恭しく頭を下げて舞雷が吐き出した懇願が、鼓膜を震わせ脳へ届いた。数年前に結ばれてより、今では身分の差など双方忘れて対等に触れ合える筈が、前触れも無くひれ伏した時点で嫌な予感はしていたのだ。当然、悲痛な声で求められた内容は酷いもので、耳にしただけで体中の血の気が引き、思考も停止してしまった。
暫しの静寂が訪れる。まだ思考が正常に働かないうち、舞雷が早々と沈黙に耐えかねて、もう一度おぞましい懇願を口にする。
「近日中に里帰りしたいのです」
「…………」
「…元就様?」
嗚呼、これを大概の男が頓着もなく許すであろうことは察しがつくのだ。
舞雷の強請る"里帰り"とは、この場合離縁ではなく単なる顔見せが目的で、実家もそう遠くはない。馬を出せば半日で移動が済むのだから、長くとも十日もすれば元の生活が戻ってくる。逆にこれを畏れ、拒む方が異常なのだと理解はあるが、舞雷が先んじて態度を変えたことから周知のことであると判る通り、我には無理だった。
二度同じことを口にしたにも関わらず何の反応もないことで、頭を下げていた舞雷は許可なく顔を上げてこちらを窺った。そして見るからに言葉を失くしている夫を前に眉を顰め、そっと立ち上がって距離を詰めた。
「昨日文が届いて、そろそろ顔を見せに来て欲しいとのことでした。思えば長く会っていませんし、たまの文で互いの安寧を察しても、やはり直接会いたく思います、が……」
「………」
「……頼み方の問題ではなかったようですね。もしかして誤解してらっしゃいます?互いに元気な顔を見せ合いたいだけですから、今日出発して、明日の日が落ちる前には戻ってきますし…」
「な……」
「…な?」
「ならぬ…」
そろそろ思考の方も正常に戻りつつあったが、いざ口にしようと思った言葉の殆どは声に出来なかった。
既にすぐ隣にへ来て柔らかく肩を抱いてくる舞雷が愛おしすぎるが故、たかだか一日の留守を赦してやれない。やっと吐き出した拒絶を耳にした舞雷は、それを予想していただろう。だが明らかに落胆した様子を見せて、すっと我から手を離した。その瞬間、絶望的な感情に襲われて眩暈がし、心臓が暴れ出す。舞雷が単に両親の顔を見に出かけられないことに落胆しただけだと判っているが、それでも見放された気分になってどうしようもなく焦るのだ。
「舞雷、そなた……」
「お許しが出なければ出掛けませんよ。なら…近いうち、両親を招いてもいいでしょうか?」
「………」
「……元就様…まさか…?」
「か、快諾は…出来ぬ。悪いがそれも無理そうだ…」
「会うのに元就様が同席でも?」
軽く頷くと、舞雷は困ったように眉を寄せて苦笑した。
そもそも厠へ行かせる僅かな時間が我慢の限界の我にとって、常人にとっての"たかが一日"を快く許せる筈も無い。ならば向こうを招けば良いと舞雷は言うが、いくら同席といえこれにも快諾出来かねる。つまるところ我は異常な域で舞雷を愛している。両親との文のやりとりさえ嫉妬に狂っていつ辞めさせてやろうかと頭を悩ませているのだ。
「ならぬ…やはりならぬぞ!我らの間に他人を招来するなど容認出来ぬ!」
「わかりました、わかりましたから…」
醜く稚拙な独占欲だが、これに支配された己をどう脱すべきか。いや、脱したいとも考えていない。
感情が昂り舞雷を引き寄せ、何処にも逃がさぬよう力強く抱き締めた。諦めたように「もう言いませんから」と諭してくる唇に噛みついてしまいたかったが、この瑣末な出来事で十二分に心を乱された所為で、呼吸が苦しくて暫くは無理だった。


執着か、依存か、児戯か