軍議か何かの用事で三成様は夕刻になって出て行き、私は部屋に取り残された。
これはまたとない逃亡の機会と思うだろうか。しかし昼に抜け出したのを刑部様に見つかったこともあり、引き摺るのがやっとの錘がついた足枷で両足を繋がれている。

「………」

動けない訳ではない。全力を尽くして這えば、少しずつだが前に進める。部屋を抜け出すことは不可能ではなかった。
けれどこんな姿で城内をのろのろと這いまわったところで、無事安全な所まで逃げ着く筈もない。運よく誰の目にも止まらず、体力も尽きずに城を離れたとて、その後どうすればいい?私のことはとっくに総ての調べがついているだろう。失踪に気づけば、あの三成様は血相を変えて捜索する。豊臣の万の兵士が、城内のみならずそこかしこを調べて回る。その目を掻い潜ることなど出来る筈が無い。
一度は浅はかに逃げ出したものの、よくよく考えれば馬鹿馬鹿しいことだった。

「おや、三成君の寵姫は、ことのほか大人しくしているね」
「ッ…!」

ただ絶望して茫然と座っているだけだった私を、いつの間にか戸を開けて誰かが覗いていた。
顔を向けると半兵衛様が戸に寄りかかるようにして立っている。声色はどことなく柔らかいけれど、決して私を見つめる双眸は柔らかくなどなかった。

この人が此処に立っているということは、三成様が出て行った理由である軍議が終わったということだろうか。
となれば、三成様も近く……いや、私からは見えないだけで、すぐそこにいるかも知れない。逃亡を企てていなかったのに私は身震いして、半兵衛様に返す言葉も見つけることが出来なかった。

「まぁ、その重そうな枷は問題だけど、逃げようと足掻きもしないのはどういう理由だい?まさかこの短期間で三成君に惚れました、なんてことないだろうし。だとしたら、腰が立たないのか、存外に君が非力でその枷を引き摺ることも出来ないのかな?それとも、逃げても無駄だってことに気づいたのかい?」
「あ……、」
「気づいたんだね、賢明だ。せっかくだから僕から助言してあげよう。逃げたって損をするだけだ。君は三成君がやっと気に入った女なんだ、僕も秀吉も彼の味方だからね。君が逃げれば全力で捜索する。拿捕した後で君がどんなに懇願しても、三成君に引き渡す。どんな結果になるかは判っているけど、つまり、僕の言いたいことは判るね?」
「ッ、」
「君を逃がさないよ。そして、君がどんな酷い目に遭おうが、誰も関与しない。痛い目をみたくないなら賢くなることだ」

戸に寄りかかる優雅な姿で吐き出すこととは思えない程、半兵衛様の言うことは酷く私を追い詰めた。

どうして誰も三成様を諭してくれないんだろうか。彼の口ぶりから、三成様がいくらか常人から逸脱した愛情の示し方をしていることを知っている筈なのに、何故?
あんな方法で捉えてきた女が従順に愛し返すなんて誰も思わない。それなのにどうして、あの人に普通の恋の方法を教えてあげないの?

どうやら三成様は戸の近くにはいないらしい。そのことがほんの少しだけ私に勇気を与えて、私を追い詰める男への反論を吐き出すことを助けた。

「半兵衛様は、どうして黙認なさるのですか」
「……何を、かな?ご正室」
「…三成様の、歪んだ愛し方のことです。貴方や他の誰かが諭してくだされば、気づいてくれるかも知れない。今の三成様は私を暴力で押し付けているだけです。それを、貴方は知っている筈なのに」
「……愚問だね」

半兵衛様はずっと軽く笑みを湛えた表情だったが、あからさまに呆れた様子で腕を組んだ。

「誰もが普通である必要なんてないじゃないか。愛し方に差異があったっていいんだよ、間違ってる訳じゃない。三成君の愛し方がたまたま"ああ"だったってだけだ。それに、深く追究すれば純愛だよ、あれは」
「そんな…!あの人はいずれ私を殺―――」
「違うね。それは君の言動の選択が間違っているだけだ。嘘でもただ愛していると言って従順でいれば、あの子は他の誰よりも優しくなるじゃないか」
「だからって、そんな、心にもない嘘なんて…!」

それは判っていた。きっぱりと自分を偽って、三成様にだけ甘い結果を示せばいい。そうすれば彼に怒気を向けられることはなく、ただ壊れ物のように可愛がられる。
けれどその選択を容易く決めることが出来れば、私はとっくに選んだ筈だ。

「君はどっちを騙したくないんだい?自分自身?それとも三成君?」

訳が判らなくなった。酷い頭痛が襲ってきて、目を開けていられなくなる。

返答出来ずに顔を伏せた所で、かたんと小さな音がした。半兵衛様は何も言わず立ち去ったようだった。
入れ換わるようにして誰かが部屋に入り、自分に近づいてくるのが気配で判る。それが誰かなんて今更再認するまでもない。構わず頭を抱えて俯いたまま頭痛に抗っていれば、小さくなった私にその"誰か"が覆いかぶさって、しとどに掻き抱かれる。

「どうした…?」
「……ッ…」

心の底から優しい声だった。
何故か妙に切なくなって、私は泣いた。