応援



※学パロ、弓道部の鹿紫雲先輩


「なに見てんだよ」
「ひっ」
 弓道部の朝練の、自由練習の時間。弓を引こうとしていたところでちょうど隣に鹿紫雲先輩が立ったので、お手本にしようと目を向けていたら、ジロリと睨まれてしまった。
 鹿紫雲先輩はとんでもなく強い。部内一どころか県内随一で、全国大会の常連だ。そんなすごい人の射をお手本にできたらもっと私の射も良くなるのではないかと思ったのだけれど……どうやら私には鹿紫雲先輩を見ることも許されないらしい。
 鹿紫雲先輩は短く息をつくと、その場を退いて弓を引くのをやめてしまった。なにもそこまで気を悪くしなくても……と思っていたら、眉間にシワを深く刻んだ鹿紫雲先輩がずんずんと私に近づいてくる。
「俺とオマエじゃあ体格も腕の長さも随分違う。手本にするより、自分の射に集中しろ。まず、背筋。ピンと伸ばせ」
「は、はいっ」
 鹿紫雲先輩の手が背中をパンッと軽く叩く。途端に身体を天井から糸で吊るされたかのように背中が伸びた。この人の言葉には、なにか、従わなければ恐ろしいことが起こりそうだというような凄みがある。
「腹に力を入れてしゃんと立て」
「はいっ」
「的を見ろ。頭を動かすな。……よし、弓を引け」
「はいっ」
「もっと胸を開く。腕に余計な力を入れるな」
「ひゃ、いっ」
 パンッ、パンッ、とお腹や頭、胸、腕、指摘された箇所が次々と叩かれる。胸を叩かれた時はさすがにびっくりしたけれど、鹿紫雲先輩は射の姿勢を見る以外の意味をまったく持たずに触れているらしい。変な声を出した私に向けたジト目が「なんだこいつ」と告げていた。
「集中しろ。オマエのタイミングで射て」
「……」
 深呼吸。まっすぐ見据えた的に向けて、矢を放つ。
「あ……」
 確かな手応え。自分と的、そして矢が、ごく自然に一直線に繋がったような感覚があった。
「残心まで気を抜くな」
「はい……」
 射の直後に間抜けな声を上げたことを怒られてしまう。けれども矢はしっかりと的を射貫いていた。まぐれじゃない。自分一人で練習していた時の射とは感覚が違った。これまで練習していても掴めなかった感覚が今、やっと掴めた気がする。
 私がぼうっと的中した的を見ていると、鹿紫雲先輩もまた的を一瞥し、それから私に向き直って、ポンと肩に手を置いた。
「今の感覚を身体に覚え込ませろ。そうすりゃ手本なんざいらなくなる」
「はい……ありがとうございました……」
 鹿紫雲先輩の言い方は相変わらずぶっきらぼうだけれど、もう彼は険しい顔をしていない。僅かに細められた目と、少し持ち上がった口角。教えてもらったのは私なのに、鹿紫雲先輩のほうが満足そうだ、と思った。

 その日の昼休み、自分の教室で昼食を食べようとした私は、弓道場にお弁当を置き忘れてしまっていたことに気づいた。鹿紫雲先輩から教えてもらった射の感覚のことで頭がいっぱいで、ついうっかり、お弁当を入れた小さな保冷バッグを更衣室に置き去りにしてしまったのだ。
 お弁当を取りに行って弓道場の扉を開けると──ピリッと肌が痺れた。
 誰もいないはずの弓道場で一人、鹿紫雲先輩が射場に立っている。道着に着替える時間が勿体ないということなのだろうか、上着を脱いだだけの制服姿で、手袋のような弓がけだけを身につけて、矢と弓を手にしていた。
 凛とした背中。後ろ姿から滲む、清澄だけれど威圧的な空気。いつも見慣れているはずの弓道場が、まるで神様の世界のような神聖な空間になってしまったかのように感じられる。
 鹿紫雲先輩が、す、と両足を踏み開く動作ですら、厳かな儀式の一場面に見える。鋭い眼が的を捉えたのだろう、空気がいっそう張り詰める。全身に痺れが走るような緊張感。弓が引き分けられていくにしたがって、重圧がさらに増す。
 弓が最大に引かれる。鹿紫雲先輩の均整の取れた背中の肩甲骨が力強く開かれたのが制服越しでもわかる。矢を放つその時を待つ数秒。そこだけ世界から切り取られたかのように、静か。
 瞬間──軽やかに弦が鳴る。
 矢は一直線に飛び、的中。その飛跡を見据える間、鹿紫雲先輩は微動だにしない。美しい残心。しばらくの間、緊張を保っていた空気が──ゆっくりと弓が倒れたことでふっと緩む。
 やっと呼吸が楽になった──そんな心地がした。
 なんだかとんでもない、恐れ多いものを見たような気がする。とても、忘れ物を取りに来ました、なんて言って弓道場の中に入っていける空気ではない。
 私はお弁当を諦めてその場を離れた。その日のお昼ごはんは購買部でパンを買って済ませた。
 放課後の練習では、朝練の時に鹿紫雲先輩に見てもらった射の型をひたすらなぞることに注力することにする。射場に立った時には、昼休みに見た鹿紫雲先輩の姿を頭の中に思い浮かべた。そうすると普段の練習時より集中力が増すような手応えがあった。
 射の型と、それから集中力のおかげで、いつもより的中率が高い。友達や先輩にも、気合いが入っているね、と褒められた。こんなに調子がいいのは全部、鹿紫雲先輩のおかげだ。
 お礼が言いたい。ちょうど鹿紫雲先輩が弓道場の隅でスポーツドリンクを飲んで休憩していたので、私は先輩に歩み寄っていった。
「鹿紫雲せんぱ──」
「近寄るんじゃねぇ」
 怒気を孕んだような凄みのある声と、険しい眼差し。私は凍りついたように動けなくなった。鹿紫雲先輩はふいと背中を向けると更衣室の中に入っていってしまう。今日はもう終わるのだろうか。弱い奴らとはつるまない、と日頃公言している鹿紫雲先輩は練習に出るも出ないも自由だ。その実力のために、先輩を諌められる人はどこにもいないのだ。
 手本にするな、どころか、近寄るな……? 射を見てもらえたと思ったのに、今度は突き放されて、一体なぜ……? 私はしばらく呆然とその場に立ち尽くしてしまった。

 翌日は朝練に鹿紫雲先輩は姿を見せなかった。私の狙いは、昼休みだ。チャイムがなった瞬間に教室を飛び出して弓道場へ向かう。あの厳かな練習が始まるよりも前に鹿紫雲先輩を捕まえないといけない。大丈夫、今日はお供え物を持ってきた。コンビニ袋を片手に、私は校舎の玄関から弓道場までダッシュを決めた。
 扉を開けて弓道場の中に入る。まったくの無人だった。ほっとして、乱れた呼吸を整える。
 私は玄関で靴を履いたまま板の間に腰かけた。大丈夫かな、鹿紫雲先輩は来るかな。急に不安になってくる。先輩はストイックだから、きっと毎日昼休みも練習しているのだと思い込んでいたけれど、もし来なかったらどうしよう。
 そんな不安を吹き飛ばすように、スパンッと勢いよく玄関の障子が開く。身を屈めて弓道場に入ってきたのは爽やかな青緑色の頭だった。
「鹿紫雲先輩!」
「あ? またオマエか……」
 後ろ手に玄関の障子を閉めた鹿紫雲先輩はジト目で私を見下ろして、はぁと溜め息をつく。
「先輩、昨日のお礼に今日は差し入れを──」
「オマエ俺に惚れたの?」
 私の声を遮って、鹿紫雲先輩の冷たい声が降ってくる。
「え、と……」
 ドキンと心臓が跳ねた。惚れたって──好きですって今すぐに即答できるほど、私は鹿紫雲先輩のことを知らない。でも、かっこよくてすごく強い鹿紫雲先輩にはずっと憧れていた。そんな先輩と昨日、急接近したと思えるような出来事があって、浮かれていた気持ちもあると思う。好き……に、なりかけているかもしれない。この場合、なんて言ったらいいのだろう……
 と、私がしどろもどろになっている間に、鹿紫雲先輩がずんずんと距離を詰めてくる。身長の高い鹿紫雲先輩が目の前に迫ってくるのに気圧されて、私は少しずつ後ずさりした。それでも鹿紫雲先輩は近付いてくる。
 背中がとんっと玄関の壁にくっついてしまう。片手を私の顔の前の壁について、覆いかぶさるように迫ってくる鹿紫雲先輩。これは……なんだか、とんでもないことに……! 整った鹿紫雲先輩の顔がすぐ目の前にあるだけで、心臓が口から飛び出しそうなほど大きな音を立て始める。
「惚れてんならこういうのもアリだよな?」
「え……え、ちょ……」
 鹿紫雲先輩が口角を上げる。ゾクリとするような、悪い笑顔だった。
 いつもは美しく弓を引く大きな手が、私の制服の裾から入り込んでくる。インナーの薄い布一枚だけを隔ててお腹に触れる、先輩の手のひらの感触に、全身がかぁっと熱を持つ。
 待って、なんで、こんなことに? 鹿紫雲先輩はなんでこんなことをしているの? こういうのは好きな人同士でするもので、私はちゃんと答えていなくて……鹿紫雲先輩は? 先輩は私のこと、好き、なの? あんな冷たい顔で私を見下ろしてきているのに?
 ぐるぐると思考が混乱しているうちに、先輩の手が制服をすっかりたくし上げてしまう。インナーと下着の肩紐を先輩のごつごつした指が引っ掛けて、肩から抜き去ろうとして──私はぎゅっと目を瞑った。
「チッ……馬鹿じゃねぇのか。なんで抵抗も、逃げようともしない」
 鹿紫雲先輩は大きく舌打ちをして顔を歪ませると、乱れた私の制服を乱暴に引っ張ってインナーを隠した。そしてスッと身体を引き、ガシガシと後ろ頭をかき混ぜている。
「や……その……先輩はなに考えてるんだろうって思ってたら……動けなくて……」
「ハッ。そりゃよかった。なにされてもいいですぅ、なんて甘ったるい声で言おうもんなら即刻退部だ、退部」
 言われたことがあるのだろうか。妙に迫真の声真似でしなを作ったようなことを言うものだから、思わず笑ってしまった。
「おいこら。なに笑ってる」
「……す、すみませ……」
「ったく……いい度胸してんなぁ」
 溜め息をつく鹿紫雲先輩もちょっとだけ笑っている。
 なんとなく、身の危険が去ったような安心感がして……それで気が大きくなっていた。私は改めて鹿紫雲先輩に質問を投げてみた。
「なんで、脅し……みたいなこと、したんですか?」
「あー……俺に惚れてんなら、ひでぇ目に遭いそうになりゃ身を引くだろうと思ったんだよ」
「……彼女はいらない、って感じ、ですか?」
 それにしてはなんだかやることが極端な気がするけれど。
「俺の頭には射のことしかないからな」
 鹿紫雲先輩はふいと横を向き、射場に視線を向ける。
「惚れられても返せるもんが無い。それなのに俺になにかを期待して近寄ってこられても気が散るだけだ。だから、寄ってくる奴は全員追い払ってる」
 ジロリと剣呑な目線が私に向けられる。オマエはどっちだ、と問われている気がした。鹿紫雲先輩の邪魔になるのか、ならないのか、と。
 私はごくりと生唾を飲み込んでから、ずっと手に持っていたビニール袋を先輩に差し出した。
「応援、なら、大丈夫ですか?」
「は?」
「これは差し入れです。梅干しのおにぎり、疲労回復に効きます。スポドリもいつも先輩が飲んでるやつです。どうぞ」
 ずいとビニール袋を差し出すと、先輩はきょとんとした顔で受け取って、中身をまじまじと見た。そんな気が抜けたような鹿紫雲先輩の顔は初めて見る気がする。
「先輩、昨日は射を見てくれてありがとうございました。おかげで調子がいいです。……あの、先輩の邪魔にならないようにするので、応援だったらしてもいいですか? 近寄るな、って言われるのは……寂しいです」
 鹿紫雲先輩は今度はきょとんとした顔を私に向ける。
 そして、その頬がふっと緩んだ。
「……変な奴だな」
 鹿紫雲先輩って、笑うとえくぼができるんだ。そんなことも初めて知った。
「まあ、また射を見てやってもいい。メシ食ったら弓引いてけよ」
「はい……あっ、私、お弁当、教室に置いてきて……」
「ああ? 手ぶらで来るとかふざけてんのか」
「だからっ、差し入れに来たんですってば……」
「ったく……次はメシ持って来いよ」
 次があるんだ。そして、これは暗に一緒にお昼を食べてもいいと言われてる?
 意外と気難しかった先輩の懐に入れてもらえたようで嬉しくて、私は元気よく「はいっ」と返事をするのだった。


2023/10/19
鹿紫雲、弓道部似合う…!

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