チッ、と頬に熱を感じた。何か鋭いものが肉を裂いて行ったのだ。それは深いものではなかった。けれど手をやれば指先に赤いものが乗る程度には傷になり、じくじくと痛み出す。

「救いようのない愚か者が」

目の前には、戦地に赴く時の輪刀ではなく、懐刀を持った元就様がいる。その瞬間目を反らしていたので目にしてはいないが、恐らくそれで私の頬を裂いたのだ。

元就様は大変怒っていた。けれど、その理由が判らなかった。
現れるや否や、「我に申すことは」と威圧的に問うて、無いと答えると眉を顰めて「ある筈だ」と言う。

遂には刀を向ける男を前にして、どうして怯えずにいられようか。

「まだ判らぬか。それともしらを切っているのか?」
「わ…判りません、何を言って…」
「………自覚が無いのか」
「…何を怒っているんです……?」

空気に触れると痛みが強い気がして、斬られた頬を押さえながらやむなく聞いた。
元就様は暫し考えるようなそぶりを見せ、僅かに表情を歪めながら、私が男と歩いている様を見た者がいるのだと言った。
心当たりがあるとすれば、あれは、私に道を訊ねただけの名も知らない人だ。

「道を訊ねられただけです、それで案内を…」
「男にか」
「……はい、男性でした」
「舞雷…貴様は、我の物であろう」
「…そうです」
「何をした?」
「え…道を…」
「ふざけるな」

頑なに頬を押さえていた私の腕を強引に掴み、引き剥がし、着物をぐちゃぐちゃにするように抱擁される。そのままどこかを刺されるのではないかと恐怖に駆られたが、懐刀は足元に落ちていた。

「我のものであれば、舞雷…容易に判る筈だと思っていた。その心ならず身まで、総てが我のものだと自覚しているならば、他の男など忌避して然るべきことぞ。だが、出来なかったな」

まるで子供をあやすような声色で耳元に吐き出す元就様は、優しいように錯覚した。錯覚なのだ。今自分を抱き締める腕は優しく温かいのに。

「我が飼うのが一番よい。大きな鳥籠を用意させ、そなたをその中に飼う。それならばよかろう?舞雷。自由にさせた我が悪いのだ」

抱擁を解いて額に接吻した元就様の表情は軟らかかった。声色も実に落ちついて暖かみがあった。嗚呼、けれど錯覚なのだ。優しくなどないのだ。
頬の痛みだけが真実。


籠鳥になる