贅沢な
※本誌238話未読の方はブラウザバック
モニタールームから見届けた恋人の死闘は壮絶で──その最期は凄惨なものだったけれど、私はそこから目を逸らすことはしなかった。
世界そのものを断つ斬撃の合間から、異形の面貌のその下にある一くんの素顔が満ち足りた笑みを浮かべているのが見えたような気がしたから。
◆◆◆
まぶたの裏に光を感じて目を覚ます。朝──いや、もう昼に近い時間かもしれない。寮の部屋のカーテンのうしろから差し込む陽射しは随分と明るい。
廊下からはドタドタという足音と、金ちゃんが誰かと喋っているらしい声が聞こえてくる。だんだん近づいてきたそれらの音は、私がいる部屋の前を通り過ぎて次第に遠ざかっていった。私はベッドで布団にくるまったままその音をぼんやりと聞き流していた。
本来なら男子寮には女子は立ち入り禁止で、ましてや泊まるなんてもってのほかだ。それに、使っている人のいない部屋で寝るなんていうのも認められることではない。
けれども私は一くんの恋人だからという理由で彼が使っていた部屋で過ごすことを許可してもらっている。
去年の十二月二十四日──あの戦いでは、私たちの誰もがあまりにも大きな喪失を経験した。呪術師は常に死と隣り合わせ。いつ誰が死ぬかもわからず、私たちは皆、不条理な死を迎える覚悟を決めて戦っている。それでも──亡くしたものを悼むことが許されないはずはない。「この子にとっては一ちゃんはすっごく大事な人だったんだよぉ?」という綺羅羅ちゃんの一押しが決め手になって、私は一くんが使っていた部屋を自由に使わせてもらっている。
一くんの部屋といっても──びっくりするほどなにもない部屋だ。ほとんど入寮した時の状態そのまま。着替えや日用品は金ちゃんや綺羅羅ちゃんのおさがりばかり。彼らと違って娯楽用の品も装飾品も一くんは持っていなかった。宿儺と戦うためだけに高専にやってきた一くんは余計なものを持ちたくないと考えていたのかもしれない。そんな彼の唯一といっていい娯楽が、私との恋人らしいひとときだったようだ。
今日でもう一月の最終週。一くんと恋人同士として過ごした時間より、彼がいなくなってからの時間のほうが長くなってしまうだなんて信じられない。私が部屋に入り浸るようになってから何度か洗濯を繰り返したシーツからは一くんの匂いはすっかり消えてしまったし、部屋の空気だってもはや一くんが吸っていたのと同じ空気だとはいえない。
それでもこの部屋で目を閉じれば、二人で過ごした時間がまぶたの裏に蘇ってくる。
「痛くないのか?」
初めてキスした時、一くんは眉間にシワを寄せて神妙に私の顔を覗き込んできたのだった。
「なにが?」
「俺に触れると……刺されたような感じがするだろ」
「あ、呪力で?」
「そうだ。……こういう時は特に制御が難しくなる」
「えー、興奮しちゃうの? かわいいー」
「……茶化すな」
一くんの頭のお団子の間をなでなでした手は、掴んで引き戻された。あの時は案外強い力で引っ張られてびっくりしたなあ、と思い出す。
「大丈夫だよ。私、他の人の呪力を受け流すの得意なの。よく金ちゃんと訓練してたから慣れたんだ」
「そういや、アイツの呪力もザラついた感触をしていたか」
「しかも私、五条先生からも呪力操作の筋がいいねってお墨付きもらってるの。だからね……」
「っ、おい……」
「もっといっぱいくっついて平気だよ?」
ハグをしたのはこの時、私から抱きついたのが初めてだった。思えば一くんは恋人らしいかわいらしいじゃれ合いをしていた時も、あまり私に触れようとしなかった。
触れたら脆く崩れてしまう、だなんて思っていたのだろうか。一くんが人との関わりにあんな寂しさを抱えていたなんて、知らなかった。最後の戦いの場じゃなくて私と二人でいるときに言ってくれたらよかった。私だったら違う答えを一くんに示してあげられた──
──なんて考えるのは、贅沢なのだろう。
わかっている。一くんは私を適当に扱ったわけでも、その場限りの遊びとしてあしらったわけでもない。あんな悩みを抱えて四百年さまようほどに生真面目で実直な彼がそんなことをするわけがない。
「オマエは俺とは違うから──」
決戦を目前に控えて、そう言って私を突き放した一くん。それは、彼なりの優しさだった。
「生きろよ。仲間、ってやつがいるだろ、オマエには」
弱いんだから引っ込んでろよ、くらい言われると思って身構えていた私は思いがけない言葉にびっくりしたし……みんなと過ごした今でもまだ、自分は仲間じゃないと一くんが思っていたことにショックを受けたものだ。
「一くんも、仲間だよ。みんなで一緒に勝たなきゃだめだよ」
「……それができりゃあ、御の字だがな」
一くんの言葉は「みんなで一緒に勝つ」に対してのものだと、その時の私は思っていた。でも彼の抱えた寂しさを知った今では「仲間」に対して言っていたのだとわかる。
彼は本当に──私たちの仲間として歩むことはできないと考えていたのだ。
そんなことはないのに。
だって私は知っている。私に優しく触れる手のひらも、ふっと緩んだ眼差しも。手厳しく、でも丁寧に、虎杖くんや三輪ちゃんたちの体術の稽古をつけてあげていたことも。乙骨くんや真希ちゃんと楽しげに手合わせしていたことも。金ちゃんにパチンコに連れて行かれそうになって日下部先生に怒られていたことだって、綺羅羅ちゃんに奇抜な髪型にされて硝子先生に笑われていたことだって。脹相さんと受肉直後の身体の違和感の話で静かに盛り上がっていたのも、狗巻くんのおにぎり語を眉間にシワを寄せながら解読しようとしていたのも、日車さんに法律の重要性を説明されてあくびをしていたのも、高羽さんのギャグにぴくりとも表情筋を動かさなかったのも──
全部、一くんが一人じゃなかった証拠だ。一くんの周りにはちゃんと人がいた。一くんが不器用すぎて周りが見えていなかっただけだ。この一か月でもそうなんだから、彼が生前過ごした四百年だってきっと、本当は孤独じゃなかったはずだ。
一人じゃないよって伝えたいのに──何度朝を迎えても、もう一くんは帰ってこない。
これがタチの悪い悪夢だったらどんなによかっただろう。
それでも私は──一くんのいない日々を生きていかないといけない。
彼が、生きろよ、と言ったから。
のろのろとベッドの上で身を起こして、私は布団の中から抜け出した。冬の寒くて乾燥した空気がさっきまでぬくもりに包まれていた身体には堪えて、ぶるりと震えが走る。
部屋のドアノブに手を伸ばした途端、パチッ、と静電気が生じる。
まるで一くんが指先にキスをしてくれたみたいだった。
2023/10/10
『贅沢な感情』という曲が本誌後の鹿紫雲夢のイメソンにぴったりと教えてもらって…その通りすぎて気付いたら書いてました。