目が覚めると知らない男が隣で寝ていた。これには、重度の低血圧症に苛まれている私の心臓も一瞬で目を覚まし、まさに全力で血液を体のそこら中に力強く送り込んだ。おかげで青白い筈の肌は真夏の太陽に照らされていたとばかりに血色良く、ついでに脳血管が損傷したような気がした。
どんなに多めに見てもベッドはシングルサイズ。当然酷く距離は近い。跳ね起きると同時にすぐ右側に聳えていた壁に後頭部を打ち付けたが、じんじんと訴えて来る痛みなど自覚している暇はない。冷静になってこの事態に陥ったいきさつを思い出そうとするものの、どうも昨晩の記憶がすぐ出て来ない。あろうことか裸であることを認知すれば、ある程度は想像がついてしまうが。
「(記憶を失くしたということは、イコール酒?外で酔い過ぎて男に引っかかった?いや、私は泥酔しても記憶を失くすタイプじゃないし、硬派な筈だ)」
そもそも飲みに出かけた記憶さえない。いつも通りに仕事を定時で上がり、寄る所はスーパーくらいで後はまっすぐ帰宅の筈だ。夜中に繰り出してハメを外すような年とも言い難い。実に静かで平穏、悪く言えば刺激のないつまらない人生。それで満足していた私への何らかの罰だろうか。
私に背を向けている男の顔は伺えない。私が跳ね起きてベッド上で座っている形になった所為で、掛け布団が剥がれて首筋から背中にかけてのラインが露出している。結構な距離で割と騒々しかっただろうに、男は微動だにせず寝息を立てている。
こうなると頭に浮上してくるのは“脱出”の二文字だけだ。男越しにベッド脇で散らばっている己の服と、部屋の隅にそっと鎮座している愛用のバッグを見つけ、男を跨いで逃げてしまおうと決意する。寝ている男に触れぬようそっとベッドから降り、すばやく服を着て、バッグを掴みがてら玄関に脱兎の如く向かえばそれでいい。外へ出て知らない場所でも、バッグがあれば必ず中に入っている携帯電話や財布がどうにかしてくれるだろう。

さて、妙に慎重になりながら、男を起こさずベッドから降りることに成功した。あとは散らばっている己の服を拾って着てしまえば、計画は限りなく成功に近くなる。
下着を大慌てで着けた頃に一度男の顔を見やると、それは初めて見る顔だったが端整な顔立ちだった。そう思うと現金なもので、今まさに逃げようとしている自分を何かが足止めしてくるのだが、それは数秒で済んだ。
そのまま上手い具合に身支度を整え終え、バッグを拾い、中身を確認することまで順調に進んだ。万一と思い確かめた中身はいつも通りのもので、携帯電話と財布もしっかりと入っている。後は目と鼻の先にある玄関に向かい、内鍵を開け、そっと出ていけばいい。後ろ手にドアを力強く締めようと、裸で寝ている男が追いかけてくるようなことはないだろう。
既にほっとしていたのだが、玄関に辿り着いた所で問題が発生した。いかにも一人暮らしだと云わんばかりの狭い間取りの部屋だったが、どうも普通のアパート等で見る内鍵とは少し仕組みが違ったのだ。此処で瞬間的にパニックに陥り、冷静だったならいくら珍しいとて内鍵程度どうとでも処理できる筈だっただろうに、“静かに”という最低限の条件を無視してしまったのだ。
当然、
「何をしている」
「………!」
ということになる。
ガチャガチャと金属音やドアに衝突する音が響けば、爆睡していた見知らぬ男も目を覚ますのだ。
後ろに立っていた男は、上半身だけ裸のままで恐ろしく冷静に私を見ていた。パニックは治まったが焦りと妙な圧迫感に言葉も出ない。「あ、あ…」と情けなく口を開けたままでいると、実に長く感じた数秒の沈黙の後、男が淡々とした口調でことの説明を始めた。私の狼狽ぶりから全てを察してくれたらしい。
「……ということは、私はまさかの泥酔、逆ナンパ、記憶喪失という酷過ぎる結果に…?」
「実に見苦しかったな。それを家に上げた我も我だが」
「……私、本来そこまでアバズレというわけでは」
「こちらとてそうよ」
「………」
 正直今一つ腑に落ちない部分があるが、そういえば年上の恋人と喧嘩したとかいう理由で、かすがに飲みに付き合わされたような気がしてきた。八つ当たりのように酒を飲ませてくるものだから、酒量にすると今までの人生で堂々の新記録を叩き出したことと思う。この上ない泥酔に記憶が消え去っても不思議ではないし、酔っている人間が変貌するのは常だ。自分とて例外ではない。
何より男がこんな嘘を吐くような人間にはどうにも見えないので、このことは自分の黒歴史としてしまいこむことに決めた。
「まだ細かい所は思い出せない…というか、思い出すのは辞めるし思い出した部分も忘れることにする。だから、貴方もどうか忘れて。なんか、迷惑をかけたみたいだけど…」
「…………」
 此処で男が、私があからさまに苦戦していた内鍵を開けてくれることを期待していた。
「…あの、私これで失礼したいので…」
「……ふむ…」
「……鍵を開けて貰っても?」
まさか、至近距離に現れた男の前で、再び内鍵と戦う勇気はなかった。先程は私の態度から事態を察してくれた癖に、こういうことには動いてくれない男を怪訝には思いながら、申し出てはみたが男は何やら考え込むそぶりを見せて動いてくれない。
「そなた…」
「はぁ…何でしょう?」
「連絡先を教える気はないか」
「…ん?!」
そこまで年ではないが、恋愛から暫し遠ざかっていた私にとっては衝撃的な一言だった。男と女というのはかくもこういう出逢いがあっておかしくないが、少なくとも自分には決して訪れることはないと決めてかかっていたのに。
「わ、私は軽い女じゃないと言った筈ですよ!」
「体のことを言っているのではない。そなたの記憶はまだどこぞへ浮いているのだろうが、交わした会話も要因よ」
「酔っていたし!」
「……面倒な。逐一理由を求めるな、気に入って何が悪い」
「…………」
「そなたが良しと言えば交際、無しと言えば忘れればよい」
少ない恋愛経験の後、ブランクの最中に没頭した恋愛物の読み物や映画に影響を受け過ぎて、自分は崇高な恋愛しか受け入れられない状態になっていた気は正直あったが。若い頃ならこの男の器量だけでヘラヘラ付きまとったであろう自分も、大人になって冷めてしまったなぁとしみじみ感じる。
「もう遊ぶ心の余裕が無いので…」
「遊びとは言っておらぬ。まだ手探りだが、そなたならば良いと思ったのだ」
これを僥倖と捉えるべきか、否か。


アルコールが招く