犬に噛まれたことはない。けれど、犬より人の牙の方が恐らく凶暴だ。

染みるような痛みを発しているのは、左手の手首よりやや下部。
血の溜まった傷はそれなりに深いようで、見ているだけで悪寒が走る。

「ぬしのような女子にはさぞ痛かったことであろ」

この傷を受けた時、痛みを感じると共に頭が真っ白になった。
目の前に見えている“男”をはねのけ、必死になって刑部大谷の私室へ逃げ込んでから、どのように会話があって、療を受けることになったのか覚えていない。
包帯で巻かれた両手が私の左腕を包帯で覆うと、かすかに血が滲んできた。

「あれを怒らせるようなことはするなと何度も忠告した筈が…次は何をやった?」

怒らせた?
いや、彼は怒ってなどいなかったと思う。
いつかは軽率な私の言動に神経質だった所為で、単なるその場の別れの挨拶や異性の友人との交流で怒りを買っていたけれど。

「…朝から様子がおかしくて。心配で声をかけたら、何かぶつぶつ言って、私が触れようとしたら…」

苦しそうに頭を押さえていた手が勢いよく伸びてきて、強い力で引き寄せられた次の瞬間、引かれた腕に痛みが走った。その直前、視界は腕に食い込む牙をとらえている。

「太閤の死から三成は不安定、何があったか我にはとんと理解できぬが、ぬしが逃げたことで事態が悪化していないことを祈る」
「どうすれば…」
「……ぬし絡みでは我らの義も吹き飛ぶというもの。してやれることはない」
「………」
「なに、殺されることはないであろ」

腕の痛みと共鳴するように頭まで痛くなる。
このまま匿っていらぬ誤解を招くのはご免だと、大谷さんは私を追い出した。


三成の私室に戻るのは気が進まなかった。
重い足を引きずるように部屋の前までくると、戻った私へ彼がどうするのかが不安でならない。逆に、私がどうしてやればいいのかも判らず、とにかく姿だけは見せてあとは距離を置いて見守るしかないと思った。

部屋へ入ると、三成は本や備品が散らかった畳上で、あおむけに寝ていた。腕で両目を覆っているので表情はわからない。
私が戻ったことに何の反応もなかったので、少し安心して辺りを見回した。逃げ出してからずいぶん暴れたようで、そこら中に斬り傷がある。割れた花瓶の破片と三成の間に鞘と刀が並ぶように落ちている。

「……ねぇ」

放っておくつもりだった。
何が原因かわからないが、冷静でないのなら落ち着くまで何もしないのが一番いいと思うからだ。
けれどどうしてか口が言うことを利かず、さっきのように刺激してしまう恐怖を無視する。

「起きてる?」

少し離れた場所から問うと、しばらく沈黙が耳を傷めた。しかし私が何も言わずにただ佇立していると、鬱屈そうに体を捩った。
私は少しだけ近づく。

「体調が悪い?」
「……」
「熱でもあるの?」
「……」
「病気だとしたら、」
「やめろ、煩い。お前が原因だ」

まだ目を隠している腕はそのまま、歯を食いしばるように喋った三成の声はしわがれていて、心の底から苦しそうだった。
しかし苦しんでいる原因が私だと言われても、こちらには心当たりがない。逃げたことが原因なら朝のあれは何なのだ。
理由がわからないのに無暗に謝るのは怒りを買うと経験している。

「何もしていないのに?」
「…糞……ッ」
「朝から様子がおかしかったのは、何が原因なの?」

三成は心底鬱陶しそうに喉を鳴らした。
けれど起き上がらない彼の傍に寄り、目を隠す腕を掴む。
……もう一度噛みつかれたって構わないと思ったのだ。

すると案外三成は抵抗せず、逆に脱力して私に任せた。腕は当然ずらして頭上へ、放すとくたりと力を失う。それでも現れた目は鋭く細められて、じっと私を見ていた。

「もう聴くな舞雷」
「………」

夢?夢なの?夢の中で私が貴方を苦しめたの?

結局それ以上私から質問を投げることはできなかった。
頭の中で必死に答えてくれない答えを考えてみる。その間、三成は包帯に巻かれた私の左腕に気づいて、滲んだ血をそっと指先でなぞった。

「…お前の血の味がした」
「……貴方が噛んだのよ」


喰い込む牙と悪夢