迅雷、現世もなお 2



 そして私の願いは三日後には叶うこととなる。その日は午後から雨の予報で、私はレインブーツを履き傘を持って大学に行った。講義が終わってアルバイトに向かう時にはどんよりと辺りが暗くなり、小雨が降り始めていた。ベーカリーのレジ打ちをしている間にだんだん雨足は強まってくる。この前のような強い風は吹いていないみたいだけれど、鹿紫雲さんは大丈夫だろうか。
 閉店時間までのアルバイトを終えた帰り道。土手道から真っ暗な川辺へと、傘を手に歩いていく。橋の下に鹿紫雲さんの青緑色の髪が見えた。
 今日もうちで雨宿りしませんかと声を掛けるつもりだった。ぬかるんだ川辺を歩いている途中、突然鹿紫雲さんが雨の中に飛び出してくる。
 え……? と驚いたのも束の間。傘を持っていないほうの私の手首に、ぬちゃりと濡れたナニかが巻きついてくる。知っている感触だった。ゾワリと全身が総毛立ち、悪寒が駆け巡る。思わずパンの入ったビニール袋を取り落としてしまった。
「チィッ!」
 飛び込むようにして私のそばまで駆けてきた鹿紫雲さんは長い棒を振り回して、私の手首に巻きついた黒く長くうねるものを絡め取った。それを力任せに引きちぎる。
 私の腕も一緒に引っ張られて体勢を崩し、傘が手から離れていった。けれども、それを拾わなくちゃなんて呑気な考えは浮かんでこない。本物の命の危機がまたやってきたのだという直感があって、カタカタと身体が震えた。それに比べたら雨に濡れるのなんて些細なことだ。
 本体から引きちぎられた、私の手首に巻きついていた黒いものの末端側はぼろぼろと崩れる。
そしてもう片方はするる……と縮むようにして川のほうへと引っ込んでいった。
「ヒ……ッ」
 水面から覗くそれに、私は息を呑む。
 暗い夜の水面が盛り上がったような丸い頭。ぎょろりと大きくて血走った二つの目。その怪物の身体全体が、私に巻きついてきた海藻か髪の毛のようなもので覆われている。いつだったか見たことのある、海坊主という妖怪の絵を連想させた。ここは川なのに、船に乗っているわけでもないのに、こんなものに襲われるなんて。
「野郎……雨で俺の呪力が制限されることを学びやがったな。狡い真似を」
 鹿紫雲さんが腰を落とし、身体の前で長い棒を構える。
「奴を祓う。オマエは下がってろ」
「……は、はいっ……」
 返事をした私の声は情けなく上擦り、震えていた。
 強く地を蹴って泥を跳ね上げ、鹿紫雲さんがまっすぐに怪物に向かって飛び出していく。迎え撃つように何本もの呪霊の触手が勢いよく向かってくる。鹿紫雲さんはそれを棒で薙ぎ払いあるいは拳で打ち砕き、蹴って撥ね飛ばして、さらに距離を詰めていく。
 横手から触手の第二波が飛来する。鹿紫雲さんは速度を緩めない。しかし触手は鹿紫雲さんの横を素通りして、向かう先は──私 !?
「くそっ!」
 鹿紫雲さんが急旋回し、泥を浴びながら飛び出す。しかしその間にも魔の手は私に伸びてくる。
 逃げなきゃ……! 震える脚を叱咤して、私は走ろうとした。けれども重いレインブーツを履いているうえに、ぬかるんだ泥に足を取られて、身体がふらつく。そこに黒く長いものの先端が迫ってくるのが見えて、咄嗟に身体を捻って避けようとした。
 すると──ズキンっ! 左の足首に鈍い痛みが走る。私はつんのめって倒れ込んだ。幸か不幸か、背中が通り過ぎたあとの空間を呪霊の触手が突き刺す。助かっ……た? 地に転がって泥だらけになったまま顔を上へ向ける。
 バチィッ! 眩い光の矢が私の視界を横切っていった。
 なに? 今度はなんなの?
「そのまま伏せてろ!」
 混乱のるつぼに陥る私を導いてくれるのは鹿紫雲さんの声だけだ。言われるがままに顔を地面に近付けて、目だけで上を見る。下草で遮られた視界を、バチバチッ! ヂィィッ! と何度もジグザグの光が駆け巡り、空気が震える。あれは……雷?
 ざざざっ! 遠ざかる足音が聞こえる。光の出所も離れていくようだ。私はこっそり頭を持ち上げ、草葉の間から鹿紫雲さんの姿を探した。
 ──いた。大きく跳躍して怪物に飛びかかる鹿紫雲さん。彼の背中は小刻みにジグザグに走る光を蓄えている。呪霊のぎょろりとした二つ目のちょうど真上に鹿紫雲さんが飛び乗った。瞬間──強烈な閃光に、視界を灼かれる。
「……っ!」
 堪らずにぎゅっと目を瞑り、顔を腕で覆う。
それでもまぶたの下から叩きつけてくるような激しい光。次いで──ズドオオォォォン! 途方もない轟音がビリビリと鼓膜をつんざく。まるで、すぐ近くで落雷があったような……
 怖くて、そのまま背中を丸めて小さくなっていると、ざくざくと草を踏む音がすぐ近くから聞こえた。
「もういいぞ。終わった」
 声に促されて顔を上げれば、鹿紫雲さんが渋い顔で私を見下ろしている。
 その向こう、川の水面の上にはなにもいなかった。さっきまで大きな怪物がいたのが幻だったみたいに、暗い静かな夜の川の景色しかない。うねうねと動く気味の悪い海草か髪のようなものも、激しい雷や光の痕跡も、なにも残ってはいない。
 あの怪物を鹿紫雲さんがやっつけた……ということなのだろうか。
「さっき足を捻ったろ」
「え、あっ」
 言われるまで忘れていた足首の痛みがぶり返してくる。立ち上がろうとしたけれど、痛みのせいで足に力を入れることができずに尻もちをついてしまった。
「いっ、たぁ……」
「立てねぇのか」
 鹿紫雲さんは私に背を向けて、すっとしゃがんだ。
「おぶされ。家まで送る。怪我の具合も向こうでみる」
「や、そんな……迷惑かけちゃ……」
「オマエに怪我させたのは俺の過失だ。遠慮すんな」
 強い口調に背中を押される。鹿紫雲さんには申し訳ないけれど、確かにこのままでは家まで帰れそうにもないし、こんな遅い時間では病院もやっていない。素直に頼ることにした。
 衣服についた泥を軽く払ってから、鹿紫雲さんの背中に身体を預ける。濡れたTシャツ越しに鹿紫雲さんの広い背中の逞しさが伝わってきた。
「よ、と」
 鹿紫雲さんが立ち上がり、歩きだす。人を一人背負うなんて絶対に大変なはずなのに、鹿紫雲さんの体幹はまったくブレず、姿勢は常に安定を保っていた。
 川原から土手道へ上がる途中でさっき落とした傘とパンの袋を見つけたけれど、鹿紫雲さんは片手で私のおしりを、もう片方の手では自分のリュックと武器の長い棒を持っていて手が塞がっているし、私も鹿紫雲さんにしがみついていないといけないので拾うのは諦めた。
 二人とも雨に濡れながら橋を渡り、私の家を目指す。一度歩いただけの家までの道のりを、鹿紫雲さんは迷いなく進んでいった。ほどなくしてアパートの建物が見えてくる。ドアの前で背中から下ろしてもらい、痛む足を庇いながら立って鍵を開けた。
 ひょこひょこと片足で歩いて中に入って、電気をつけて玄関に座り込む。鹿紫雲さんも続いて入ってきて、後ろ手にドアを閉めた。彼はしゃがんで、レインブーツを脱いだ私の足首をじっと観察する。
「……随分腫れてるな」
 足首はくびれの位置がわからないほど腫れて痛み、じんじんと熱を持っている。
「明日、病院に行ってきます」
「悪かった。俺がさっさと奴を祓ってりゃあこうはならなかった」
「そんな、鹿紫雲さんのせいじゃ……」
「せめてもの詫びだ。今日は俺を足だと思って使え」
「えっ、え……っ、ひゃあっ」
 背中と膝裏に鹿紫雲さんの腕を差し入れられて、抱き上げられる。ちょっと待ってこれは、お、お姫様抱っこ…… !? 戸惑っているうちに鹿紫雲さんがズンズンと廊下を進もうとするので、私は慌てて「待って! タオル!」と制止した。おかげで下ろしてくださいと言うタイミングを失ってしまった。
 抱き上げられたまま洗面所からバスタオルを取ってきて、廊下で二人とも身体を拭いた。しかしズボンの裾に泥が跳ねているだけの鹿紫雲さんはともかく、私は髪や顔も含めた全身に泥がついてしまっているので、このままではあちこち汚してしまう。とにかくシャワーを浴びて身体を綺麗にすることにした。
 ちょっと恥ずかしいのには目を瞑り、部屋干ししていた洗濯物のそばまで鹿紫雲さんに連れて行ってもらって、着替えを用意する。そしてお風呂へ向かった。鹿紫雲さんはそのままお風呂までついてきそうな勢いだったけれど、なんとか説得して洗面所の外へ出ていってもらう。使い慣れたお風呂だし、シャワーを浴びるだけなら片足を庇いながらでもなんとかなる。
 着替えて洗面所から出ると、鹿紫雲さんは廊下の壁にもたれて私を待っていた──なぜか、上半身裸で。
「っ!?」
 しかもそのまま私を横抱きにするものだから、逞しい胸板に直にぴったりとくっついて気が動転してしまう。
「なななっ、なんで脱いでるんですかぁっ!?」
「せっかくオマエが湯浴みしてきたのに、濡れて汚れた服のままで運べねぇだろうが」
「そうだけど……そうじゃなくて……っ!」
 気遣いの方向性がちょっとズレているような気がする。しかし鹿紫雲さんはそれ以上の追及を許さず、有無を言わせない勢いで私を部屋まで連れて行った。
「下ろしてください……マットの上でいいです」
「ここか」
「洗面所からドライヤー持ってきてくれますか?」
「わかった」
「そこのコンセントに差して……」
「ああ」
 既に一度この部屋に泊まったことがあるからか、鹿紫雲さんはお願いしたことはすんなりとこなしてくれる。
「じゃあ鹿紫雲さんもシャワー、どうぞ」
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫です、髪を乾かすだけなので……お願いだから着替えてください……」
「……? わかった」
 首を傾げながら廊下の向こうへ消えていく鹿紫雲さん。自分の逞しい身体の破壊力がわかっていないのだろうか。無自覚って怖い。
 髪を乾かすのが終わってぼうっとしていると、どっと疲れが押し寄せてくる。同時に怖さと足の痛みも。
 捻った左の足首を見てみると、帰宅時よりも大きく腫れているように見えた。ずきんずきんと痛みもひどくなってくる。冷やしたほうがいいのかな。這うようにしてキッチンに行き冷蔵庫を開ける。まだ一生懸命に自炊をしていた頃、大学にお弁当を持っていく時に使っていた保冷剤がそのまま入っていた。自分の不精っぷりにこの時ばかりはグッジョブと親指を立てる。
 保冷剤を足首に固定しておくためのゴムバンドか布かなにかがないかとその辺を探していたら、洗面所から着替えた鹿紫雲さんが出てきた。
「おいこら……なにやってる」
 目を吊り上げた鹿紫雲さんがこめかみをヒクつかせながら大股で迫ってくる。
「あ、足、冷やしたほうがいいかなって」
「動かしたら悪くなるってわかんねぇのか」
 ひょいと抱え上げられ、私は部屋に逆戻り。シャワーの直後でせっけんの匂いのする鹿紫雲さんも攻撃力がやや高めで困る。
「包帯かなにか寄越せよ。下手に動かないよう固定する」
「や……持ってなくて……」
 消毒薬やばんそうこうなどはあるけれど、包帯までは家には置いていない。
「なら、貸してやる」
 と言って、ベッドに座らせた私を残し、鹿紫雲さんは廊下へ踵を返した。自分のリュックの荷物を取りに行ったらしい。すぐに戻ってきた彼の手には、古びた包帯が握られている。
「使い古しだが、洗ってはある」
 そう言って私の前に座る鹿紫雲さんだけれど、私は重要なことに気が付いた。
「待って鹿紫雲さん! 髪! 乾かしてください」
「あ? 後でいい」
「だめですよ。風邪引いちゃう」
「引かねぇよ」
「か、乾かしてくれないなら、暴れます。足すごく動かします」
「……ふ。どういう脅しだよ、そりゃあ」
 堪えきれない、という様子で鹿紫雲さんが小さく噴き出した。腰を上げた彼がドライヤーを手に取ったところを見ると、どうにか私は勝利したらしい。
 鹿紫雲さんが黙々とドライヤーを使うのをベッドの上からじっと眺める。綺麗な青緑色の髪が熱風にあおられてばたばたと揺れている。南の島の海みたいな色だ。……ちょっとでいいから、触ってみたい。
 髪を乾かし終えた鹿紫雲さんは、乱れた髪を手櫛で大雑把に後ろへ流した。前髪を掻き上げる仕草が色っぽくて、ドキリとしてしまう。
「これで文句はないな」
 再び私の足元に座る鹿紫雲さん。あぐらをかいて、高くなった膝の上に私の左足を乗せる。さっきのドキドキが残っていて、髪を乾かす前に同じ体勢になった時よりも緊張した。
 ごつごつした手が私の足首に触れる。ずきん、と痛んで思わず身体を震わせてしまった。
「ぃ……っ」
「痛いだろ。だが少し堪えろ」
「は、い……」
 しゅるりしゅるりと手際よく包帯が巻かれていく。一巡したあと、包帯と包帯の間に保冷剤を挟んでさらに巻きつけ、患部が冷えるように固定してくれた。端を巻いた包帯の内側に折り込んで、鹿紫雲さんは「よし」と呟いた。
「気休めみたいなもんだが、なにもしないよりはマシだ」
「……ありがとうございます」
 パッと離れる鹿紫雲さん。……彼は真剣に私の怪我を心配して、面倒を見てくれているのに、私はそんな鹿紫雲さんにドキドキしてしまって馬鹿みたいだと反省した。
 歯磨きをしたりトイレに行ったりする時に、足を固定していると動いた時の痛みが軽減されることに気付いた。それになにをするのも鹿紫雲さんが手伝ってくれて、勝手に動こうとすると怒る。私の怪我が自分のせいだと負い目を感じてしまっているようで申し訳ない。
 晩ご飯は食べていないけれど、疲労感と痛みのためか、食欲が湧いてこない。今夜はそのまま眠ってしまうことにして、鹿紫雲さんにベッドに連れて行ってもらった。
「鹿紫雲さん……朝までいますよね……?」
「ああ。病院までは連れて行ってやる。どうかしたか?」
「……えと、ちょっと怖くて」
 今は鹿紫雲さんのおかげで気が紛れているけれど、もし夜中に一人きりになったりしたら怪物への恐怖が蘇ってきそうだ。
 鹿紫雲さんはふ、と口の端を緩めて、私の額に手を置いた。
「心配すんな。アイツはもう祓った。オマエの命を脅かす奴はもういない」
 そういえば……と、左手首を見てみる。怪物に火傷のような痕をつけられた場所。しかし今は、手首を返しながらまじまじと観察してみても、そんな痕跡は一切見当たらなかった。
「納得したか? じゃあ、もう寝ろ」
「はい……おやすみなさい」
 リモコンで照明のスイッチを消す。部屋は真っ暗になっても鹿紫雲さんの気配はすぐ近くに感じた。安心して目を閉じる。眠ろうとして、少しでも足の痛みが和らぐ体勢をいろいろと探してみたら、左を上にした横向きに落ち着いた。鹿紫雲さんのほうに背を向けて壁を見るような体勢で、なんだか彼に嫌だと言っているみたいで申し訳ないけれど、いやでもそもそもなにもないし……と、自分でもよくわからないことを寝る直前まで考えていた。
 ──少し、眠っていたと思う。
 どのくらいかはわからない。数分だけかもしれないし、数十分か数時間経っていたかもしれない。ズキズキと痛む足のせいか、急に意識が覚醒した。けれども疲れた体は思うように動かず、まぶたも重くて上がらない。身体は眠っているのに意識だけはあるという、奇妙な状態になっていた。
「……結界に精通した奴を応援に寄越させれば、早く事が済んだはずなんだがな」
 鹿紫雲さんの声が聞こえる。独り言、だろうか。だいぶ上の方から聞こえてくるから、彼はベッドの横に立っているようだ。
「あるいはコイツを川辺に放り出して、手っ取り早くおびき寄せりゃあ良かったか。チッ……普段通りの暮らしを続けさせようとした結果がこれかよ」
 自嘲気味な声。鹿紫雲さんは私の怪我を、そんなに深く気にしているのだろうか。
「ったく、関わらないつもりでいたってのに、気付けばハマっちまったもんだ」
 違う……皮肉っているのは、彼自身に対して?
 頬に熱いものが触れる。ごつごつと筋張って皮が厚い、鹿紫雲さんの手のひらだ。
「怪我が治れば今度こそ終いだ。コイツにはコイツの生き方がある」
 なんでそんなことを自分に言い聞かせているのだろう。
 彼の声がとても優しげで、けれども寂しそうなのは、なぜ?
 わからないことばかりを内包したまま、私の意識は再び眠りの海に沈んだ。
 消し忘れていた目覚ましのアラーム音で目を覚ます。鹿紫雲さんはいつかのようにマットの上で寝転んでいた。夜中に鹿紫雲さんの声が聞こえたのは夢だったのだろうかと、私は自分の頬を押さえる。そこに触れられたような気がする。けれど、微かな記憶以外になんの痕跡も残っていない。
 今日も大学は授業があるけれど、こんな足の状態では学校には行けない。授業を欠席して病院に行くべきだろう。病院の受付開始時間まではまだだいぶ余裕がある。昨夜、夕食を取らずに寝てしまったので、一晩眠って気持ちが落ち着いてきた今はとても空腹だ。朝ごはんを準備することにした。しかしキッチンに立てないので、納豆ご飯とインスタントの味噌汁という簡素なメニューで妥協する。炊飯器のスイッチを押すのも電気ケトルでお湯を沸かすのも、鹿紫雲さんにやり方を伝えてやってもらった。私がしたことはベッドに座ったままで彼に指示を出すことだけだ。
「そろそろ病院に行きますね」
「わかった。乗れ」
 鹿紫雲さんが当然のようにしゃがんで背中を向けるので、私はあわあわと両手を振る。
「い、いえ、大丈夫ですって。タクシーとかで……」
「俺を足だと思えって言ったろ」
 有無を言わせない迫力で睨まれて、ぐうの音も出なくなってしまった。
 私が鹿紫雲さんの背中に身を預けると、彼は軽々と私を背負った。そして私をおんぶしたまま危なげなく靴を履いて玄関を出て、道順を尋ねてくる。彼の歩みは、昨日の夜に家に連れてきてもらった時よりも軽快だった。道行く人々から奇異の眼差しを向けられるのが恥ずかしくて、私は彼の肩に顔をうずめる。今度は汗とせっけんの香りが混ざった鹿紫雲さんの匂いにドキドキして、もっと恥ずかしくなってしまった。
 そうして駅前の整形外科まで徒歩十五分の距離を歩き切る。病院に到着して私を待合室の椅子に下ろした鹿紫雲さんは特別疲れた様子もなく、淡々と受付を済ませてくれた。保険証を提出し、問診票を書き……といった手続きを、隣に座って見守っていてくれる。病院の待合室は高齢者でいっぱいで、皆一様に奇抜な頭をしている鹿紫雲さんをじろじろと見ているけれど、当の鹿紫雲さんはまったく気にする素振りを見せなかった。
 診察の結果、私の怪我は軽度の捻挫ということだ。こんなに痛くて腫れていて、一週間の安静を言い渡されて松葉杖まで貸し出されたのに、軽度扱いされるだなんてびっくりする。もっと大怪我をしていた可能性もあったということだろうか。そもそも、鹿紫雲さんがいなければ私はあの怪物に殺されていたのだろうし……そう考えれば、一週間で治る怪我なんて安いものなのかもしれない。
 家に帰る時もまた鹿紫雲さんにおんぶしてもらってしまった。役目を奪われた松葉杖は哀れに鹿紫雲さんに片手で運ばれている。
「もう大丈夫ですって……杖も借りたんですから……」
「駄目だ。負担をかけないほうがいいに決まってる」
「そんなこと言って、これからも全部鹿紫雲さんに頼るわけにもいかないですし……」
「なんでだよ。頼ればいいだろ。足として俺を使え」
「……どうしてそこまでしてくれるんですか?」
 鹿紫雲さんの背中にぎゅっとしがみついて問う私の頭には、昨日の夜中に夢うつつの中で聞いた鹿紫雲さんの言葉に対する疑問があった。
 優しいけれど寂しげな鹿紫雲さんは、本当はなにを考えているのだろう。
 鹿紫雲さんは少し黙ったあと、
「オマエに怪我させたのは俺の過失だ。それが治って、オマエがオマエの暮らしを送れるようになるまでは見届ける」
 迷いのない声音できっぱりと言い切った。それが鹿紫雲さんの本音……で、いいのだろうか。背負われているために彼の表情が見えないことが、とても悔しい。
 捻挫が治るまでは湿布を貼って患部を固定して、一週間の安静。病院で新しい包帯をもらったので、鹿紫雲さんに借りた包帯は洗って返した。……洗ったのは洗濯機だし、そのスイッチを押したのは鹿紫雲さんだけれど。
 足として使え、と言い切る鹿紫雲さんは私の家に泊まり込んで、言葉の通り本当に甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれた。家電の使い方を教えたら、洗濯や掃除など一通りの家事もやってくれたし、食料品を中心に買い物にも行ってくれる。炊事は苦手だ、とのことで食事は出来合いのお惣菜やお弁当、テイクアウトが中心となったけれど、満足に歩けない身としては大助かりだ。
「お買い物に行くなら私の財布を持って行ってください」
「いらねぇよ。呪霊を祓った分の報酬が出た。金はたんまりある。俺の食い物も買ってるんだから気にするな」
 金欠だからと毎回パンを差し入れていたのが嘘のような大盤振る舞いまでしてくれて申し訳ない。そして鹿紫雲さんが選ぶ食事はガッツリとした丼もの、肉、ご飯系が中心だった。文句は言わなかったし顔色にも出さなかったけれど内心ではパンばかりで飽きていたのだろうか。二重に申し訳なくなってしまう。


2023/7/28


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