「(嗚呼、もう嫌だ…!)」
兵達は汗と共に心の内に愚痴を吐いた。数日前に行われた小規模の戦の折、大将である毛利の計算通りに兵達の数名が動けなかったのが痛かった。戦は勝ちで終わったが、毛利が目零しをくれる筈もない。連帯責任として毛利傘下の兵達は皆、過酷な訓練を課されていた。
ただ訓練が過酷なだけなら、己の為にもなるのだから、そこまで不満は飛び出さないが。いつにも増して兵達の大半がうんざりしていたのは、どっしりと腰を据えて訓練模様を厳しく視察する毛利の傍ら、刀など触れたこともないと云った風の女が、あの氷の面をいとも容易く溶かす様が丸見えだったからである。
正直、駒達にとって、毛利は絶対的な畏れの対象で十分だった。ぴくりとも表情を変えず、厳しいばかりである男。それで良かった。だからこそ無情なことにも耐えられたのだろうとほとんどの兵は思う。
――なにせ、
「いつまでもそこに立っていては辛かろう。我の膝に座るがいい」 「そ、そんな、私は此処に立っていますから……」 「舞雷、よいのだぞ。我に遠慮などするな」 「……では、失礼します…」
どこからともなく毛利が連れて来た女の正体は一体何なのだろうと全員が疑問に思っていたが、まさかこんな答えだとは誰ひとりとも予想していなかった筈だ。 毛利が促した通り膝に座った舞雷は、言われるままにしたものの、恥じらって顔を赤く染めたまま、袖で顔を隠してしまった。それを見た毛利は柔らかく微笑むと、彼女に恥じらう必要はないと云う。
こんな姿を傍で見せられては、兵達は別の意味で酷く疲弊して行くばかりである。 全員が全員、毛利にいつもの鉄面皮に戻って欲しいと切に願っていた。
しかし、兵達の必死の願いも毛利と舞雷には届かない。 恥じらいが勝って膝から立ち退いてしまった舞雷を毛利は慌てて追いかけると、腕を引いて体勢を崩した彼女を抱きとめた。そしてそのまま頬に軽く唇を寄せると、か細い悲鳴を上げた舞雷は腰を抜かしてその場に座り込む。彼女を立たせながら毛利は「すまぬ、すまぬ」と宥め、また膝に座るように促した。
「も、毛利様…私、そろそろ、おいとま致します…」 「何故だ?そなたの家族には老いて死ぬまで働かずとも安泰な額をやったのだ、そなたが帰って働かねばならぬこともあるまい」 「はい…、ですが、私…」 「舞雷……そなたは一生、我の傍にいればよい。望むものは総て与えよう。その代わり、我の傍を離れるな」
生娘の舞雷は、自分をいたく気に入っている毛利の言動に心底参っていた。嬉しいのだが、あまりにも恥ずかしい。 とにかく落ち着きたくて毛利の傍から離れたがったが、毛利はそれを許さない。当然気の弱い舞雷が毛利を相手に強く何かを言える筈もないのだが、ではお傍に…と答えてまた膝に乗るのでは、彼女の恥じらいが限界を迎えてしまう。
このまどろっこしい問答を耳にしていた兵達は、一様に舞雷が帰されることを祈った。とりあえず彼女がこの場から去れば、運が良ければ毛利は自分達を監視するのを辞めて彼女を追うかも知れない。監視が続くとしても、この普段の毛利らしからぬ、言ってしまえば気持ちの悪い毛利の一面が封印されるのなら、それは願っても無いことだった。
「膝に座るのがそれ程に嫌か」 「私には…っ恥ずかしすぎて、とても…っ!」 「……そなたのような可愛い娘は他にない。舞雷、無理をさせて嫌われたくもないからな。我の膝には座らずともよいが、家には帰らず此処にいてくれるな?」 「あ、あの…、毛利様、」 「元就と呼べ」
もう限界だ、倒れてしまう。寧ろ卒倒してしまいたい。兵達は悲鳴を上げた。勿論舞雷も悲鳴を上げた。この場に百人はいたが、冷静だったのは毛利ただ一人だった。
「も、毛利様はお仕事がありますから…」 「そんなものは早急に切り上げる。…よし、全員下がれ!……これでよかろう?家族が気になるのなら明日、我が同伴しよう」
此処に来て、兵達は思わぬ僥倖に浮かれた。一刻も早く帰って欲しいと思っていた舞雷のことを、まるで女神か何かのように錯覚した程だ。 毛利が舞雷に構いながらさりげなく端的に訓練を終わらせたので、兵達は今までにない機敏さでその場を後にした。あまりにもあっという間に静かになってしまった場所で、舞雷はまた二人きりという状況に怖気づく。
「わ、わ、私……っ」 「もう食事も部屋も用意させた。否とは言わせぬぞ、舞雷」 「………(ど、ど、どうしよう…)」
その頃の兵達。
「あの娘がいると毛利様は気色悪・いや、なんだか様子がおかしいが、いてくれると平和だよな」 「最初はどうなることかと思ったけど、案外毛利様、優しくなったりして?」 「それなら傍で好きなだけあの娘を可愛がっててくれて構わないよな」 「うんうん、やっと毛利軍に平和がくるのかー!」 「長曾我部のところみたいな関係になったらいいな」 「お、それいいな!」
(※ならなかった)
氷が微笑むのは貴女だけ
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