――雑踏の中男と目が合った。

普通なら、視線が重なっているのはほんの一瞬。反れればそのまま足を止めず歩き続け、数秒後には忘れてしまう。けれど、これは普通ではなかった。
瞬時に視線を反らした直後、舞雷は相手の男の双眸が驚きに満ちていたことを思い出し、また視線を男へ戻した。その男がまだ自分を熱心に見つめているのを視認すると、舞雷は、男と同じように足を止める。

―― 一体、何?

そこにただならぬ“何か”を感じ取り、数名の通行人に肩をぶつけられながら、舞雷は我に返った。
振り切るように顔を背け、半ば躓きそうになりながら歩を進める。このまま見入るように男に倣っていてはいけないような気がしたのだ。

男と舞雷との間にはいくらか距離があった。仕事先に向かう道中のこと、周りは多くの人で溢れている。
引っかかるものはあるが、今振り返っても既に向こうは自分を見失っているだろう。舞雷はそう思って、歩を進めたまま瞼に焼き付いたあの驚愕の表情の意味を想像した。
ほんの十数歩分だけ考えて、大方知人にでも似ていたのだろうと結論を出し、しかしなんとなく、なんとなくだ。ふと軽く後ろを振り返った。

「あっ!」

振り返った瞬間、すぐ後ろについていた人間の胴に鼻をぶつけ、そのまま雪崩れ込むように彼女は転倒してしまった。打ちどころが悪かったのか、衝撃が意外にも強かった為なのか、暫く視界が覚束ないまま「謝罪せねば」と相手を見上げる。
まだしっかりと視界は回復していなかったが、そこに件の相手が歩を止めて立っているのがぼんやりと見え、舞雷は倒れたまま謝罪した。

「すみません、不注意で…お怪我はありませんでしたか?」
「去ったのは何故だ?」
「……はい?」

いくらか怒気を孕んだ男の声が放った台詞は脈絡がなく、舞雷は全く意味を理解できずに眉を寄せる。
彼女の視界にはまだ明快に映らないが、男の方も、彼女が理解しないことを疎ましく思い眉を寄せた。

「…何をおっしゃっているのか……」
「死の間際、私から離れないと約束した筈だ。その後…この世で産まれる場所を選べないのは仕方ない、だが…私を見つけて去ったのは、何故だ?」
「……死…?」
「私を裏切るつもりなのか、舞雷…!」

言葉の総てを理解することが出来ず、舞雷はこれも転倒した所為なのかと考えた。だが確実に視界は良くなっていく。徐々に明瞭になっていく男の姿が、先に視線を絡めた相手と判り、更に「お人違いでは?」と続けようとした自分より先に名を当てられてしまうとなれば。

「あ…貴方は一体……?」
「立て、舞雷。とぼければ私から逃げられるとでも思っているのか」
「い、いえ…さっきから、貴方が何を言っているのか…判らないのですが」
「思えば死の間際に約束させたのも刀を使った。所詮、あの約束もその場しのぎの詭弁だったということか」
「死の間際…?ああ、本当に意味が……今まで死にかけたこともないのに…」
「死にかけたこともないだと?」

舞雷は男に強く腕を引かれるがままに、何とか足に力を入れて立ち上がった。
既にいくらか頭痛を残す程度に回復していて、男の言っていることが正気ではないと悟っている。名前を知られていることには懸念が残るが、彼が一体誰のことを言っているにせよ、自分とは違うと教えるか、逃げてしまわねばと思った。

だが、男はなんと舞雷が「わからない」と答えても、彼女が知らぬふりをしているのだと決め込んでいた。逃げだそうにも、引き上げたままの左腕を掴んだままで、さりげなく振り払おうと力を籠めてもびくともしない。

「お前は一度死んでいる。これが二度目の生だ。これ以上とぼけるのならもう一度突き飛ばす。痛みを思い出せば気も変わるだろう、あの頃もそうだったな」
「や、やめてください…っ」
「頑なに私を拒んでいたが、痛みを知った途端脆くなった」
「何をっ…!?」
「所詮、体に判らせるしかないのだろう、お前には」

ぎりぎりと掴まれた腕を締めあげられ、舞雷は短く悲鳴を上げた。
助けを求めて周りを見回すが、確かに多くの人が未だ自分たちを避けながら歩いているが、気に留める者はいない様子だった。もっと大きく悲鳴を上げて、助けを乞えば、彼らの数名は助けようとしてくれるだろう。だが、それをしてはいけない気がした。

「…安心しろ舞雷、もうあの時のような失態は繰り返さない。お前を失ってから再会までの時が長すぎる。この生はすぐに終わらせはしない、どんなにお前が愛おしくても、次は殺しはしない…!」

――愛おしくて、殺す?

舞雷は此処まで来て、何となく男が口にするシナリオを理解してきていた。
この男は前世の記憶を持つ男。そして、自分との危うい繋がりを持っている。本来ありえないことだが、万一自分にも、男が言うような前世の記憶があったとしたら、あの瞬間…そう、視線が一瞬絡んだあの時に、歩を止めるなんて愚かなことはしなかっただろう。


私を殺したと言う男