育児の心得



「おばちゃ〜ん! 直くんがまたおしっこ漏らしたぁ〜、っ、あ痛っ!」
「黙れや! 黙れ! いちいち騒ぐなボケカス!」
「漏らしたの直くんでしょ!?」
「漏らした漏らした言うなや!」
 口ばっかり生意気な三歳男児は幼児とは思えない怖い目つきで私を睨んで、バシバシと遠慮なく殴る蹴るの暴力を振るってくる。
 分家と本家で気が遠くなるくらい血筋が離れているけれど、こんな生意気な幼児が親戚で、しかも仕えるべき家の跡取り候補だなんて……と、子供ながらに呆れたのを覚えている。当時、私は小学校が終わったあと、母の手伝いで禪院家での女中のような仕事をしていた。廊下の拭き掃除は母と私の役目だった。だからトイレを失敗して廊下を汚す直くんのことは嫌いだった。直くんのお世話係の別の女中を呼ぼうとするとすぐ直くんに叩かれたり髪を引っ張られたりするのも大嫌いだった。
 あれからもう二十年以上が経つ。
「ざけんなや。オマエが掃除せぇへんからこないに埃が溜まってしもうてるやん」
「……ごめんなさい、直哉さん」
 さすがにもう殴る蹴るはされなくなったけれど、眼光と言葉の刃はいっそう鋭く突き立てられるようになった。
「でも私、さっきまで入院してて帰ってきたばかりなんですけど、そんなこと言われても」
「はあ? 俺に口答えするん? 偉くなったもんやなあ」
「……ごめんなさい」
 どうやら直哉さんはずいぶんと機嫌が悪いらしい。ここは変に刺激せず、謝ってしまったほうがいいだろう。
「夕飯はオマエが作るんやろな?」
「ええっと……今、フラフラなので……他のお手伝いさんにお願いしようかと」
「舐めとんのか? 飯を作れん飯炊き女になんの価値があるんや」
「……子供を産む価値、ですかね」
 私はちらりと後ろの障子を見る。その向こうでは四日前に出産したばかりの我が子がスヤスヤと寝ているはずだ。
 つまりこの人は、子を産んで退院してきたばかりの女をやれ掃除だの炊事だのと働かせようとしているのだ。極悪非道、女の、母の敵である。
 まあ、そんなことで目くじらを立てていたら、この禪院家では生きていけないのだけれど。
「舐めんな、言うたやろ」
 反論しないと思った私が反論したからだろうか。直哉さんの額にビキビキと青筋が浮かぶ。
「きみがおらんかった間えらい不自由しとってん。戻ったんなら相応に働いてもらわな困るわ」
「そっかあ……直哉さん、寂しかったんですね?」
「はあ?」
「でも大丈夫ですよ、私も子供もちゃんと帰ってきましたから。ね? 直哉お父さん?」
「な……な……」
「パパのほうがいいですか?」
「やかましい!」
 金魚のように口をパクパクさせている我が夫、直哉さん。その顔がおかしくてからかってみたら顔を赤くしてそっぽを向かれてしまった。
「きみ、今夜は風呂で背中流させてやる。誠心誠意謝罪を込めて洗えや。それでチャラにしたる」
「あ、残念。一ヶ月間はお風呂入れないんです。シャワーだけで。ごめんなさい、一緒に入りたかったですね」
「はああ!? 誰もそんなこと言うとらんわ!」
「っ、ふぇぇ、ふぇぇ」
 障子の向こうから聞こえてくる頼りない泣き声。私はバッと後ろを振り返った。
「あっ起きちゃった。パパが大きな声出すから」
「人のせいにすな!」
 私は急いで障子を開け、バタバタと直哉さんと共に部屋に入る。危険がないように物が取り除かれた殺風景な部屋の真ん中では、小さなベビー布団の上で赤子が泣き声を上げている。私はその子をゆっくりと抱き上げた。
「あ〜よしよし。ごめんねえ、パパが大きな声出して」
「っ、だからそれ……!」
「はい。パパどうぞ」
「……! おい! 急に渡すな!」
「ふぇぇ、ふぇぇっ」
「おわ……」
 突然抱っこさせられた、泣き声を上げる赤ちゃん。新米パパには荷が重いであろうその我が子を、直哉さんは放り出そうとはせずにぎこちない手つきで抱っこして、なんとかあやそうと奮闘している。直哉さんにはこういうところがあるからついつい絆されてしまう。なにかと寂しい思いをさせてしまったぶん、直哉さんのことも甘やかしてあげないとなあ、なんて思った。もちろん、赤ちゃんの次にだけど……なんて考えを知られたらまた怒られてしまいそうだ。


2023/9/27
禪院家でだけは育児したくないねって話

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