地下を脱してすぐ、願った希望は潰えてしまった。
遠く、それも縦縞が景色を暈しながら目に飛び込んでくる晴れ間や曇り、糸のような雨と、闇。それらをぼんやりと眺めながら生きている。

今日は朝から雨だった。

室内に安置された私の鉄檻は、その存在の異様さに見る者を脅かすだろうと思った。
いつも、外の様子が慰み程度に見えるよう部屋の戸は開いている。誰かが目にすれば脱することもできるだろうかと、僥倖を願って格子の隙間から一点を見つめてきたけれど、そこに現れる人影は唯ひとりだった。

やがてしとどに濡れた男が姿を現した。
少し前まではその姿を目にした途端、脱力した体も恐怖に引き攣って肩を張ったものだが、不思議なことに自我らしい自我が失われてしまった如く、私は何も感じなかった。
およそ人らしい扱いならば、かつての地下での幽閉からおかしいのだ。食用の家畜も私よりは自由。この中で、どうやって自分を守っていけるというのか。

「どうして濡れているのですか」

感情の起伏のない淡々とした声が自分の口から逃げていく。
男は室内に入ってから数度こちらへ視線を投げつつ武具を外していたが、私の質問を耳にして動きを止めた。

「お前にはあの豪雨が目に入らんのか?」
「………いいえ」

視界だけではない。勢いよく降り続ける雨は耳にもその豪快さを訴えている。
はじめからこの短い対話に意味などなかったから、互いに雨のことは口にしなくなった。

抵抗する気力も嫌悪も失ってしまい、自由への渇望さえ亡くしてしまった私は、時折妙に胸の奥が淋しくなって、わざわざ男へ話しかけたりすることが多くなった。
だが投げかける言葉の殆どに淋しさを癒す効果はなく、返ってくる言葉も不器用で、すぐに訪れるこうした沈黙が一番苦しかった。

たまらず膝を抱えてまるまると、耳に慣れた音がして、格子が開いた。まず腕に触れた指先は雨で冷えていた。肌に染みる冷たさを、地下を脱したあの日のようだと思って鼻の奥がつんとした。

「何を泣いている…?」

雨の匂いがする。

突如溢れてきた涙の理由はわからなかった。強いて予想をつけるとするなら、私はこの男に歩み寄ろうとしているのかもしれない。かつて己の心を占めていた、この男への負の感情を忘れた今なら、もっとも普通の男女になれると希望を持ったのか。
思うようにうまくいかないことを嘆いての涙ならば、この先ずっと同じことが続くような気がした。

答えない私に、濡れたままの男の手が宥めるように体をさすり、微かに冷たい空気が近づいて唇が額に触れる。
渇いていた私の髪に彼から雫が滴って顔に張り付く。ざあざあの雨が不快な音で頭が割れそうだ。

「まだ私が恐ろしいのか?」

……嗚呼、貴方は地下にいた頃よりずっと優しくなった。けれどそれは、私が自我の殆どを殺してしまったからで、貴方は全く変わらない。いくら歩み寄ろうとしても、貴方はかわしてしまう。貴方が愛と銘打って私に求めるものは、従順さだ。決して逃げず、受け入れるだけならそれでいい。己の愛の証明には、体を求めるのみ。

腕が、雨に濡れた腕が、伸びてくる。


霏々として-続