地味な音を立てて転がった硯と筆が、青い畳を黒く汚す。
すぐ隣で同時に転がった舞雷の袖と白い腕にも飛沫が点々と。更に伸し掛かり、頬を叩いたり髪を引いたりした所為で、墨汁のたまりに舞雷の美しい貌が沈んだ。
慌てて引き起こすと、打たれた衝撃で聊かぐったりしている舞雷の顔は、左側だけが真っ黒に汚れていた。

……ただそれだけだ。墨など水で濯げば落ちる。そもそも、墨を舞雷と共に床に撒いたのは私ではないか。

「ッぐ!」

わかっているつもりだ。こうして舞雷を固めた拳で殴り続けても、何も進展しないことくらい。今舞雷を殴る必要がないことくらい。
それでも無性に何かに腹が立ち、理性は瞬時に縮こまる。愛おしさと憎しみが同時に湧き、衝動は舞雷に痛みを渡す。

またいくらか舞雷を叩きつけた後、暴力衝動は内の深いどこかへ引っ込んだ。
自分のすぐ真下でゼィゼィ重い呼吸を繰り返す女を愛していることは確かだった。まだ渇ききっていない墨が、頬に触れると手に移る。そのことに腹は立たない。先に感じていた憤りの原因が一体何なのか、こうして考えても答えは見えてこなかった。

「……舞雷、私は…」
「…いいえ、何も聞きたくありません」
「………」
「貴方はただ、私が従順でないことに腹を立てただけでしょう。私が人でなければ、これほどにはっきりとした自我がなければ、貴方の心を煩わせることはなかったかも知れませんね」

従順でない?

舞雷は弱っていた。だが、それを感じさせぬよう強い口調で諭すように言ってくる。彼女の言葉を確かめるよう顧みてみるが、舞雷は従順だったように思った。
ついさっき机上の物と同時に舞雷を薙ぎ倒した寸前、私にそうさせた理由は舞雷の反抗か?舞雷は私が望む通りそこにいて、望む通り「愛している」と口にする。つまり理由は謎だ。

「…わからん、お前は従順だった。……それに、人でなければとは何だ?私の心が平穏でないのは確かだが、お前に原因があるというのか?」
「……いいのです、貴方は忘れてしまうから。ただ、私は貴方の傍を離れません。それだけを心の底から信じてくれさえすれば、貴方を煩わせる全てがなくなる」

舞雷がいなくなることを常に思う。例えば執務で筆をとっている最中。舞雷が床に寝る直前に。


ただ喪失を畏れて。