舞雷が勤め始めて二年になる職場は大きな会社だ。やることは典型的な事務仕事が多いのだが、毎日てんやわんやで、そこの課長を務める男とそれなりのロマンスがあり、今では秘めた恋人同士である。ともかく彼女は充実した毎日を送っていた。

「朔、資料を回せ」
「はーい」
「間延びした返事をするでない!」
「すいませーん!」
「…あと茶を淹れてまいれ、何故我にだけ淹れて来ぬのだ」
「あ…そうでした、課長の湯呑割ってしまったので」
「何!?」
「私のですがどうぞ。まだ口つけてませんからね!」
「………」

毛利は仕事は出来るが非情で冷徹な課長である。おかげでほとんどの社員らに恐れられていたのだが、舞雷が入社してからは非常に人間らしい姿を目にする機会が増えて、いくらか課内が明るくなった。

湯呑を割ったのは入社して間もない研修の女性だったのだが、舞雷はさらっと言ってのけた。しかも怒りの矛先をうまく殺いで、彼女のうさぎ耳の立ったユニークで愛らしい湯呑(マグカップ)を渡された毛利は、もう何も言葉が出てこない。

「朔さん、ありがとうございます……!」
「いいよいいよ、課長には極力近づかない方がいいよ。気難しいし、課長のくせに上に顔が利くから怖いから」
「えっ……それって、朔さんは大丈夫なんですか…?」
「私?うん、大丈夫大丈夫。ああいう手合いは慣れてるから!」

給湯室に引っ込んだ舞雷は、割れた湯呑をかき集めていた新人女性にたいそう感謝された。

「…それで、ちゃんと私のうさちゃんカップでお茶を飲んでるし」
「でも機嫌悪いみたいよ、珍しく眉が寄ってるもん。朝から課長の機嫌悪くさせないでよね舞雷…」
「ごめんごめん」
「あんたはその調子ではぐらかせるけど、私達はそうはいかないんだからね」
「ごめんって!」

オフィスに戻れば隣の同僚が小突いてきて、舞雷は苦笑した。もう一度毛利を見やれば、やはり彼は機嫌悪そうに眉を寄せ、まだうさぎのカップを口元に運んでいる。





「お疲れ様です」
「……なんぞ、これは」
「新しい湯呑ですよ。割ってしまったの私ですから。弁償します」
「………」

昼休み。
会社の傍の弁当屋から買ってきたと見える弁当を広げている毛利の前に、舞雷は茶を注いだ新しい湯呑を置いた。今度はうさぎのデザインなどではなく、シンプルで無難なものだ。

「………」
「何ですかその沈黙は…」
「いくらだ」
「え?弁償だからいいですって」
「弁償だと?その言葉を使うべきはあの女であろうが…」
「……気づいてたんですか…」
「ふん」

毛利が無感情な瞳を向けたのは、オフィスの隅で同時入社の女子社員と肩身狭そうに食事をとっている、湯呑を割った女性だ。

「まさか私の知らない間に叱ったりなんてことは……」
「庇う理由が判らぬが、そなたに免じて何もしておらぬ」
「理由が判らないのが凄いですね」
「……何だと?」
「だって、庇わなかったら湯呑を割ったぐらいのことでもクビにするじゃないですか」
「ああ」
「……よく手が回りますね」
「重役共も駒のうち…」
「あー、もういいですその話!」
「…して、舞雷」
「えっ」

交際を密にしている二人は、普通社内では名を呼ばないことにしている。突然名を呼ばれた舞雷は驚いて目を丸くしたが、相変わらず呼んだ方の毛利は冷静な顔だった。

「今日は定時で上がるのだろうな」
「……課長が押し付けて来る仕事の量によりますけど…」
「…増やす予定は、ない」
「なら定時迄に仕上げます」
「よし。我もそなたの定時で上がる」
「あれ、まさか珍しくデートの…」
「それ以上言えば無かったことに・」
「いえいえすいません!行きます、行きます!どこでもお供します!」
「でかい声を出すな莫迦者」
「あっヤバ!」

舞雷はつい大声を張り上げてしまった口を押さえつつ、赤面したままそそくさと席へ戻った。同僚の女性社員は、席に戻るや否や買ってきた菓子パンにかぶりつく舞雷を前に怪訝そうな顔をして、

「何、課長とデート?」
「ゴファッ!」

冗談のつもりでそう聞いた。