ガチャンと不吉な音がした。まさかと視線をずらすとそこには倒れたコップ、机上に落ち付かず床にまで滴る液体。この不吉な音と始末の原因は、今ベビーチェアに座らせている我が子の投げた“おしゃぶり”だった。

コップを助け起こすが時は既に遅すぎる。満杯に近かった茶は既に雑巾を必要としている。放置すれば、離乳食を買いに出た舞雷が帰ってきて雷を落とすだろう。
しかしひとまず子供の食事を済ませようと思い、床に出来た水たまりは無視してスプーンに手を戻す。犯人はぼてっとした頬を緩めて、父に掃除を課したことを心底喜んでいるらしい。小さなスプーンに掬ったドロドロの離乳食を口元にやるが、愉快そうに笑う以外に口を開けそうになかった。

「開けろ、食え…」
「う、あぁ」

埒があかない。
口を開けるには開けるが、そこにスプーンを捻じ込むことは容易くなかった。「う」とか「あ」しか言わないが、「ざまぁみろ」と言われているような気がしてくる。どんなに私が奮闘しても、無理やり捻じ込めば途端に耳を劈くような大声で泣き喚くし、優しく言えばきかないし、いい加減お手上げだった。これなら床で静かに雑巾を待っている茶の始末に走った方が幾分も気が楽というものだ。

「ただいまー。あれ?」
「言うな!」

子供に食わせることは諦めて、雑巾で床を拭いているときに舞雷は帰ってきた。ベビーチェアに座っている我が子の正面には量の減っていない離乳食。その傍らで這いつくばる私。舞雷は上手く状況を把握しただろうが、言われる前に制した。情けない事態なのは痛いほど判っている。

状況の把握と共に、舞雷は私の守ろうとしているちっぽけなプライドも察したようだった。
軽くソプラノで笑うとそれ以上は言わず、買ってきたものをさっさと机に並べて、私の諦めたことをする。舞雷が「あーん」と言うと子供の小さな口はいとも容易く、紛うことなく食事のために開かれた。なんだ、一体。

「…今度から買い出しを私がする」
「だめ。育児は一緒にするんだから。三成にも出来るようになってもらわなくちゃ」
「無理だ、私は。今日で察した」
「コップ倒されて、ご飯食べさせられなかっただけでしょ?他にも何かあったの?」
「…言うなと言っただろう」
「あ、ごめん」
「……他にはない」
「じゃあ、心折るのは早いよね。まだ小さいんだから、しょうがないんだよ」
「だがお前ならすぐ食べた」
「気分屋なんだよ、小さい子は。そうだ、三成も甘い声であ〜んて言ってみたら食べるかも。やってみる?」
「わ…、私にやれと言うのか…?」
「三成だって私があーんてしたらご飯食べたじゃない」
「いつのことを言ってるんだ、学生の頃だろう!」
「遺伝してるんだよきっと。ほら、あーんて」
「するか!!」

舞雷はスプーンを私に寄越すが、受け取ってやるものか。私は茶を拭き取るので忙しいんだ。

「あーん」
「あ〜」
「………」
「ん?なに?やっぱりする?」
「しないと言っている!」
「照れ屋だなー」

確かに恥ずかしくて舞雷の前では出来そうにない。が、舞雷の言うことには一理あるような気がした。
まだ外見的にはあまり私に似ているような気がしないが、中身は似たかも知れないだろう。問題は「あーん」をするのが舞雷でなく私という点だ。私だったら、私にされて口を開こうとは思わない。舞雷だからこそ自ずと口を開く。

「……したいならしていいってば。私がいると恥ずかしくてだめ?あっち行ってようか?」
「なっ…!?」
「さっきからガン見してくるんだもん」
「ち、違う!いいからお前が最後まで食べさせろ!」
「…はいはい。あ、三成」
「何だ!」
「雑巾、ちゃんとゆすいでおいてね」
「………ああ…」


パパ