同じ穴の狢(前編)



 あたしの目の前で、おっ父は腹にでっかい風穴を空けられて死んだ。
 なにが起きたのかはわからない。強烈な光に目が眩んだ、ほんの一瞬のことだ。あまりにも眩しくて瞑った目を開いたら、おっ父は無惨な姿になって地面に崩れ落ちるところだった。肉が焼け焦げる嫌な臭いが鼻につく。腹に穴が空いたというのに不思議と出血は多くない。大きく見開いてぐりんと白目を剥いた目と、苦悶の叫び声をあげた形のままで固まった口が恐ろしくて、あたしはおっ父の最期の顔を直視することができなかった。
 おっ父が危ない稼業を生業にしていたことはわかっている。ある日いきなり命を落とすかもしれないということも。死というものはどこにでも転がっているんだといつもおっ父に言い聞かされてきた。ただ、それがあまりにも突然に訪れたので、あたしはなにも言えず、動くこともできず、固まってしまっていた。
「おい」
 背の高い物騒な目をした男が、地面に崩れたおっ父の身体を避けるようにしてあたしに近づいてくる。そいつが危険な男だなんてことは百も承知だ。どうやったのかはわからないが、おっ父を殺した下手人はその浅葱色の髪の男に間違いないのだから。
 しかし逃げようにもあたしの身体は恐怖に竦んでしまって言うことを聞かない。あたしには近づいてくるそいつをただ見上げることしかできなかった。
「オマエがこいつの娘か」
 男は長い棒のようなものの先で息絶えたおっ父の亡骸を指す。
 あたしは辛うじて一度だけ小さく頷いた。それが身体を動かすことのできる精一杯だった。
「ふうん」
 興味があるのかないのかわからない相づちを男が返す。そして大股でさらに近づいてきた男は腰を折ってずいと顔を寄せてきた。彼の顔の造形が随分と整っている……ということに気づいたのはもっとずっとあとになってからだ。この時のあたしは怖くて怖くて堪らなくて、綺麗な翡翠色の瞳も血走った狼の眼差しのように見えていた。
「決めた。オマエは俺が拾う」
「……え……?」
 竹林に斜めに夕陽が差し込んで、竹の影が地面に長く伸びている。まるで檻のように。
「先に家へ戻ってろ。俺は奴を弔ってくる」
 と、男が指差したのは動かなくなってしまったおっ父の身体だ。
「おっ父……なら、あ、あたしが……」
「帰れっつったろ。いても邪魔になるだけなんだよ。死体ってのは重いんだ」
 死体、とはっきり口に出されて、あたしの肩はビクンッと跳ねた。初めて言及されたのだ。おっ父がもう帰らぬ人となったということを。それを意識すると今まで両目の奥で涙を押し留めていた堰が決壊し、ぼろぼろと大粒のしずくがあふれ出してくる。
「……っ」
 あたしは着物の袖で顔を覆って男とおっ父に背を向け、一心不乱に駆け出した。家の周りの竹林はぜんぶ庭みたいなもので、どこをどう走っても道に迷うことなんかない。今はそれが恨めしかった。いっそ迷子になってあの男と永遠に会うことがなければよかったのに、あたしの脚は自然と家へと向いてしまっていた。
 雑木林の中にぽつんと佇んでいる、小屋に毛が生えたような建物があたしとおっ父の家だ。おっ母はあたしがうんと小さい時に死んだらしい。今日からはあたしだけの家だ。おっ父はもういないから。家の壁が夕日に照らされて燃えているように見えるのに、扉を開けてみると家の中の空気は真冬の川の水みたいに冷たい。
 土間のすぐ横にはおっ父の編笠と蓑がかかっている。奥の囲炉裏を囲って座布団が二枚敷いてある。家の中の至る所におっ父の存在感が残っていて、走っているうちに引っ込んだはずの涙がまたあふれ出してくる。
 あいつ……浅葱色の頭のあいつが、おっ父を……!
 あたしが家の中で夕餉の粥を作っていて、おっ父が外で薪を割っている時にあいつがやってきた。庭先から話し声が聞こえるのに気づいてあたしはこっそり様子を伺っていたのだ。するとおっ父とあいつは二人揃って雑木林へと入っていった。その後ろ姿になにか不穏なものを感じたあたしはこっそりと後をつけていって……そして追いついたと思った時、あれを目にしたのだ。強烈な光が弾けたあと、おっ父の腹に風穴が空いた、あの光景を。
 だから……家の場所はわかっていても家の中に入ったことがないあいつは、ここにこれがあることを知らないはずだ。
 土間の壁に立てかけておいてある鎖鎌を手に取る。他の農具は納屋に置いてあるけれど、これだけはいつでも手に取れる場所に置いておく。それがおっ父の教えだった。……おっ父は、いつかこんな日が訪れることを予期していたのだろうか。
 鎌の柄を握ってから、どれだけの時間が経っただろう。庭の向こうから小さな足音が聞こえてきた。音はだんだん大きくなってきてあたしの家に近づいてきているのがわかる。あいつだ。間違いない。浅葱色の頭のあいつがのうのうとやってきた。
 鎌を握る手に力を込める。あたしは戸のすぐ横に立ち、息をひそめる。
 殺せ。殺せ。あいつはおっ父の仇だ。なんのためにおっ父があたしにこれの使い方を教えたんだ。今、やるしかない。
 戸が開く。大きな人影が身を屈めつつ家に入ってくる。
 あたしは一目散に鎌を振り下ろした。
「……っ!」
「ふん。ガキのわりには悪くねぇ」
 渾身の力で鎌を振るったのに、男はあっさりとあたしの手首を掴んで受け止め、鎌を奪い取ってしまった。
「っ、この、離せっ!」
 男の力は強く、あたしがいくら暴れようとも振り解けない。男はさほど力を込めていないかのような佇まいでいるのに、あたしの手首はミシミシと骨が軋んで悲鳴を上げている。
「い、った……っ、うう、やめろっ、離せぇっ!」
「これに懲りたら俺を殺そうだなんて無駄なことはやめるんだな」
 涼しい声音で告げた男がぱっと手を離す。十にも満たない子供のあたしでは到底、おっ父よりも上背のあるこの男に敵うわけがない。それを思い知らされたようで悔しさと憎らしさが腹の中で煮えたぎる。 
「俺だって仕置きはしたくねぇ。仲良くやろうじゃねぇか」
「っ、だ、誰が……!」
「美味そうな匂いがする。夕餉の支度か?」
 男はずかずかと土間を進んでいって竈の前に立ち、我が物顔で鍋の蓋を開けた。男が訪れる前にあたしが作っていた粥が入っている鍋だ。麦や粟を混ぜて煮た粥と庭で採れた野菜で作った漬物がいつものあたしたちの食事。慎ましやかな生活をしていたのだ。それを、こいつが、ぜんぶ奪った──!
 男は勝手に椀を手に取って粥をよそっている。それはおっ父の椀で、おっ父の粥だ。オマエなんかが勝手に触るな。
「返せ! このやろっ!」
 さっき痛い目に遭ったのも忘れて飛び掛かるあたしを、男はひょいとよけてしまう。
「ハハ、威勢がいいガキだな」
「うるさい! あたしの飯に触るな!」
「心配しなくてもオマエが食う分はある。オマエ一人じゃ食いきれない分を手伝ってやるだけだ」
「ううう……オマエなんかが……」
 あたしが唸って睨みつけてもどこ吹く風で、男は椀を持って板の間に上がった。囲炉裏の周りの座布団にどかりと腰を下ろして「こっち来い」とあたしを呼びつける。
 もちろん従いたくなんかない。あたしは男を無視して土間に座り込み膝を抱えていた。
 しかし男はなにを思ったか、わざわざ草鞋を履き直してあたしのすぐ正面までやってきて屈み込み──あたしの頭を鷲掴みにした。
「……っ」
 手首を掴まれた時と同様、ものすごい力だ。最初は耐えようとした。けれどもあたしの頭の骨がミシミシと悲鳴を上げている。このまま頭を握り潰されるんじゃ──!? 本能的な恐怖がゾワリと背筋を凍らせて、あたしはついに我慢の限界を迎え声を上げてしまった。
「い、いたい……っ、離せ……!」
 すると男はあっさりとあたしの頭を解放した。土間に倒れ込んだあたしに、男は背中を向けて声を投げてくる。
「来いっつったら来い。飯も持ってな」
 まだ頭がズキズキする。眩暈がして姿勢を整えられない。死の危機を感じた心臓は今までにないほど早く激しく鼓動を打っている。
 言うことを聞かなければ頭を潰すと脅されたのだ。男のことは憎くて仕方がないけれど死の淵を覗いた今は我が身可愛さがすべてを凌駕してしまい、立ち上がれるようになったあたしは急いで水がめに走り寄って手の汚れを落とし、自分の椀に粥をよそってドタバタと囲炉裏の横に座った。
「いいか、オマエは今までと同じ暮らしを続けろ」
 男は箸をあたしに突きつけてそう告げた。
「あいつと暮らしてた通りの生活だ。飯作って食って寝て──ってとこか? 他にどんなことしてたかは知らねぇが、助けが必要なら俺に言え。あいつの代わりだと思えばいい。俺は乞われたこと以外は勝手にやるから気にすんな」
「……」
 あたしにはこくこくと頷くことしかできなかった。頭に残る痛みと真新しい恐怖がそうさせた。
 要するにこの男は、あたしに飯を作らせたいのだろうか。そしておっ父の代わりにここに住む──?
 ふざけるな。冗談じゃない。オマエの顔なんか見たくない。でも反抗すればあいつはまたあたしの頭を潰そうとして脅すのだろう。なんて奴だ。
 やっぱり──殺すしか、ない。
 粥を食べ終わって片付けをしていたら男は勝手に布団を敷いて寝そべっていた。あたしには背中を向けているのであいつが起きているのか寝ているのかよくわからない。でも、寝ているなら好機だ。
 あたしは鎖鎌を手にそろりそろりと男ににじり寄る。男は動かない。首に狙いを定めて鎌を一直線に振り下ろした──が、またもや手首を掴まれて鎌を奪われてしまった。
「くそっ! 離せ!」
「懲りねぇ奴だな。だが、筋はいい」
 あたしの手首を捻り上げてなにが楽しいのか、男は満足げに目を細めている。
「突っかかって来られるのは面倒くせぇと思ったが、まあいいか。気が済むまで殺しに来いよ」
「……っ!」
 なんて言い草だ。言外に、あたしなんかじゃこの男を殺せるわけがないと言っているのだ。あっさりと鎌を解放したのがそれを裏付けている。
 許さない。絶対に殺してやる。おっ父を殺して、おっ父の代わりのようにあたしの家に転がり込んできたこの男は、あたしが殺す。必ず仇を取ってやる。
 布団を敷いて寝ろと指示されたので従うふりをしながら機会を探る。家の中に漏れ出てくる月明かりを頼りに観察していると、囲炉裏を挟んで部屋の反対側で寝ているあいつはさっきからピクリとも動かず、深く寝入っているように見える。
 いろんな感情が渦巻いて眠れないあたしに巡ってきたまたとない好機だ。あたしは寝床をこっそり抜け出して鎖鎌を手に男に襲いかかったが──翡翠色の目はパチリと見開かれ、鎌の刃先はどこにも届かず、またもや男の手に受け止められてしまう。
「くそっ!」
「寝込みを襲うには工夫が足りない。もっと油断させねぇと……って、ガキには無理か。そういうのは女の身体になってからだな」
 馬鹿にするように吐き捨てて、ぽいっとあたしの鎌を放り投げる。
 結局その夜はいくら機を伺っても鎌の切っ先を男の喉に突き立てることは叶わず──朝を迎えてしまった。あたしは頭蓋骨を握られて脅され朝餉を作り、いつも通りに畑仕事をこなすことを強要され、また夕餉の支度をして、食べて、寝て──朝が来る。あたしと、親の仇である男は、そうしてなし崩しに一緒に暮らし始めた。
 男の名は、鹿紫雲一という。
 鹿紫雲はおっ父と同じような危ない稼業を生業にしているらしい。時々ふらりといなくなったかと思えば血の匂いをさせて帰ってきて大量の銭を寄越してくる。人を殺して銭を得る裏稼業。おっ父と同じだ。俺が人に与えた死はいつか俺のところへ返ってくる。それがおっ父の口癖だったのに、おっ父よりも遥かに多くの死を振り撒いていそうな鹿紫雲のもとに死が跳ね返ってくる気配はまるでない。
 あたしはもちろん鹿紫雲と暮らすことには不満しかない。どうやったらあいつを殺せるだろうか。そればかりをいつも考えていた。
 飯を作る最中には包丁で、草刈りをしている間には鎌で、土を耕している時には鍬で、あらゆる手段で殺そうとしてみたけれど、あっさり受け止められてしまう。寝ている鹿紫雲の首を絞めようとしても「力が弱すぎる」と笑われるだけだし、水浴びの最中に顔を川に沈めてやろうとしても反対にあたしが川に投げ込まれるだけで終わってしまった。
 鹿紫雲は頼み事があれば言えと言ったがあたしはあいつに頼りたくないので、今までおっ父がやっていた薪割りも畑仕事も全部自分でやっていた。はじめは斧を持つだけでよろめいていたけれど次第に力がついて、あたしの腕は太くなり手の皮は厚くなり、立派に薪を割れるようになった。
 それでも、あたしが木ではなく鹿紫雲の頭をかち割ってやろうと斧を振ってもあいつは簡単に受け止めてしまって「いい身体になってきたな」なんて言って笑うのだ。馬鹿にしやがって!
 来る日も来る日もあいつを殺そうとし続けて──三年ほど経った。
 今年の冬は随分と厳しい。家の周りには、見たこともないほど深く雪が積もっている。一日でも雪かきをサボれば家に出入りできなくなりそうだ。それほどの厳しい寒さだから、夜の冷え方も尋常ではない。できる限り囲炉裏の傍に布団を寄せて、何重にも布を身体に巻きつけて寝ても身体が氷のように冷たくて寝つけない。
 あたしが震えていると、突然、あたしを包んでいる布が剥ぎ取られて極寒の空気に身体が晒された。鹿紫雲があたしの首を引っ掴んでぐいと身体を起こさせる。
「なっ、こ、この馬鹿っ! 離せっ!」
 ジタバタもがいても相変わらずこの男の力の強さには敵わない。鹿紫雲はあたしの首を掴んだままずるずると引きずっていく。あんまりにも乱暴な扱いに、腹に穴が空けられるのを覚悟した。
「今日は殺しに来ないと思ったらオマエ、随分身体が冷たくなってるじゃねぇか」
「離せっ! アンタには関係な、ぁ、っ!?」
 あたしが引きずられていった先は鹿紫雲の布団だった。ぽいと放り投げられて、この男の体温が残っていて温かい布団の上に着地する。すると鹿紫雲も同じ布団に身体を滑り込ませてきた。
「い、いやだ! 来るな!」
「来るなっつってもこれは俺の寝床だ」
「この……っ、じゃああたしが出て行……、あっ! 離せ!」
「凍えそうになってまで意地を張るなよ。こうすりゃぬくいだろ」
 こともあろうに鹿紫雲はあたしを抱きかかえて拘束し、二人の身体をすっぽりと覆うように布をかけた。
「離せって! 殺すぞ!」
「あーはいはい。じゃあ手が出せねぇように捕まえとかなきゃな」
「……!」
 鹿紫雲に抱きすくめられてほとんど身動きができなくなる。腕の中から逃げ出したいのにどうにもならない。この男と自分の力の差を見せつけられているのが憎たらしくて堪らなかった。殺したい男の首に手をかけることもできず、あたしには鹿紫雲の胸に額を押しつけることしかできないなんて。
 でも、鹿紫雲の言う通り、ここはぬくい。氷のようだった手足に体温が戻ってくるのを感じる。なんだか急に涙が出てきた。目からあふれた雫が鹿紫雲の着物に染み込んでいったけれど、あいつはもう寝ているのか、規則正しく胸を上下させるだけでなにも言わない。いつしかあたしも眠りに落ちていた。

 ◆◆◆

 戦友が愛したものならば自分にも慈しめるのではないか。
 鹿紫雲一はそんな考えで子供を拾うことにした。
 戦友、という表現で合っているのだろうか。確かにその男と出会った場所は戦場だったが、その時は敵として出会った。ただ、それまで鹿紫雲と敵対した者どもは皆あっけなく散っていくのに対して、彼はしぶとく何度も打ち合った。自分に比類するほどの並外れた強さを持つ者との邂逅に喜んだ鹿紫雲はがむしゃらに力を解放し──自分の依頼主まで殺してしまったのだから本末転倒だ。
 鹿紫雲も男も互いに依頼を受けて人を守ったり人を殺したりする、カタギとはいえない稼業で生計を立てていた。いわゆる浪人だ。それもだいぶ日陰者寄りの。大掛かりな戦が少なくなり、太平に向かう世の中で、時代に取り残されたかのように血の匂いをさせて戦場を自らの生きる場とする者。鹿紫雲も男もそういう身分だった。鹿紫雲に護衛を依頼した人物は男にとっての殺しの標的であり、それを鹿紫雲が自ら殺したものだから、男は呵々大笑して戦うのをやめた。
 不思議な縁ができたようでそれからも何度か男とは仕事の中で出会った。時には共に雇われた味方として。時には敵として。そうしているうちに顔見知りになり、共に飯を食ったり用もないのにつるんだりするような、戦友になった。
 その男は、少年から青年へと移り変わる頃の鹿紫雲よりは一回り年上だったが、鹿紫雲にとっては歳の差などどうでもよかった。重要なのは強さだけだ。俺と同じくらい強い奴がいる──そのことはたいそう鹿紫雲を喜ばせた。なにしろ周りの有象無象は鹿紫雲が腕をほんのひと振りすると死んでしまうような軟弱者ばかりなのだから。
 血生臭い仕事をこなしながら、たまに戦友とやり合う。そんな日々は充実していた。
 しかしある時、戦友は姿を消した。「守りたいものができた」という言葉を最後に残して。
 鹿紫雲にはそれが理解できなかった。同じくらい強い者がここにいるのに、なぜ背を向けて弱い者のところへいってしまうのか。なにが戦友にそうさせたのか。
 なにもわからず、酒の勢いでぽろりとその不可思議さを口にしたことがある。すると屋台の大将は「お前さんにはまだ愛がわからねぇのさ」なんてことを言うのだ。
 愛。わからないことがまた増えてしまった。
 強者を求めてさまよううちに、ひょっとしたら自分には決定的になにかが欠けていて他人を愛するということが理解できないのではないかという疑念を抱き始めた。
 ある時訪れた村で、外れにある竹林に只者ではない男が住んでいるという噂を聞いて腕試しのために足を運ぶことにした。そこで出会ったのがかつて姿を消した戦友だったものだから、鹿紫雲は戦慄するほどに驚いた。男は少し老けて、鹿紫雲は昔出会った当時の男の年齢くらいに成長していた。
 久しぶりに手合わせをしよう、という話だったのだ。殺すつもりはなかった。それなのに、雑木林の奥に子供の影がちらついた途端に、戦友が「娘にだけは手を出すな!」などと叫ぶものだから苛立って、手元が狂ってしまった。
 なんだそれは。俺の知らない、愛とかいうそれは。オマエはそれを知っているんだな。やめろ、ひけらかすな、俺を置いていくな──
 噴出した呪力は稲妻となって男に襲いかかり、その腹に大穴を穿って絶命させた。瞬く間の出来事だった。
 その一部始終を雑木林の奥で見ていた子供を眺めていたら、とある考えが閃いたのだ。
 戦友が愛したものならば自分にも慈しめるのではないか。
 慈愛を知り、胸にぽっかりと穴が空いたような空虚を埋めることができるのではないか。
 さて人並みに子供を慈しんでみようとはしたものの、前途多難だ。なにしろ子供に慈しまれる気が無い。愛するどころか、殺しにくるのだ。それはそれで面白いのだが。
 鹿紫雲には愛がわからない。あるのは強者か弱者かの尺度だけで、弱い者はすべて弱者として一括りだ。その弱者を愛してみようと考えているのだが、親の仇を愛するわけがない──という機微がわからない。そもそも肉親への親愛がわからず、ゆえに親を奪われたことへの憎悪も悲しみもわからない。強い者が勝って弱い者が死ぬのは当たり前なのになにをそんなに憤るのか、という具合だ。
 ただ、子供が意気消沈していたら慰めてやるべきだろうとはわかる。だから頭を撫でてやったのだが、これも難しい。痛がられて、いっそう怯えられてしまった。
 やっぱり俺には愛するなんてのは難しいな、と再確認するような日々だ。殺しの依頼を達成するほうが余程簡単だ。
 けれども日々、飯を作り、顔を付き合わせて食い、同じ屋根の下で眠っている。それなりに人と共に生きるということをこなしているといえるのではないだろうか。殺しの腕を鍛えてやっているのはいささか筋違いかもしれないが、これは趣味のようなものだ。慈しみを持ってうまく暮らしている──はず。
 ──否。やはりよくわからない。ゆえに鹿紫雲は期限を十年に決めた。戦友が鹿紫雲の前から去って子供をこさえて育てていたのがちょうど十年ほどだからだ。それまでの間、拾った子供を慈しんでみて──なにか自分に欠けていたものを掴めればよし。なにも変わらなければ、もう真っ当な人の道を歩むことは諦める。そう決めた。


20240321

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