた。私を助ける際に籠を放り出したのだろう。中に入っていた魚の重みがあったから、籠は流されずに川底に沈んだだけだったけれど、さっき見た時よりも中身の魚が少ない。獲った魚のうち何匹かは流れていってしまったようだった。
「鹿紫雲さん、ごめんなさい。せっかく捕まえたのに……」
「気にすんなよ。足りなきゃもう一度獲りに行けばいいだけだ」
「い、いえ、これだけあれば十分です」
「そうか? じゃあ、ここに置いとくか」
 鹿紫雲さんは川原の背の高い草を手早く編んで即席の縄を作り、籠を結んだ。そして中身の魚が水に浸るように籠を川に入れる。獲った魚が暑さで傷まないように水につけたのだろう。一連の作業を、私は着物を絞りながら見守っていた。
 手ぶらになった鹿紫雲さんは着物を絞りつつ私のほうへ歩いてくる。
「そっちの日向でしばらく休んで、乾かしてから帰るぞ。着物が濡れたまま歩くのは疲れるだろ」
「あ、はい……ありがとうございます」
 水を含んだ着物は重くて歩きにくい。ただでさえ夏の日差しに体力を奪われるのでなおさらだ。鹿紫雲さんが私の体力を気遣ってくれたのはありがたいけれど、濡れるのが苦手だと言っていたはずの鹿紫雲さんまでびっしょりと濡れているのが私には気掛かりだった。
「でも鹿紫雲さん、早く着替えなくて大丈夫ですか?」
「平気だ。今は雨が降ってるわけでもない。いざとなれば脱いで戦う」
 脱いで戦う……? なんだかよくわからないことを言いながら、鹿紫雲さんは日向でごろんと横になる。つられるようにして私も彼の隣に腰を下ろした。
「鹿紫雲さんはいつも戦いの話をしますね」
 こんな辺鄙な村の外れの川辺で、いったいなにと戦うつもりなのだろう。この頃は戦火の噂は山を越えたあたりでの話しか聞かず、私たちの村は戦火とは無縁で、のどかなものだというのに。
「そりゃあ俺は、戦から戦へ渡り歩く暮らしをしてるからな」
「……」
 今の暮らしが平穏だと思っているのは私だけなのだろうか。不思議な力を持つ鹿紫雲さんの目に映っている世界は……もしかしたら私が見ているものとは全く違うのかもしれなち。
 すぐ隣にいるはずの鹿紫雲さんが、なんだか急に遠い人のように思えてくる。
「……危なく、ないんですか?」
 私にもっと学があれば、なにか気の利いた他のことを言えたのかもしれない。けれども私に言えたのは、そんな答えのわかりきった問いだけだった。
 言ってしまってから、当たり前だ、と笑われるのだろうなあと予想して恥ずかしくなる。けれども鹿紫雲さんはすぐには答えなかった。不思議に思って、空を見上げている鹿紫雲さんの顔を覗き込むと──彼はずっとずっと高く空のその上を見据えるような眼差しをしていた。
「危なくない道を選んでいたら俺は俺でなくなる」
 ──ああ、やっぱり。
 胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
 鹿紫雲さんは、私とは違うものを見て、私には思いつかないようなことを考えて、私には歩めない道を生きる人なんだ。彼の眼差しがまっすぐすぎるから、そのことを痛感させられる。
 雨が降るとやってくる鹿紫雲さんは、雨が止むと去っていく。私と鹿紫雲さんの生きる道は雨によってほんのひととき交わるだけで、全く違う方向に向かって伸びているのだ。
「鹿紫雲さんのやっていることは、私にはできないことばかりなんですね」
 寂しいな、と思う。私は鹿紫雲さんのことが好きだから。ずっと一緒にいて、共に畑を耕して、弟や妹たちの面倒を見て──そんなふうに暮らしていけたらどんなに幸せだろうかと、夢を見てしまうから。
 でも、それは霞のような夢だ。鹿紫雲さんはそういうふうには生きない人で……そんな鹿紫雲さんだから、私は惹かれた。私に都合がいいように彼の生き方が変わることは、私自身が望まない。そのままの鹿紫雲さんが一番素敵だと心から思う。
 私も空を見上げた。高く青く澄んだ空に、背の高い雲が浮かぶ、夏の空。鹿紫雲さんが見ている景色とは違っていても、私は私に見えるものを見つめて生きていくしかない。
 胸の中に生まれた切なさを夏の思い出として噛みしめながら、私は明日からも、雨が降る日を待ち続ける。


2023/9/9

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