どこからかやって来た薄汚れた野犬が、ぐるぐる喉で唸りながら城内を闊歩しはじめたのは何時頃からか。兵や女中たちの間でこの“猛犬”の噂が流行り始めた頃、そういえば少し前に城内の散策をと自室を出た半兵衛様のことが気にかかった。

「早急に刀を寄越せ!あの汚れた犬を殺す!斬って棄てる!!血と肉にして撒いてやるッッ!!」
「…………」
「私の自室から刀を持ってこいと言っている、走れ舞雷ッッ!!!」
「…はい……」

……気にかかったのだが、私は特に何もしようとしなかった。たかだか迷い込んできた獰猛な野犬程度、豊臣の兵たちが畏れるまでもなく、当然半兵衛様を私如きが心配する必要はない。
寧ろ戦う術を持たない我々女中や文官たちのことを案じながら書庫へ向かう足、三成様が拳で気絶させた例の猛犬を指さしながら、私にがなり立てたのだった。

仕方なく小走りに先程自分が出てきた部屋に戻りながら、全く止めて欲しいものだと考える。
三成様があれだけ憤慨しているということは、あの気の毒にさえ思えてきた猛犬は、どうやら秀吉様か半兵衛様に(後者確立高し)粗相をしでかしたに違いない。言われるままに私が刀を届ければ、意識を飛ばしている犬は確かに血と肉にされて中庭にでもばら撒かれてしまうだろう。
…それを肥料に木や花が育つのはあまり心地の良いものではない。まして、私が手渡した刀の錆びになるのだから。

第一、元々私は三成様ではなく家康様付きの女中なのだ。徳川の女中なのだ。それがどうして、いつのまにか三成様付きにされ、こんな虐殺の片棒を担ぐ羽目になるなどと……。

遠い目をしながらもとりあえず、とぼとぼと重い刀を抱いて戻ると、意識を取り戻した犬が決死の猛攻を仕掛けていた。
どうやら完全に丸腰だった様子の三成様は、獣相手にうまいこと立ち回っていたように見えた。しかし、私が視界に入ると、私を叱ることに熱心になり、迂闊にも左腕に歯が刺さる。嗚呼。

「すぐに誰かお呼び致しますから!」
「辛抱していろとでも続けるつもりか舞雷――ッ!!いいから刀を投げろ!!」
「穏便に、穏便に犬の口を開かせることが出来るお方は……」
「もういいこのまま貴様が殺せ!!どうせ咬みついて離れぬなら貴様の腕でも十分薙げる!」
「やはりここは家康様に来ていただけばきっと犬も大人しく…」
「その刀で大人しくなるのが判らないのか!?」
「三成様のおっしゃることは判りますが、どうしても舞雷めは血を見たくないのです。ですから他の選択を…」
「既に私が血を流しているだろう!!!」

心なしか三成様の怒りの矛先が犬から私に転移し始めているようだが、私は負けるわけにはいかなかった。それも、三成様の左腕に咬みついて離れない気の毒な犬の為。

私たちは一定の距離を保っていたが、焦れた三成様は鬼のような顔で牙を剥きながらこちらへにじり寄って来た。刀を寄越さないのなら己で奪うと。

ならば、逆方向へ走るだけだ。

「待て舞雷――!!」
「ああ家康様、どちらにおられますやら。家康様―」


マヨイイヌ